ガーディナー / イングリッシュ・バロック・ソロイスツ&モンテヴェルディ合唱団による一大プロジェクト「バッハ / カンタータ巡礼」のシリーズ第12弾、そのCD2。 前回の続きとして三位一体後の第23主日のためのカンタータを中心とした4曲を収録。哀切な雰囲気が多かったCD1に比べ、当盤は明るく喜びを感じる曲想が多い。カンタータの中でも屈指の名作といわれるBWV140が収録されているのにも注目できる(今回が再録音となる)。2000年11月、ウィンチェスター大聖堂でのライヴ録音。因みにこの企画で用いられたスコアはReinhold Kubikによる最新エディションである。

 

 

 

 

 

 

バッハの宗教曲、というと2つの受難曲やロ短調ミサ、クリスマス・オラトリオなどの大作が直ぐに思い浮かぶ。僕はマタイ&ヨハネ受難曲をともにアーノンクール盤で親しんだ程度であり、他はまともに聴いたことがない。200曲を上回るカンタータは尚更で、有名どころすら通して聞いたことはなかった(単独で演奏されることの多い数々の有名なコラールだけは様々なヴァージョンで親しんでいたが)。それが今回のCD2枚組のガーディナー盤を通してじっくりと向き合うことができたのが嬉しい―それがほんの入口、ドアをノックした程度だったとしても。

 

バッハが数多くの教会カンタータを生み出す大きなきっかけとなったのは、1723年にライプツィヒにて「トーマス・カントル」に任命されたことだった(候補者には当時人気のあったテレマンも含まれていた)。そのため、日曜礼拝用に年間50曲以上必要とされる教会カンタータをほぼ毎週作曲&演奏する極めて精力的な活動を繰り広げることとなった―現存している作品は約200曲で、50曲ほどが紛失している―。ちなみに今年2023年はライプツィヒ着任の300周年ということになる。しかもこの職は教会内のみならず、ライプツィヒ市全体の音楽監督になることをも意味していたのである。というわけで、教会カンタータに加え(宗教的題材によらない)世俗カンタータなども生まれることになる―その20曲ほどの作品の大半がライプツィヒ時代に作曲されている―。有名な作品に通称「狩のカンタータ」BWV208や「結婚カンタータ」BWV210、「コーヒー・カンタータ」BWV211などがある。僕はコーヒー好きなので、以前「コーヒー・カンタータ」に興味が湧いてアルバムを購入したことがあったが、どうもピンとこなかった。オペラティックな要素があるので、実演を観ると楽しめるのかもしれない―そういえばバッハはオペラの類を作曲しなかった―。もちろん礼拝用ではないのでこの度の「カンタータ巡礼」には当然含まれていない(その他、幾つかのカンタータがガーディナーの意向で省かれている)。

 

おそらく知らぬ人はいない敬虔なメロディ―リパッティに相応しい楽曲。

教会カンタータ第147番「心と口と行いと生活で」より―。

 

コラール前奏曲「来たれ、異教徒の救い主よ」BWV659。元となったコラール

がルターによって作詞作曲されたのが1523年。今年で500周年となる。

ブレンデルによる「告別コンサート」の最後のアンコールがこれだった。

 

「羊は安らかに草を食み」―ラン・ラン夫妻による4手ピアノ連弾版で。

世俗カンタータ「楽しき狩こそわが喜び」BWV208(1713)の中の1曲。

 

今やバッハはボカロが歌う時代?実に面白い。歌詞対訳も有難い。

不思議とこれは聴ける。「Kaffee」のスペルが違うのはご愛嬌―。

ガーディナーは激昂しそうだが。

 

 

バッハのカンタータにおいて、アリアやレチタティーヴォは時に人間の弱さをさらけ出し、その祈りは主へと向かう。そしてコラールは人の行くべき道を教え諭す啓蒙的な内容のものがほとんどである―そしてコラールは集った民衆によって歌われるのである。まさに礼拝目的で作曲されているのだが、だからといって音楽自体がストイックにならないのはバッハならでは、といえるかもしれない。特にカンタータの前座に置かれる「シンフォニア」にはバッハの名作コンチェルトの楽章がそのまま用いられ、華々しい効果が生まれる(このCD2でも楽しむことができる。何の協奏曲かは聞いてのお楽しみ)。こんな魅力的な音楽が礼拝で奏でられたら、僕なんかは説教よりも深く印象に残りそうである。バッハの音楽は(ブルックナーの第9交響曲と同様)神に捧げられたものであろうが、同時に音楽が神からの贈り物であることを思い出させる―バッハは必ず宗教曲の自筆楽譜の冒頭と結びにそれぞれ「JJ」(Jesu juva !=「イエスよ、助けたまえ」)、「SDG」(Soil Deo Gloria !=「ただ神のみに栄光を」)とサインしていたという。当アルバムの最初のページには「JJ」の写真が載せられている。この「巡礼」のためにガーディナーが創設したレーベル名が「SDG」であることも偶然ではない。

 

またブックレットには(全てのシリーズがそうであろうが)その時「巡礼」に携わった全ての歌手と奏者、合唱団員の名前がクレジットされているが、CD2で目を引くのはヴィオラ奏者のアネット・イッサーリスの名があることだ―そう、チェリストのスティーヴン・イッサーリスの姉である―。またライナーノーツには彼女による短い寄稿文も載せられているのだが、彼女はそこでバッハ音楽の真髄の一部に触れている。

 

私たちは奏者として、描写者、象徴主義者、伴奏者として、バッハの輝かしい和声言語に宿り、その質感と表現の適性を謳歌する、それぞれのカンタータの本質に深く刻まれているのです

 

(As instrumentalists we are therefore embedded in the substance of each cantata, as portrayers and symbolists as well as accompanists, inhabiting Bach's glorious harmonic language and revelling in his textures and aptness of expression.)

 

 

 

 

 

 

CD2
・カンタータ「幸いなるかな、おのが御神に」BWV139 (1724)
・カンタータ「各々に各々のものを」BWV163 (1715)
・カンタータ「偽りの世よ、われは汝に頼まじ」BWV52 (1726)
・カンタータ「目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」BWV140 (1731)
 

 

 上記3曲がアフター・トリニティの第23日曜日のために作曲されたカンタータである。扱われる聖句は「マタイによる福音書」第22章に基づき、そこではパリサイ人がカエサルに税金を払うことが律法にかなっているかどうかを尋ねることでイエスを試す場面が描かれている。1曲目のカンタータ「幸いなるかな、おのが御神に」BWV139では、そこでの教訓が扱われているといっていい内容だ(テキストはJohann Christoph Rubeによる)。牧歌的といっていいほど穏やかなコラールで始まり、アリア&レチタティーヴォが2度続き、最後コラールで締めくくられる構成。面白いのはそれぞれのアリアとレチタティーヴォがテノール、アルト、バス、ソプラノの順で割り当てられていることである。ガーディナーの解説によると、このカンタータの自筆譜は失われており、部分的にしか現存していないようだ。それで今回、ロバート・レヴィンによる補筆パートにより再構成された演奏となっている。印象的なのは第2楽章のテノールによるアリアによる「Gott ist mein Freund」という威勢のいい歌い出しである―「神が友である」という感覚は普通得られるものではない。でも聖書の中ではそれが真実として見られるのである。2つのオブリガート・ヴァイオリンがうごめく通奏低音とともに一種のトリオ・ソナタのような様相を呈しているのも興味深い。第3楽章のアルトによるシリアスなレチタティーヴォ(これがマタイの聖句の内容に一番近い)の後、第4楽章のアリアでは2本のオーボエ・ダモーレとヴァイオリンのコンチェルタンテな合奏をバックにバスがドラマティックに歌う。このアリアと最後のコラールは内容の点で「Gott=Freund」を敷衍している。

 

 

 

 

2曲目のカンタータ「各々に各々のものを」BWV163は4曲中一番古い作品となる―ワイマール時代のもの―。タイトルはパリサイ人の問いへのイエスの言葉と関わりがある(「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」)。テキストは「狩のカンタータ」など数多くのカンタータの台本を担当したサロモ・フランク(Salomo Franck)による。宮廷における貨幣学者でもあり、ワイマール公爵のコイン・コレクションの管理を担当していた彼が、この度のような神殿税を含む貢物に関わるマタイ福音書に基づくテキストを手掛けているというのは適材適所のような気がする。珍しく弦楽と通奏低音のみによる(弦楽の組み合わせも珍しく、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ2となっている)モノトーンな音色は当時バッハが仕えていたワイマール公の甥 ヨハン・エルンスト公子が18歳の若さで病没したことと関係しているのだろうか、少しほの暗い曲調がすこぶる印象的である。曲はテノールによる物憂げなアリアから始まり、バスのレチタティーヴォ&アリアを経て、ソプラノ&アルトのデュエットによる美しきアリオーソに至る。2人によるデュエットは続く第5楽章アリアでも聞かれ、最後は簡素なコラールで締められる。2本のチェロがオブリガートとしてゴリゴリと活躍する第3楽章アリア―この動きにガーディナーは「錬金術」をイメージしたという―ではバスが「わたしの心をイエスに支払うコインとしてほしい」と歌う。耳をそばだてられるのはやはりデュエットの2つの楽章であろう。特に美しさが際立つのは第5楽章アリアで、デュエットの背後から弦楽によるコラールが決意を後押しするように迫るのがひどく印象に残る。

 

 

 

 

3曲目のカンタータ「偽りの世よ、われは汝に頼まじ」BWV52では、まず冒頭のシンフォニアから驚かされる―CDのプログラムを間違えて設定したかと思うほどだ―。そこで聞こえるのは何とブランデンブルク協奏曲第1番の第1楽章なのである(初稿版BWV1046aからの転用らしい。なので現行版でのヴァイオリン・ソロは採用されていない)。というわけで楽器編成もホルン2、オーボエ3、ファゴットが弦楽合奏に追加されている。バッハはこのアイディアを気に入っていたのか、世俗カンタータにも取り入れている(「狩のカンタータ」ではシンフォニアとして一部もしくは全曲が演奏された可能性も指摘されている)。

 

 

祝賀カンタータ「いざ,勇ましきラッパの嚠喨たる調べよ」BWV207a 

冒頭コラールにブランデンブルク協奏曲第1番第3楽章が転用―。

 

カンタータ第146番&第156番。さてシンフォニアに使われている曲は?

 

 

このカンタータの特徴はそれだけでなく、ソプラノ・ソロ用のカンタータという点もある。なので2組のレチタティーヴォ&アリアも彼女が一人で歌いこなすことになる。ここで美声を発揮しているのはギリアン・キース(彼女はBWV139でも歌っていた)。ウィンチェスター大聖堂の美しい残響とともに楽しめるが、歌詞はなかなかなもの―タイトルからしてもそうだ。偽りの世だからこそ、神に頼り、神を友とする―そんな心の動きが示されている。お祭り騒ぎのようなシンフォニアが何か音楽の流れから取り残されたような気がする―ガーディナーはそれを察していたのか、シンフォニアの最後の音が消えかかる寸前に通奏低音のオルガンを強音でかませる。暴力的なまでに―。ニ短調で始まる第3楽章アリアが嘆きが神への信頼に転じるプロセスを示すとしたら、第4楽章のレチタティーヴォの天上の美しさと第5楽章アリアの穏やかさ(3本のオーボエが豊かな情感を描いている)は一種の到達点なのかもしれない―「Gott mit mir, und ich mit Gott」―。最後を締めくくるコラール「In dich hab ich gehoffet, Herr」はAdam Reusnerによるもので、「クリスマス・オラトリオ」BWV248でも聞かれる。短いコラールだが、冒頭シンフォニアの編成が復活して最後を飾っている。

 

 

 

 

最後に聴くのはカンタータ「目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」BWV140。4曲中最も新しい作品である。規模も大きく(25分以上を要する)、成熟した作品とみなされており、おそらくバッハの全カンタータの中で不朽の名作、有名曲の部類に属するだろう―CDなどでよく見るのはカンタータ第147番「Herz und Mund und Tat und Leben」とのカップリングである。ガーディナーも1990年にそのカップリングで録音していた。驚くべきことに僕はそのどちらも通して聞いたことがなかった。今回ようやくBWV140を全曲楽しむことができたのである。

 

三位一体節後第27日曜日のために作曲―教会暦上、この日のためのカンタータはこの1曲のみとなっている。テキストはマタイによる福音書第25章の「花婿の到着を待つ10人の花嫁のたとえ」に基づく(勿論「花婿」とはイエスのことである。これは黙示録の記述とも符合する。真夜中のいつ到着するか分からぬ故、目覚めていなくてはならないわけである)。曲は特徴的な行進曲風のコラールでスタートする。シンコペーションのリズム、弦楽器の刻みはまことに印象的だ―ガーディナーは「フランス風序曲」を引き合いに出している―。期待に胸が弾む様子なのだろうか、花婿が乗った白馬のリズムであろうか、想像するのは楽しい。そして音楽も明るいのである。しかし歌詞はあくまでも注意を促している。後半「Alleluia !」が歌われるのはカンタータとしては珍しいのだろうか―バッハ作品であまり聞いたことがないので妙に新鮮だった。第2楽章はテノールによるレチタティーヴォ。オルガンによる通奏低音とのコラボが受難曲でのエヴァンゲリストを思わせる(このレチタティーヴォが実は好きだったりする。受難曲のアルバムにはハイライト盤もあるが、殆どがアリアやコラールばっかりで、レチタティーヴォは悉く省かれているのが残念である)。第3楽章はソプラノとバスのデュエットによるアリア。興味深いのは配役が決められていて、「魂」(霊)がソプラノ、バスが(いつものように)「イエス」を意味する。シチリアーノのリズムによるハ短調のアダージョが美しい。ヴァイオリーノ・ピッコロのオブリガートが粋だ。そしてソプラノを歌うスーザン・ハミルトンの歌唱が異常に美しい(BWV163でも歌っているのだが、さほどとは思わなかったのに)。同じようなデュエットは第6楽章でも用意されている―そこでは変ホ長調になり、オブリガートとしてオーボエが活躍、小躍りするような軽快さに溢れている―。

 

そしていよいよ超有名なコラールが第4楽章に登場する。興味深いのはコーラスのテノールのみが歌っていることである。キャラクター分けをしているのは明らかで、おそらくはテノールによるレチタティーヴォ(第2楽章)と関連しているのではなかろうか。そこで歌われた歓びがコーラスによって拡張されているかのように感じられる。

 

誰もが知っているこのメロディ―。シュプラー・コラール集として纏められている

なかから、第1曲「目覚めよ、と呼ぶ声が聞こえ」BWV645。

 

 

第5楽章のバスによるレチタティーヴォを受けての第6楽章の(前述の)第2デュエットの幸福感は、「Gloria sei dir gesungen」と歌い出す最後のコラールでクライマックスに達する。力強く、荘厳さすら感じられる。花嫁が花婿と永遠に(「ewig」)結ばれる歓びを、これほどまでに神的な輝かしさを持って表現した音楽を僕はほかに知らない―。

 

教会暦で見ると、このカンタータが演奏される時期は三位一体節の最後の日曜日から待降節(クリスマス)へ向かう、重要な転換点とされているそうだ。ある意味で一年で最も暗い時期ともいえる。「夜明け前が一番暗い」とよく言うが、まさにそうなのかもしれない。

 

 

当音源盤よりCD2の全曲演奏を―。全4曲トータルで72分ほどである。