日本文学 文章について 小林秀雄 | ScrapBook

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小林秀雄全作品〈13〉歴史と文学/新潮社

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心にもない事を書かぬという覚悟はよいが、はっきり心に思った事をそのまま書けばいい文章になるとは限らない。文章というものはそんなに易しいものではあるまい。
小林秀雄全作品集13巻 「文章について」

巷では文章の書き方といった本が大流行りである。人を説得させる文章であるとか、数分で理解できる文章であるとか。書店のビジネス書の棚などを見ると、まるでこれらの本のどれかさえ読めば、誰でも文章が上手くなるといわんばかりの文句で溢れかえっている。

小林秀雄が昭和十五年、三十八歳の時に書いた「文章について」という一文を読んだ。冒頭に引いた一節には「大変感じ入った」。
小林秀雄自身、ルナンの「始めから結論を持って論文を書き始めるな」という言葉に「大変感じ入った」そうだ。「文章について」が書かれた当時には、小林秀雄は文章を即興で書く「何物かを会得した」としているが、「初期の僕の文なぞは皆予め隅々まで計算して書き始めたものだ」とあり、「詰まらぬ洒落まで下書きして清書した」とある。

僕は十数年前に、小林秀雄の全作品集を全巻買い集め、数年間かけてご丁寧に一巻目から終巻まで延々読み続けたことがある(思い返すと暇な事をしたものだと我ながら感心する)。一人の文章家の作品をその始まりからお終いまでを通して読むこととは、その人物の思想の移り変わりを辿る行為である。僕はときに楽しく、ときに苦しい思いをながらもしながら、小林秀雄という人物の足跡を辿りながら、彼の文章は年を追うごとに平易になっていることを漠然とながら感じたのだった。三十代を迎えたあたりからの彼の文章はあきらかに考えながら書かれていることがわかる。手探りしながら書き進んでいる。本人も書いているように、初期の頃の文章には、「難解な言葉を使い度がったり、捻くれた語法を使い度たくなったりした」ものである。「言葉は考えというものに隷属していると看做して、考えの赴くままに言葉を自由に使おうとした。従って、既存の言葉を無視して、新しい言葉なり語法なりを勝手に作り出すという様な事も平気で出来たのである」。

完全に下書きをしてから書いていた小林秀雄がルナンの言葉に感じ入った後に、「延び延びと書ける気になりたいものだ」と思ったのだが、「そんな冒険がどうしたら成功するか全く見当がつかなかった」。どのような文章であれ、誰かに読んでもらおうという文章を書いたことがある人(つまりほとんどの人か)なら分かると思うが、即興で文章を書く方法など「ある筈はない」。巷にあふれている文章の書き方とは、いってみればレトリックのことであり、いうまでもなく「書き方」ではない。表現の一例である。

そもそも言葉は、「万人共有の財」であり、個人の考えによるまったく勝手な発明という事は許されない」のであるから、まず考えがあり、それに応じた言葉を当てはめるという方法には、考えと言葉の間に乖離があることを表している。
「先ず考え次にこれを言葉にするという呑気な考え方から文学者は出なくてはならない」。「文学者が考えるとは即ち書く事であり、巧みに考えるとは巧みな言葉によって考えるという事に他ならぬ」。

たとえば、画家は、「色を塗って行くうちに自分の考えが次第にはっきりした形を取って行くのである。言葉を代えれば、彼は考えを色にするのではなく、色によって考えるのである」。

文章を書く事は難しい。