トン・コープマン/NHK交響楽団による演奏会。ソリストにヴァイオリニスト・佐藤俊介氏を迎えての「オール・モーツァルト・プログラム」を堪能することができた。N響の優れた弦楽器奏者たちによるソロと合奏の綾、そしてコープマンならではの即興性と遊び心が溢れる「セレナータ・ノットゥルナ」、佐藤氏のソロが冴え渡るヴァイオリン協奏曲第4番、そして今年二度目の「ジュピター」というラインナップ。東京公演は行われず、東北3都市のみのコンサートで希少価値も高まる。仙台公演 (8/22)、盛岡公演 (8/23)、弘前公演 (8/24) 全3公演チケット完売御礼であったと聞く。ちなみに青森県でのN響公演は8年ぶりだという、
 
 
 
 
 
フランス・ブリュッヘンやクリストファー・ホグウッド、ニコラウス・アーノンクール、ロジャー・ノリントンといったピリオド指揮者たちが鬼籍に入った現在において、未だ現役であり続けているトン・コープマン(御年80歳!)。2017年にN響と初共演、以来2019年、2023年と3回10公演全て「オール・モーツァルト・プログラム」で臨んできた-実は2017年の共演は前年に92歳で亡くなったサー・ネヴィル・マリナーの代役だったらしい-。コープマン自身は手兵のアムステルダム・バロック管弦楽団とモーツァルト没後200年の1991年に来日し、モーツァルトの全交響曲とレクイエムなどを演奏、そのライヴ音源がCD化されていた。ちなみにこれまでのN響共演時のプログラム(全てモーツァルト)は以下の通りである―。
 
2017年(水曜夜のクラシック)
歌劇「魔笛」序曲
フルートとハープのための協奏曲(シュルツ&バルツェライト)
交響曲第41番「ジュピター」
*客演コンマスはキュッヒル
 
2019年(オーチャード定期)
交響曲第40番
レクイエム
 
2023年(第1991回定期Bプロ)
交響曲第29番
フルート協奏曲第2番
交響曲第39番
*定期公演初登場。2021年に予定していたがコロナの影響で断念
 
このようにモーツァルト/後期三大交響曲を網羅した今、再び (初心に帰るかのように) コープマンは「ジュピター」を演目に選んだ。そして僕にとってもまた、今年二度目の実演であり、当ブログでは三度目の「ジュピター」となったのである。
 

 

カラヤン・アカデミーの若き音楽家たちに優しく語りかけるコープマン。彼の言葉はまるで彼のモーツァルト演奏のようにふんわりと響く。

 

モーツァルト/レクイエムより。シリアスでありながら明るさを失わない。暖色系サウンドのコーラスのおかげかもしれない。

 

モーツァルト/交響曲第29番から。チェンバロによる通奏低音も加え、あくまでも優雅に愉しく音楽が進行してゆく。

 

コープマンによるバッハ録音より。同世代のピリオド系演奏の中でも真摯さより音楽の歓びが充満する。殊に過剰ともとれる装飾音の扱いが印象的。

 
 
 
ソリストの佐藤俊介氏にも触れなくてはならない―日本人ヴァイオリニストの中で僕が特に好きな音楽家の1人で、ピリオドによる「パガニーニ/24のカプリース」の録音以降、常に気になる存在であった。モダン楽器ではあるが、シューベルティアンのピアニスト・佐藤卓史氏との「グリーグ/ヴァイオリン・ソナタ集」のアルバムは僕の座右のディスクとなっている。まさか実演に触れられるとは夢にも思わなかったので-それは指揮者コープマンもそうだが-、当公演の知らせを発見した時狂喜したものである。しかもほぼ最前列の席で間近に観賞できるのだから堪らない。協奏曲におけるカデンツァ&即興的なアインガング、そしてアンコールにも注目してコンサートに臨むこととなった。佐藤氏とN響とは2009年以来の共演であるという。
 

佐藤俊介氏によるバッハ演奏より。

 

ヴィヴァルディ/「四季」より。先日FMで聴いたヨーロッパ連合バロック管弦楽団との共演でも演奏していたが、リアルな描写がエグいほどだった。

 
 
 
 
 
 
「オール・モーツァルト・プログラム」の最初はセレナード第6番ニ長調K.237「セレナータ・ノットゥルナ」。「夜のセレナーデ」というタイトルは父レオポルトによる説と他人の手で加えられた説とがあるが、はっきりしていない。モーツァルトが作曲した数々のセレナードに比べても半数以下の規模の全3楽章形式で、音楽のエッセンスが巧みに凝縮された感がある-セレナードに付き物の、音楽家たちの入退場用音楽である「行進曲」がそのまま (本編の) 第1楽章に集約されている。またバロック時代に流行った「合奏協奏曲」のスタイルが模倣され、独奏群を構成する2つのヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバスによるコンチェルティーノと、ティンパニを加えた弦楽というリピエーノの合奏群とのコントラストが狙われているようだ-通常はトランペットとセットのティンパニが独立して扱われているのは異例で特徴的。その効果は曲想を印象づけるほど鮮烈だ-。娯楽や祝祭にBGMとして演奏されるセレナードは「機会音楽」の部類に含まれるが、K.237はザルツブルクでの謝肉祭のために作曲されたという説があり、コンチェルティーノとリピエーノが遠隔に配置されて演奏された可能性も指摘されている。
 
N響コンマス・郷古廉と第2ヴァイオリン首席・森田昌弘、ヴィオラ首席代行の中村翔太郎、コントラバス首席の吉田秀がコンチェルティーノを担当、指揮者&オーケストラの前を陣取る。赤いネクタイがよく似合っているコープマンがステージ袖から登場し、可愛らしくペコペコとお辞儀して指揮台に上る。あとはモーツァルトの音楽に酔いしれるのみである。コープマンが「大好きな作品」というセレナータ・ノットゥルナ。終始笑顔を絶やさない彼はいたずら心満載の仕掛けを駆使して、徹底的に楽しむ。きっとリハーサルのときもそうだったのだろう-団員たちからも笑顔がこぼれる。楽しくて楽しくて仕方がないくらいに。そのクライマックスは何といっても終楽章のロンドである。独奏群と合奏群の対比が顕著だが、音楽をリードするのはコンチェルティーノの第1ヴァイオリン (コンマス) だ。ここでのコープマン&N響が仕込んだアイディアが最高に面白い-4人の独奏者たちがそれぞれカデンツァを披露するのだが、ヴィルトゥオーゾ的であったり、民謡風であったりと様々。会場の笑いを誘ったのはコントラバス・吉田氏のカデンツァで、童謡「ぞうさん」のフレーズを挿入-それも表情付きで。しかもカデンツァはソリストのみならずオーケストラ内にも波及し、全楽章通じ大活躍のティンパニにも晴れの舞台が用意された。今度はコープマンがフェイントを仕掛け、カデンツァをコンマスに振り、困らせる (おそらく想定外の振りだったのだろう) 。コンマスの「わたしの番じゃない」のジェスチャーの後、オーケストラ内のチェリストたちが (当初予定通り) カデンツァを披露するのだ。思えばソリストにチェロは含まれていない-だからこそのコープマンならではのサービス精神であり、これで演目に参加した全楽器がカデンツァを果たしたことになるのである。コンサート第1曲目にして既に最高潮を迎えたかのような、聴衆からの熱烈な反応が沸き起こったのだった。元気なあまりコープマンが指揮台を踏み外し、あわや転倒したかとヒヤッとしたが、手すりのおかげで難を逃れてホッとした場面も見られた。
 
4人のN響メンバーからのソリストと指揮者コープマン、そしてティンパニの久保昌一氏も共に。
*画像はお借りしました。
 

2016年のライヴより。今回と同じくモダン・オーケストラとの共演だが、同じアイディアの面白い演奏が楽しめる。

 
 
 
 
2曲目は佐藤俊介氏を迎えてのヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調K.218。冒頭の行進曲風の特徴的なフレーズから一時期「軍隊風」とも呼ばれたが、チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番~冒頭と同様、曲中で再び姿を見せることはない。10代のモーツァルトによって集中的に作曲されたヴァイオリン協奏曲 (全5曲) は特に第5番イ長調K.219「トルコ風」が好きでよく聞いたが-「軍隊風」というネーミングも第5番にあやかったものだろうか-、チャーミングな第3番ト長調K.217と第5番K.219に挟まれた当曲もなかなかに魅力的。殊にロンド形式の第3楽章は佐藤氏の秀逸なソロのおかげもあり、変幻自在に表情を変え、即興的なアインガングとスリリングなカデンツァでノリノリの演奏を繰り広げていた。このロンド・フィナーレは前曲「セレナータ・ノットゥルナ」K.239でのカデンツァ尽くしのフィナーレとも繋がるだけでなく、冒頭がK.239の「行進曲」とほぼ同じフレーズで始まるなど、類似性が豊富であり-ちなみにコンサート最後の「ジュピター」冒頭も行進曲風である-、プログラム構成の巧みさを印象づける。
 
威勢よく始まる第1楽章、そしておそらく佐藤氏オリジナルと思われるカデンツァを経ての、第2楽章の美しいカンタービレ。それらは「モーツァルトの世界」以外の何ものでもないが、キレッキレな佐藤氏の真骨頂となるのは (前述通り) フィナーレである。グラチオーソな曲想と超絶技巧を放つ緩急自在のソロとのコントラストが実に魅力的。(どこかのブログタイトルのように) 唯我独尊に振る舞わない佐藤氏はオーケストラとのアイコンタクトも頻繁で、アンサンブルの綾に敏感に反応し、即興性に富む「生きた」音楽を奏でる。加えて、ピリオド経験者ゆえの (バロックで体得したであろう) グルーヴの独特な冴えが素晴らしく、彼のヴァイオリンがフィドルのように聞こえ、ドローンの持続音を伴う「田舎の踊り」風の曲想とピッタリ符号する。最後のカデンツァではブラームスの同曲を思い出させるフレーズも-同じニ長調だ-。コーダが盛り上がるのではなく、あくまでも優美に、ダンスの動きが止まるかのように静かに終わり、とても好ましい聴後感を与えてくれた。最後の音が減衰して消えた瞬間、コープマンが「bravo」と囁いたのも印象に残った。オーケストラは当初笑顔より真摯さが目立っていた (ヴィオラは気持ちよさそうに弾いていた) が、第3楽章に入るやいなや笑顔が溢れはじめ、特にコンマス・郷古廉氏が佐藤氏のソロに熱視線を送っていた。
 

ここではクレーメル&アーノンクール/ウィーン・フィル初顔合わせとなった演奏で。カデンツァ&アインガングはロバート・レヴィン作を採用している。

 
 
 

アンコールは (佐藤氏が録音も残している) テレマン/無伴奏ヴァイオリンのための12のファンタジア~第8番ホ長調-第2~3楽章。身体をスウィングさせ、更なるグルーヴを生み出す。田舎風の舞踏が聞かれる点で共通項が見られる選曲だったと思う。佐藤俊介氏の本領が十分発揮された充実のアンコールだった。ちなみに初日の仙台公演でも同じテレマンのファンタジアから第12番イ短調~第2~3楽章が、翌日の盛岡公演ではモーツァルトと同時代の作曲家フリードリヒ・ウィルヘルム・ルスト/無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番~ジーグ&シャコンヌが奏でられたそうである。蛇足だが、Xのタグ「#古楽の楽しみ」では、コープマンは「生協男」、テレマンは「照男」とあだ名され親しまれている。

 

 

テレマン/無伴奏ヴァイオリンのための12のファンタジア~第12番イ短調&第8番ホ長調。レイチェル・ポッジャーのバロック・ヴァイオリンで。かつての所有盤だった。

 

ルスト/無伴奏ヴァイオリン・パルティータ ニ短調~シャコンヌ&ジーグ。表記とは違うが、おそらくアンコール曲と同じと思われる。YouTubeでは2種類の音源しか見出だせなかった。

 

 

 

 

開演時でもそうだったが、後半プログラム開始時にも左右のステージ袖から短い手拍子が聞こえる-多分「準備完了」の合図なのだろう、その直後に団員たちが入場してきた。最後にコープマンが笑顔で登場し、モーツァルト/交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」が始まる。今回のN響の弦楽セクションは9/9/5/4/3。先月の「青い海と森の音楽祭」での編成より僅かに大きく、低音域が充実。コープマンは (おそらく常に) 対向配置を採らない―その理由は不明だが、さほど拘っていないだけなのかもしれない。

 

1788年の夏に一気に書き上げられたモーツァルト/後期三大交響曲の最後を飾る作品だけあって、以前2つの記事で取り上げたように実に豊かな内容を含んでいる。「ジュピター」の完成以降、モーツァルトが仕上げた作品は室内楽や器楽曲などが目立つが、翌年にはオペラの作曲に着手し、1790年に「コシ・ファン・トゥッテ」K.588が初演された。彼の死の年となった1791年には、ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595や2つのオペラ「魔笛」K.620&「皇帝ティートの慈悲」K.620、そしてクラリネット協奏曲イ長調K.622などの名作が生まれる。絶筆となったレクイエム ニ短調K.626が未完の最期の作品となったのは周知の事実である。僕の知る限り、モーツァルトが交響曲を再び作曲しようとした形跡は見つかっていない。

 

 

 
コンサートに合わせてコープマンが来日した際の録音 (1991年盤) を予め聞いてきたのだが、オーケストラの違い以上にテンポ感の違いに驚いた。両端楽章が遅く堂々としていて、緩徐楽章のスピードが速い。以前のコープマンはそうではなかった―つまり今回のN響との共演では解釈が見直され、よりこなれてきた感じを受けたのだった。その第1楽章は、ブリュッヘン盤をかくやと思わせる重量感あるテンポで威容さを際立たせる。それでもフレーズの結びを僅かに引き伸ばすことで音楽に柔らかさを加えているのがコープマンらしく思われた。前半プログラムがカデンツァ尽くしの笑顔が自然に溢れてくる時間だったとするなら、後半の「ジュピター」は真摯一色のイメージであり、オーケストラからも微笑みが消え、はりつめた集中力と没入感が目立つ。「青い海と森の音楽祭」でもそうだったが、この音楽が演奏家に求めてくるものが何かを如実に示しているような気がしてならない―背中しか見えなかったコープマンはどうであっただろう。多分微笑していたに違いない。音楽はコントラストが強調され、波が押し寄せては返す。ノン・ヴィブラートの弦楽セクションの透明な美しさは素晴らしく、その中で低音域がわななき、内声部をくっきりと聞かせる。セクション全員が腰を浮かせる熱演ぶりで、それもまた「音楽祭」と同様であった。展開部におけるティンパニの一撃も申し分なく、その威力が音楽の中を蹂躙していた。
 

第1楽章をブリュッヘン/18世紀オーケストラ盤で。ピリオドらしからぬ異色の演奏であった。

 

K.551の2年前に作曲されたハイドン/「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」~終曲「地震」。冒頭の出だしが「ジュピター」ととてもよく似ている―地震と (ジュピターの) 雷か。ちなみにハイドンによるオラトリオ版もあるが、そちらは1796年に編曲がなされた。ただ、他の編曲―弦楽四重奏版とクラヴィーア版が1787年に出版されているので、モーツァルトが知った可能性を完全に否定することはできない。

 
 
 
ヴァイオリン協奏曲第4番~第2楽章と同じ「アンダンテ・カンタービレ」の表記を持つ「ジュピター」第2楽章。囁くように様子をうかがうフレーズにフォルテで応答する冒頭。そして流れるようなメロディ。モーツァルトの全交響曲の緩徐楽章のなかで一番好きな音楽だが、この度のコープマン/N響は速いテンポでサラリと仕上げる (もちろんフレーズの柔らかな処理は忘れないが)。来日盤の演奏がピリオド・オーケストラにも関わらず、しっとりと味わう時間が与えられたテンポであったため、今回の (モーツァルトの短い生涯のように) 生き急ぐようなテンポ感には正直「あれあれ」と思ってしまった-ピリオド演奏では特別珍しくないテンポ設定なのだけれども-。それでも悲哀は付きまとい、とりわけ中間部の切実なシーンでは、木管のロングトーンが深い哀しみを表出させていた。
 

コープマン/アムステルダム・バロック管弦楽団による1991年来日録音盤とホグウッド/エンシェント室内管弦楽団による2001年来日音源との聞き比べで第2楽章を。テンポの違いは歴然だが、今回のコープマンの演奏はホグウッドに限りなく近い。

 
 
 
ピリオドに通じた音楽家が演奏する舞踏音楽では、体得されたバロック以前のダンスのエッセンスがリズム感とフレージングに明瞭に現れる―先ほどの佐藤俊介氏も然り、そしてコープマン氏も然り。メヌエットの第3楽章はまさに真骨頂である。強弱のアイディアが面白く、前半の「彼ら」が再び姿を現したかのようである。トリオでは終楽章の「ジュピター音型」が短調で予告されるが、比較的速いテンポですうっと過ぎ去っていった。
 

こちらはコープマン盤で。N響との方がコントラストが強い。

 
 
 
「モルト・アレグロ」の第4楽章は (グレゴリオ聖歌に由来する) ジュピター音型によるフガート&フーガが展開する神々しい音楽―とされているが、誰しもが良い意味で平常心でいられないこの楽章をコープマン/N響は落ち着いたテンポで演奏する。来日盤の演奏とは異なる解釈で、おそらくそちらの方がエキサイティングだろう。それに比して今回は達観したような風情すら感じさせる。それでも枯淡の美とはならない―オーケストラは全力で音楽に没入、全ての音にエネルギーが漲り、それらがノン・ヴィブラートの透明なサウンドによって顕にされてゆく。目に見えない音楽の神殿を形づくるのに、ピリオド奏法は最適解を与えてくれるのだろうか。透明でありながら熱を孕んだ音楽は無事、天界に到達した―実に落ち着いた足どりで。遅いテンポが迫力を生み、圧倒的なコーダが果たされると、万雷の拍手と歓呼の声で会場全体が包み込まれたのだった。
 

グレゴリオ聖歌「パンジェ・リングァ (舌よ、ほめたたえよ)」に基づくジョスカン・デ・プレ/ミサ・パンジェ・リングァ (1514) ~キリエ。さあ、ジュピター音型を探してみよう!

 

モーツァルト/交響曲第33番変ロ長調K.319~第1楽章。展開部にジュピター音型が現れる。

 

5つのディヴェルティメント変ロ長調K.439b~第4番第1楽章。こちらは比較的最初から現れる。

 

「ジュピター」第4楽章をアーノンクール/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で。こちらを選んだ理由はコーダを聴くとわかる。交響曲第39番フィナーレで創意工夫を凝らしたコープマンですら正攻法で演奏した第41番のラストで、アーノンクールだけが見事にぶちかましているのである。

 
 
 
 
アンコールではコープマン氏が「Again Mozart!」と語りかけ、ディヴェルティメント ニ長調K.136~第3楽章が演奏された。オーケストラも満面の笑みで美しい弦の響きを披露する。このアンコール曲は東北3公演共通していたようだが、中間部でフーガが登場した時、思わず微笑んでしまった―「ジュピター」のフーガの使用とリンクしてしまったのである。K.136は子供の頃から親しんでいた曲なのに、今の今まで意識していなかったとは!これもプログラムの妙であろう。コープマンの遊び心も顔を出し、突然の強弱の指示にオーケストラが面白可笑しく反応している (特にコンマス) を観て、本当に即興的な指示だったのだと実感。直ぐに反応できるのは信頼関係の証。最初から最後まで、とても楽しめたコンサートであった。
 

コープマン/アムステルダム・バロック管弦楽団の演奏で―。