タマモクロスが激闘を繰り広げたジャパンカップの2週間前、エリザベス女王杯のエピソードが知られている。勝ち馬はミヤマポピー、カブラヤオー産駒で母はグリーンシャトー…タマモクロスの半妹である。ヤエノムテキの片想い相手シヨノロマンを破って表彰台に上がった彼女、その裏には錦野代表の複雑な思いがあった。以下の内容を参考されたし。

残念ながらミヤマポピーは2014年11月をもって用途変更となり、何故か功労馬繋養展示事業の対象馬となることなく消息不明となっている。

 

さて有馬記念に向けたタマモクロスには、美浦の水が合わず食事量が減ってしまい競馬関係者の間で「美浦の水はくさい」と評判が悪かった、スタッフはミネラルウォーターを大量に購入して飼葉を混ぜ合わせて食べさせ、さらに精力剤を飲ませて食欲と体力の快復に努めた。一方のオグリキャップは寝藁までむしゃむしゃし、大変羨まがられたとか。

回避も考えられたというが、王者は挑戦者を迎え撃つ定、ファンの夢をもかなえるべく無理を押していった。

12月15日に追い切りを一旦中止、その2日後に少し復調するも全盛期の力はタマモクロスには見られなかった。オグリキャップのスクーリング(あらかじめ競馬場の環境に慣れさせること)に対抗しようという声も上がったが、「神経質で食の細いタマモクロスにはスクーリングは考えられないこと」「うちだってスクーリングはやりたいが、そんなことができる馬じゃない」と叶わなかった。

 

ファン投票で18万票を集め、オグリキャップの17万票を押さえて1位・2.4倍の1番人気に支持された。オグリキャップ以下に2022年現在函館記念のレコードホルダーでマイルCSを勝利して来たサッカーボーイ、菊花賞を制し若き天才武豊を背負うスーパークリークら3歳勢が続いた。なおオグリキャップ鞍上は河内洋が降ろされ一度きりの条件で岡部幸雄に代わっている。連敗からタマモクロスとの最後の勝負こそ収めたいというオーナーサイドの意見からであった。

すでに対戦済のスズパレードやメジロデュレン、ランニングフリー、レジェンドテイオーの他、「抽せん馬の星」と呼ばれる好走牝馬コーセイや安田記念馬フレッシュボイス、生涯一度きりの追込みで悲劇を招いたマティリアルが参戦した。

岡部幸雄はこの年の夏、鎖骨・肋骨の骨折、肺を損傷する重傷を負い臨死体験するほどの落馬事故から立ち直ったばかりであるが、同月のステイヤーズSを復活優勝し、勢いを取り戻していた。河内は主戦のサッカーボーイに騎乗である。

「有馬記念ではタマモクロス・オグリキャップ・サッカーボーイの3頭を単枠指定する」という宣言の下12月25日有馬記念スタートである…が…

 

枠入り後、サッカーボーイは発馬機内で暴れて歯を折り、鼻血を出したままスタートする状況で、最後方で半ば気絶状態だった。

それをよそに、レジェンドテイオーが逃げ、オグリキャップが中団6番手、スーパークリークがそれをマークした。タマモクロスは調子が悪いままでサッカーボーイとほぼ同じ後方である。

スロー一団のレース状態から意地を見せんとばかりにタマモクロスは大外を一気にまくり、4コーナーでオグリキャップの外に並びかけ、さあ抜こうとするが…ゴール前力尽きてしまい、半馬身差縮まらず2着に敗れた。

レース前に瀬戸口から「4コーナーあたりで、前の馬との差を1、2馬身に持っていって、勝負に出てほしいんや」と指示されていた岡部の巧みな持ち込みに完敗したが、上り最速での大外仕掛にファンは大いに盛り上がったのだった。

3着に中を割ってきたスーパークリークはメジロデュレンの進路を妨害したため失格、気絶から目覚めたサッカーボーイが繰り上げ3着である。

【競馬】[1988年12月25日]有馬記念(GI)  オグリキャップ★芦毛対決★ - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

自宅にいた柴田政人は中継を見て「南井はずいぶん苦労していると思った。引っかかるのを気にしているように見えた。その点、岡部は楽に走っていた。4コーナーで並んだけど、それまでにタマモは随分脚を使ったもんね。ひとまくりだもん。よほど力の差があれば、あれでもかわせるけど、そうじゃないからねえ」と分析。

タマモクロスとオグリキャップの三度の対戦「芦毛対決」「芦毛同士の頂上決戦」はタマモクロスの2勝ながらも最後はオグリキャップに軍配を譲る世代交代のような結果であり、その白熱した戦いは「天皇賞レコードの166億4834万5400円を売り上げ、1枠のオグリキャップ、6枠のタマモクロスがらみの馬券は、総売り上げ中の81.8パーセントにも達した」という経済効果につながった。

18戦9勝、バブル経済真っ只中でキツイ労働に追われる競馬ファンにとってタマモクロスの底辺から頂点へと駆け上がる競馬に強く心を打たれ、第二次競馬ブームの火付け役と呼ばれるオグリキャップ時代の基礎を作り上げたといって過言でないだろう。

 

いつものタマモクロスじゃなかった」と悲しげにコメントした南井、けれどもタマモクロスは年末のJRA賞表彰において、全172票中165票を集めて年度代表馬に選出されるにとどまらず最優秀5歳以上牡馬最優秀父内国産馬東京競馬記者クラブ賞関西競馬記者クラブ賞に選出され、5歳以上部門のフリーハンデは「68」で85年のシンボリルドルフの「70」に次ぎ、1965年シンザンの「67」を上回る歴代2位の記録として大いに称賛された。最後の最後まで戦い抜いたタマモクロスは真の名馬である。

 

年が明けた1989年1月7日に昭和天皇が崩御したため、この第33回有馬記念が“昭和最後のGI競走”となり、中央競馬“昭和最後の名勝負”と呼ばれるようになる(有馬記念以降サッカーボーイは出走できないまま引退したことも影響する)。

1月15日に京都競馬場にて引退式が行われ、17日に三野オーナーら50人が集まり拍手で見送られてターフを去った。