競走馬登録に際し、香川県高松市出身の三野が地元の名城・高松城の別称である「玉藻城」に由来する「タマモ」と父シービークロスの「クロス」を組み合わせ、「タマモクロス」と命名された。

栗東の小原伊佐美厩舎へ入厩。小原は1814戦174勝の騎手人生を終えた後、80年に開業し翌年タマモコウリュウで初勝利を挙げた。小原が調教師になる前に吉永猛厩舎で調教助手を務めた際、三野の所有するタマモアサヒが阪神3歳ステークス(今の阪神JF、ニシノフラワーが優勝する91年より前は牡馬出走で関西の2歳王者決定戦だった)を制覇したことから三野の経営するタマモ株式会社、以降タマモと呼ぶがこことの縁が深まっていったのだ。タマモは古美術品売買を関西で展開する会社だ。

 

さて小原自身「牝馬のような馬」と評し、あまり期待せず、獣医師が「心臓が優秀である」とコメントした程度で3月1日に阪神競馬場での芝2000新馬戦に出走し2人気となるが、逃げて失速し7着となる。この際南井克己という16年目の男が鞍上を務めた。この南井については別記事で紹介させていただきたい。

緩いペースに向いていると考えられしばらくダート戦に使われた。2戦目で勝ち上がるも次のレースで落馬事故に巻き込まれ競走中止、更には暴走しコースを1周、体中に打撲を負って馬運車の前に連れていかれたことがトラウマとなり、精神的ダメージからビビりになっていまう。落馬した南井に代わって田原成貴や安田富男が騎乗して、札幌・阪神ダートに4戦出走するも直線で外側に逃避したり、他の馬が近寄ることを拒むためにまともなレースができず、南井が戻ってもダメだった。

 

芝への再転向し、成功しなければ障害競走への転向も考えられる10月18日、久々の芝2200の条件戦に出走、妥当な5人気であったが、5番手から先頭となり、騎乗した南井が手綱を動かすことなく独走、そのまま7馬身差の圧勝だった。タイムは2分16秒2で同じ条件で行われた神戸新聞杯にて武豊に全力で追われて勝利したレオテンザンよりも、0秒1速いものという破格の結果だった。

11月1日に400万円以下である藤森特別に松永幹夫に乗り替わり出走した。条件戦に出たのは小原調教師が相手が弱かったから偶々勝てたのでは?という疑問を晴らしたかったためであり、斤量負担を増やすことで再び条件戦に挑める当時のルールを使用したのである。結果は8馬身差の快勝。

後に牝馬のミッキーと絶賛される松永が「実際に騎乗・勝利して、この馬はG1を勝てると思ったのはタマモクロス」だったとコメントを残すも年長の南井に返さざるを得なかった。なお松永幹夫が牡馬でG1を制するのは2000年のレギュラーメンバーによるダービーグランプリ(大差勝ち)という先のことである。

 

タマモクロスが悪戦苦闘していた1987年5月錦野牧場は経営不振から閉鎖していたのだ。錦野の負債は東京都で不動産業を営んでいた飯島和吉が肩代わりし、錦野は東京に居場所を得るも、繋養していた繁殖牝馬や幼駒は方々に散らばり、最も大切にしていたタマモクロスの母グリーンシャトーも売りに出され1987年7月7月30日に腸捻転で13歳で死亡している。産後の健康を考えていた最中の急死であった。またタマモクロスが藤森特別にて3勝目を挙げた11月1日、錦野牧場はグリー牧場へと生まれ変わり錦野の夢の塊もタマモクロスの故郷も消え去ったのだった。