先日2月6日に88歳で亡くなった小澤征爾が、1960年代後半にピーター・ゼルキンとともに「期待の新人」としてRCAレーベルに録音したアルバム。当時大変珍しかったベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲のピアノ協奏曲編曲版Op.61aとシェーンベルク/ピアノ協奏曲という、古典とモダンの傑作が収録されている―実はモーツァルト (K.459) との組み合わせもあったが、カップリングの妙味からこちらを選んだ―。全曲初CD化であり、しかもOp.61aは世界初録音であった。
 
 
 
 
 
 
僕が初めて聞いた小澤氏の演奏は、ムローヴァとのチャイコフスキー&シベリウス/ヴァイオリン協奏曲のアルバムだった。だからか、(アバドと同様) コンチェルトの卓越した伴奏指揮者のイメージが強い。もちろんサイトウ・キネンとのブラームス等、幾つかのアルバムにも親しんだが、購入した当盤もやはり協奏曲アルバムとなった。実はピーター・ゼルキンの美しすぎるピアノが目当てで一応ウォッチリストに入れておいていたのだが、小澤氏が亡くなったことを知り、即購入となった。もし彼が生きていたなら、購入はもう少し先になっていたかもしれない。
 
小澤氏の死去が公表されて以来、旧ツイッターでは彼の死を悼む投稿があふれ、現在でもツイートが止まない。世を去ってから更に注目されるのは芸術家の性であろうが、小澤氏のかつてを巡るエピソードにも注目が集まった―所謂「N響事件」も含まれる―。日本の指揮者が (独自の) 重厚な歴史を持つ西洋音楽を、バッハやブラームスを、果たして説得力を持って演奏することができるのだろうか―このような疑問や批判は現在でも根強い。最近もその種の著書が出版されたりしている―。それに対する小澤氏の回答はとても印象に残っていて、彼は音楽を「夕暮れ」に例え、地球上のどこにいても観る(聴く)ことができ、その美しさを享受できるもの、と考えていた。音楽を「普遍的なもの」と捉えていたのである。
 
ベートーベンやモーツァルト、彼らがつくった音楽は、その土地柄だけのものじゃなくて、純粋な音楽をつくっているから、どんな人間でも、その人なりに理解できるんだと思う
 
 

当アルバムのライナーノーツは発売当初のLPと同じ内容が載せられているが、そこでは若きホープである小澤氏への期待に満ちたコメントで溢れかえっている。武満徹もそうだったが、小澤氏もまた海外で高く評価されたのであった。

 

 

 

サイトウキネンでのリハーサルにて。お茶目でピュアな反応の小澤氏―。

 

小澤氏が爆笑していた東京地下鉄ポルカ。あの時はピーター・ゼルキンが

ピアノ伴奏してくれていた。

 

ラベック姉妹とのプーランク/2台のピアノのための協奏曲。

僕の人生初プーランクのこのアルバムも愛聴盤だった―。

 

1962年、ヤング・ピープルズ・コンサートでの一場面。師匠のバーンスタイン

に紹介され、若き小澤氏がモーツァルトを振る。

 

最晩年のレニー最後の録音はベートーヴェンだった。小澤氏の最後の演奏

もベートーヴェンであった。

 

 

 
オリジナルのアメリカ盤のジャケット。クラシックコーナーにない確率が高そう…。
 
こうやって見ると、若き日のオザワは、あのオザケンにそっくりである。
 

「説明屋さん、今いいとこだから黙ってて!」(どうもスミマセン)

動画の最後では峯田氏とのデュオセッションが観れる―。
 
 
 
 
ルドルフ・ゼルキンの息子であるピーター・ゼルキン(本人はこういう紹介の仕方にウンザリさせられていたことだろう)は録音当時まだ二十歳そこそこであった。上記のようなヒッピー・スタイルの彼が偉大過ぎる父からできるだけ距離を置こうとしていたとしても無理はないと思う。確か吉田秀和氏が評論の中で、「ピーターの俯いたときに顔が隠れるほどの長髪は聴衆からの逃避だったのでは」という指摘が印象に残っている。ピーターが持つ繊細過ぎる感性は、ピアノのサウンドに直に感じられると思う―たとえ重厚なブラームスを聴いても、である―。
 
このベートーヴェン録音でもそうだ―むしろそこに惹かれたのだった。彼のピアノでなければ、この作品を聴こうとは思わなかっただろう。小澤氏はルドルフとベートーヴェン/ピアノ協奏曲全集録音を完成していたが、ピーターの選曲はまさにアウトサイダーならでは、であろう。しかもこの度の録音がOp.61aの世界初録音なのである。
 

ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第13番~第1楽章。愛聴盤であった。

 

メシアンもレパートリーに入っていた。通常だとチャイコフスキーのピアノ

協奏曲の冒頭のように聴こえる第1曲がこんなに神秘的に―。

 
 
 
 
 
原曲の「ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.61」はよく「三大ヴァイオリン協奏曲」の1つに挙げられるが、ブラームスやメンデルスゾーン、またはチャイコフスキーに比べて人気があると本当にいえるのだろうか。僕にとっては、クレーメル(2種)やコパチンスカヤ、ツェートマイヤーなど演奏家の個性的な魅力によって聴くことができた作品である(例外は1926年録音のクライスラー&ブレッヒ盤)。第2楽章の透徹した美しいラルゲットにはすぐに惹かれたし、他の楽章でも美しく高揚する瞬間が所々あったにしても、テーマの繰り返しが多い長大な第1楽章などは正直退屈に聞こえていた(後の楽しみはカデンツァくらいであろうか)。初演を担当したフランツ・クレメントもおそらくは冗長に感じたのだろうか、第1楽章の後、自作の変奏曲を挟んだという(諸説あり)。ソロ・パート譜は直前まで完成していなかったともいわれる。結果、ほぼ初見で演奏した初演者クレメントへの称賛はありはしたものの、作品はそれ以降数十年の間演奏されないままとなってしまった―パガニーニなどのヴィルトゥオーゾ・タイプのコンチェルトとは一線を画していたのが災いしたのだろうか(ルイ・シュポーアなどからの批判が記録に残されている)。初演から約40年後の1844年に、若干12歳のヨーゼフ・ヨアヒムがメンデルスゾーン指揮で再演したことがきっかけとなって、改めて認知され演奏されるようになったという。その演奏を聴いていたシューマンによる晩年の「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」は明らかにオマージュとなっている―。そして初演から1年後に取り組まれたのが、クレメンティからの依頼によるピアノ協奏曲への編曲版Op.61aである。実際のところ、この編曲ヴァージョンが今までどれほど演奏されてきたかは分からないが、世界初録音となった当盤以降、録音も少しずつ増えてきたように思う。現在では「ベートーヴェン/ピアノ協奏曲全集」に「第6番」として含められるまでになっている。
 
このアレンジ版、オケ・パートはほぼ変わらず、ソロ・パートも左手に少し分散和音や対位法的な合いの手が加わる程度なのだが、驚くべきはベートーヴェン作によるオブリガート・ティンパニを伴う破天荒で長大なカデンツァである(125小節ある。このおかげで逆に注目されるようになったのかも)。おそらく、カデンツァでソロ以外の楽器が加わるのは前代未聞ではあるまいか―これ以降、ブゾーニなどが採用するようになる―。オリジナルのヴァイオリン協奏曲でカデンツァを用意せず、奏者に委ねていたのは作曲する時間的余裕がなかったのか、あるいは音楽的理由があったのかはわからない。このコンチェルトには全3楽章すべてにカデンツァの入る余地があるが、Op.61aではすべてのカデンツァをベートーヴェンが作曲しているのである。この丁寧さはどこから来るのだろうか?
 
想像だが、献呈者と献呈された状況が関係しているのかもしれない―依頼そのものはクレメンティだったが、献呈先はヴァイオリン協奏曲Op.61を既に献呈されていたベートーヴェンの親友シュテファン・フォン・ブロイニングの妻となる女性、ユーリエだった。つまり、結婚祝いのプレゼントの可能性が高いといわれているのだ。特にティンパニ付のカデンツァはベートーヴェン流のユーモアであり、サプライズだったのではないだろうか。
音楽的理由も推測できる―ティンパニが刻むフレーズは、作品の冒頭から全曲に行き渡っているリズム・モティーフに由来しているのだ。一説によると交響曲第5番第1楽章のスケッチにもここでのテーマがメモされているという。第5交響曲が「ティンパニ交響曲」といっていいほど存在感を発揮することを考え合わせると興味深い―ヴァイオリン協奏曲も「ティンパニ協奏曲」とする見方があったようである―。
 
このOp.61aのカデンツァをOp.61のカデンツァとして、ヴァイオリンで演奏するケースも増えてきている(最初に敢行したのはシュナイダーハンだろうか)。前述したクレーメルやツェートマイヤー、コパチンスカヤなどはこのカデンツァを独自に工夫して採用している。
 

シュニトケによる第1楽章カデンツァ。イニシャルBの作曲家の作品が

モンタージュのように現れる。ここでもティンパニが活躍する。

 

こちらはコパチン嬢による第1楽章。開いた口が塞がらない(褒めている)

 
 
 
P.ゼルキン&小澤盤による第1楽章はとてもゆっくり始まる。29分を超える演奏時間は、例のカデンツァを差し引いても長い方だろう。優美でシンフォニックな曲想がいやが上にも強調される。僕には二人が「ピアノ・オブリガート付き交響曲」を再現しようとしていたように思えてならない―背景にはグレン・グールド&バーンスタインの「ブラームス/ピアノ協奏曲第1番」の1962年ライヴがあるのでは、と想像している(当録音は1969年)。1964年に再結成されたニュー・フィルハーモニア管弦楽団による長い前奏の後に登場するピアノの、何と美しいことか!Youtubeで聞いた瞬間、所有すべき盤であると確信したのであった。カデンツァではティンパニが妙に大人しい印象―まるで雰囲気を壊さないよう「空気を読んでいる」かのようだ(他の箇所ではぶっ叩いているのに)。他の演奏が大胆なだけかもしれない―クレーメル&アーノンクール盤ではヴァイオリン&ティンパニのほかにピアノも加わり、まるで酒場のバンドと化している―。
 
第2楽章の美しさは筆舌に尽くしがたい。ピアノ版で聴くとさらに美しさが引き立ち、まるでモーツァルト晩年の澄み切った境地を思わせる(最後のピアノ協奏曲)。アタッカで続く直前にあるカデンツァは、ヴァイオリン版で聞くと「小鳥のさえずり」のように聴こえて心地よい。当盤ではフィナーレの予告のフレーズとしてはっきり認識することができる。
 
ロンド形式のフィナーレは昔CMにも使われたこともあり(地方のテレビCMである)、僕としては一番馴染み深い。交響曲第6番「田園」第3楽章との関連も指摘されることのあるダンサンブルな楽章だが、ピアノ版ではトレモロが可愛らしく、洗練された印象。ヴァイオリン版もピアノ版もカデンツァ以降の、コーダへ向かう音楽が一番感動的だ。音楽が進むにつれ徐々に高揚し、爽やかなカタルシスを迎える。どんなに盛り上がろうと、繊細さを失わないピアノは実に素晴らしい。

 

 

当盤音源より、全3楽章を―。トータル50分を超える。

 

モーツァルト/ピアノ協奏曲第27番~第2楽章ラルゲット。
ルドルフ・ゼルキンの晩年の演奏で―。
 


 
 
アルバム2曲目は打って変わって「シェーンベルク/ピアノ協奏曲Op.42」である。ここではオケがシカゴ交響楽団に変わる (録音時期は1967年) 。このコンビではバルトーク/ピアノ協奏曲集を同時期にレコーディングしており、実質上ピーターと小澤氏との初共演となったアルバムかもしれない。
 

バルトーク/ピアノ協奏曲第3番~第2楽章。1966年録音。

ピーターの独壇場のような音楽だ。

 
 オリジナルLP盤のジャケット―。
 
 
 この作品には苦手意識があり、グールド盤などで親しもうとチャレンジしては受け付けない状態が続いていた。別に評論家でもないので無理して聴く必要は全くないのだが、この度は柔和なベートーヴェンとのコントラストを狙ってみたのだ―そしてピーターの演奏に期待してみたいと思ったのである。
 
十二音技法による「厳格」という言葉が似合う音楽。後のミュージック・セリエルもそうだが、聴感上はどうしても似た感じに聞こえてしまう。でもスコアと対峙し、ベースとなる音列や逆行&反転する音列をチェックしながら聴くことができれば、数式を解くのに似た快感を味わうことができるのかもしれない。
 
シェーンベルクのこのピアノ協奏曲はアタッカで接続された全4楽章からなる。「ピアノ協奏曲で全4楽章形式」というと、すぐさま「ブラームス/ピアノ協奏曲第2番」を思い出す。解説で時折ブラームスとの関連が語られることがあるが (当盤もそう) 、聴く限りブラームスを思わせるものは感じない―ブラームスが十二音技法を知ったなら、どうしていたであろうか―。シェーンベルクは昔からブラームスを高く評価し、教育の対象にすらしていた(ピアノ四重奏曲第1番を管弦楽化したことも愛着の表れか)。古典的なフォルムを彼から学んだのは間違いないであろう。その意味ではシェーンベルクも「伝統主義者」だったのかもしれない。それでも単一楽章のような纏まりはむしろフランツ・リストの協奏曲の方が近い(こちらも全4楽章だった)。
各楽章は「Andante/Molto Allegro/Adagio/Giocoso(moderato)」となっており、見ようによってはバロック時代の協奏曲を思わせる構成である。シェーンベルクの弟子のひとりである作曲家ルー・ハリソンは、この作品に見られるクラシカルな形式とフレーズの構造の明快さを称賛しており、「モーツァルトを聞く喜びと同じ」とまで述べている。
 
各セクションには当初、シェーンベルクによって曲想に対応するような言葉が手稿に示されていた―。
 
穏やかな人生に突然憎しみがわき起こり深刻な状況が生み出されたしかし人生は続く
 
この自伝的ともいえるコメントは出版時に削除されたようだ。とはいえ、これに沿って聴く(解釈する)ことも可能である。ただ、弦楽三重奏曲Op.45のような直接的に音楽表現に結びつくメッセージは含まれていないように僕は感じている。
 
ちなみに作品の初演は1944年2月6日 (僕の誕生日であり、小澤氏の命日) であり、今年2024年はシェーンベルク生誕150年でもある。今こうして「シェーンベルク/ピアノ協奏曲」と向き合っていることに、色々と因縁めいたものを感じてしまう―。
 

エマールによる解説では上記のシェーンベルクの言葉に自らの観察を

重ねているようだ。室内交響曲第1番との関連の指摘は鋭い―。

 

ジェフリー・テイトとモーツァルト/ピアノ協奏曲全集を完成させた内田光子

が共にシェーンベルクに取り組む。エマールとは違い、演奏の難しさを吐露し、

ブラームスとの関連を指摘。システムに血肉を付与するかのようだ。

 

 

 

第1楽章がアンダンテで、比較的ゆっくり始まるのがいい。エマールの解説では「ウィーン風」であり、「ワルツ」が聞き取れるそうだが、当盤では気づかなかった(後に気づくことになる)。小澤氏の指揮はそれこそブラームスのような、あるいはレーガーのような厚塗りのサウンドで、やや鈍重である。解像度が現代の演奏より劣るのは致し方ないのかもしれない。一方、ピーターのピアノは凛として美しい。深刻で暗い激情に満ちた短い第2楽章を経て、最も長いアダージョ楽章にたどり着く。「非常に表情豊かで、陰惨」「ゆっくりとした葬送行進曲」(エマール)と評されるこのセクションは、陰鬱かつ悲惨な音楽が聞こえてくる。救いがあるとすれば、ピアノの煌めきくらいだろうか。でもそのピアノも悲劇を刻む手段と化してしまっている。トロンボーンの響きが印象的で、懐かしい気持ちすら湧き上がるオーケストレーションだ。コーダではピアノ・ソロによる短いカデンツァ風のフレーズがあり、そこから第4楽章に繋がる。当盤の演奏で一番楽しめたのが、このフィナーレ。オケもハキハキして躍動感たっぷり。ピアノには相変わらずクールな優しさが感じられるが、聴きながらふと、二十歳のピーターの目線の先にはきっと(この曲をレパートリーにしていた)グールドがいたんだろうな、と思ってしまった。

 

その第4楽章を当盤音源で―。ピアノとオケがスリリングに展開。協奏曲の

1つの醍醐味が聴けるのは、やはりシェーンベルクの古典性ゆえか。

 

ポリーニ&アバド/BPOによる演奏をスコア・リーディング付きで―。

この演奏で初めて「ワルツ」を感じた。さすがのコンビである。