中1週で敢行した藤森特別の結果から、松永の「競馬にならない。このクラスにいる馬じゃないよ」というコメントもあって菊花賞出走の打診が発生、メディアは「遅れてきた大物」「関西の秘密兵器」と盛り上げる中、小原調教師は「本格化するのは5歳(現4歳)秋である」「ここで強行させたら壊れてしまう」とタマモクロスの馬体を考えて自重した。

なおこの年の菊花賞は、皐月賞優勝後半年間療養していた9人気サクラスターオーの復活二冠達成「菊の季節に桜が満開!」が成し遂げられている。

南井と共に12月6日の稍重馬場の鳴尾記念(当時はGII)に出走した。ハンデ戦ゆえ斤量は53kgのタマモクロスはこの年の皐月賞・菊花賞2着ゴールドシチー、昨年の菊花賞馬メジロデュレン(マックイーン半兄、トップハンデ59kg)に次ぐ3人気と格上相手に評価されるも出遅れて最後方からとなり、最終直線にて5頭ほどにふさがれるも、残り300mにてわずかにできた進路を突くと馬場の最も内側から進出し、2着に6馬身差・2分33秒0のレコード勝ちを収めた(ゴールドシチー6着、メジロデュレン10着の波乱)。

 タマモクロスを知らなかった関東の競馬ファンは震撼し、日刊スポーツの梶山隆平が有馬記念出走を直訴に至るほど期待されたが、繊細でレース後に食べる飼葉が減少し痩せてしまうタマモクロスのことを考えた小原調教師は「レースが行われる中山競馬場および関東への輸送することはできない」とし、その上で小原の日経新春杯スタートではなく、オーナーの三野による「年の初めに勝つと縁起が良い」をもって、正月の金杯を使うことを提案され妥協がなされた。

なおこの有馬記念ではメリーナイスの落馬、二冠馬サクラスターオーの故障(その後死亡)の上、タマモクロスが破った10人気メジロデュレン優勝並びに7人気ユーワジェームスの入着(3着は14人気ハシケンエルドで掲示板は大荒れ)という後世「悪夢の有馬記念」と呼ばれる結果となった。

余談だが、喜びを露わにできなかったデュレン鞍上の村本善之は8年後のグランプリ(95年宝塚記念)にてまたも喜べぬ勝利を味わうこととなる…。

 

87年4歳馬部門のフリーハンデにてタマモクロスは「56」が与えられた。フリーハンデというものは、その年度の各馬の実力比較にとどまらず、歴年の名馬の実力比較ともなる重要なアイデンティティである。同期のクラシック主戦のサニースワロー(ダービー2着・京都新聞杯2着・菊花賞5着、サニーブライアンの先輩に当たる)やモガミヤシマ(皐月賞4着、NHK杯(当時GII)優勝)、レオテンザン(ラジオたんぱ賞と京都新聞杯制覇、タマモのレコードにて前述)と同格の評価である。なお二冠馬サクラスターオーが最高の「64」、日本ダービーのメリーナイスは「63」、牝馬二冠馬のマックスビューティは「61」であった。

 

年が明けて金杯(西)、今の京都金杯に2.2倍の1番人気で推され出走。しかし南井の催促の応じず最後方の競馬を余儀なくされた。南井が追走で精一杯の中最終直線でまたもや前が混雑状態、南井も観戦客もああダメだと思われた瞬間、タマモクロスは内へと猛然と突っ込んで15頭をごぼう抜きし、2着に4分の3馬身差をつけて勝利してしまったのだ。

南井は「信じられない」「4コーナーでもう駄目だと思った」と回想するそのラストスパートは「驚異の」「恐るべき」「想像を絶する」と表現されてファンもマスコミも大はしゃぎ、古参のファンの間でも懐かしの追込み馬であった父シービークロスの異名「白い稲妻」から「稲妻2世」と呼ばれるようになった。

見たほうが速く凄味がわかるので引用しておきたい。

【競馬】1988年 京都金杯 タマモクロス【つべ転】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

 

次走の阪神大賞典ではメジロデュレンらを抑え1人気。レースはダイナカーペンターとマルブツファーストによるスローペースの先行策が展開され、終始掛りまくったタマモクロスは1周目スタンド前で3番手まで上がってしまい追走する。最後の直線で前2頭の間を割って脚を伸ばすが依然並んだままゴール板を駆け抜けた。ダイナカーペンターの加用正が後に「ゾクゾクしました」と言ったほどの完璧なスロー逃げの結果は…タマモクロス・ダイナカーペンターの同着であった。79年福島記念以来9年ぶり5例目となる重賞での1着同着だった。「連勝街道で最も苦戦したレース」として後世知られるようになる。

カーペンター自身も後に京都記念とOPで2勝を上げる実力馬であり、決して容易いものではなかったのだ。なお南井はカーペンターで万葉S(当時1400万下)で優勝に導いたかつてのパートナーでもあった。

 

ゴールドシチーやメリーナイスといった同期G1馬を押しのけて1人気で初のG1天皇賞・春にタマモクロスは出走した。稍重ながらダイナカーペンターらがハイペースで先行する中徐々に後方から距離を縮めていくと、前が崩れた最終コーナーを5番手で迎え、馬場の内側を突き進み、そうはさせまいと寄って来るメジロデュレンとランニングフリーを退けて3馬身差快勝を収めた。なお当時は68年に大差勝ちしたヒカルタカイ以来の最大着差であり、大きな衝撃を与える結果であった。

「これはもう楽勝です」と実況に言わせて見事な末脚で表彰台に上り詰めたタマモクロスだったが…すでに錦野牧場は消滅しており、生産者を称える表彰台の上に錦野氏の姿は無かった。

南井は八大競走50連敗の末GⅠ初制覇であった。騎手生活18年目で初タイトルに「タマモクロスみたいなGI級の馬にめぐりあえば、GIを勝てるというだけのこと」「勝てる馬に乗れば勝てるんですよ」と笑顔でコメントしている。

シンボリルドルフなどを管理した野平祐二は南井の騎乗に対して「あんなに巧みな南井騎手をみたのは初めてです。よほど自信を持って乗っていたのでしょう。パーフェクト騎乗と絶賛してもいいです」と評した…が実際には直線でムチを28発も入れ、その勢いでゼッケンは割れていたほど熾烈な追込みだったといえよう。

調教師の小原にとって開業以来8年目、オーナーの三野にとって馬主歴50年にして初めてのGI制覇だった。…そう三野オーナーはとても高齢だったのだ。昭和天皇と同じ明治34年生まれ87歳の三野は「ダービーを勝つよりも天皇賞の盾が欲しい」を常々口癖としており、表彰式で演奏された君が代に大いに感激したという。

 

この間の5月12日に、一度も相まみえることなく終わった同期の二冠馬サクラスターオーが137日に渡る闘病の末に安楽死し4歳でこの世を去っている。

 

続くは宝塚記念ではファン投票1位に選ばれるも、秋天・マイルCS・安田記念を制し獲得賞金5億円の「マイルの帝王ニッポーテイオー(ハルウララの父としても知られる)の引退レースでもあったため2人気となった。

マイラーのニッポーテイオーと長距離のタマモクロス、どっちが強いのかという期待で単枠指定となった2頭は、ニッポーテイオーが2番手、タマモクロスが後方で進み、最終コーナーでニッポーテイオーが先頭に立つもタマモクロスが外から並ぶ間もなくかわし、2馬身半差で優勝した。

ニッポーテイオーに騎乗した郷原洋行は「6連勝中の馬だといっても、あんなにすごい切れ味があるとは思わなかったよ。すべてが計算通りだったのに…」、ニッポーテイオーを管理する久保田金造調教師は「折り合いもついたし、相手が強いとしか言いようがない」とうなるほどの完勝だった。

 

宝塚記念後は北海道に移動し、7月24日には札幌競馬場のファンの前で凱旋披露、たった3日の休養を経て夏の間も調教され続け、秋の戦いに備えることになったタマモクロス、7連勝でもはや敵なし状態だった彼に宿命のライバルが登場することとなる。同じ葦毛、同じく連勝中の「笠松から来た怪物」オグリキャップの襲来である。