去る6月4日に120回目の誕生日を迎えたロシアの指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903-88)と手兵レニングラードpo(現在はサンクトペテルブルクpo)によるシューベルト&シベリウスの後期交響曲集。合間に「トゥオネラの白鳥」も収録されている。旧メロディア・レーベルでリリースされたムラヴィンスキー生誕100周年を記念したアニヴァーサリー・エディションの中の1枚である。1960~70年代後半のコンサート・ライヴ音源ながら、デジタル・リマスターが施され、ヒスノイズのない良好な状態で聴くことができる―。

 

 

 

 

 

往年のリスナーはよく指揮者のタイプを「フルトヴェングラー」か「トスカニーニ」に大別していたが、はたしてムラヴィンスキーはどちらに属するか―それが問題である(比較できるというのは分かりやすく有難い)。徹底した雰囲気などはトスカニーニに近いが、ムラヴィンスキーには安易に人を寄せ付けない独特の詩情がある。トスカニーニが「炎」なら、ムラヴィンスキーは「氷」のような冷徹なカンタービレを聴かせ、リスナーを戦慄させる。ムラヴィンスキーの国内盤というと「チャイコフスキー/後期交響曲集」が有名だが、(自慢にならないが)僕は一度も聞いたことがなく、これまで入手したムラヴィンスキーのCDは僅か。どれもついに手元に残らなかったが、当アルバムだけは例外である。

 

 

ショスタコーヴィチ/交響曲第8番。1960年ロンドンでの初演ライヴ。

「BBC Legends」レーベルから出たCDを以前所有していた。

 

モーツァルト/交響曲第33番~第2楽章。

 

モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第5番。1956年ウィーンでのライヴ盤。

ショスタコーヴィチが目当てだったのに、こちらに魅了された。

 

ブラームス/交響曲第4番終楽章のリハーサル映像―。ビクターから

出ていたCDではシベリウス7番とカップリングされていた。

 

ブルックナー/交響曲第9番。1980年ライヴ盤。

 

 

 

 

1曲目の「シューベルト/交響曲第7番ロ短調D759」(当盤では第8番「未完成」と記載)については、今まで数え切れないほどの賛辞や批評、憶測が語られてきた―ナンバーの変更や作曲の経緯などについては下記リンクを参照―。僕の見立てを述べさせてもらえるなら「全2楽章で完成したものとみなしていた」というのが濃厚だ。未完で放棄した交響曲は5曲あるとされているし、未完の状態でグラーツ楽友協会に送った事実に違和感を覚えたからだ。第3楽章スケルツォのスケッチが残されていることから、作曲の意志を感じることができるが、続行しなかった理由は依然として不明である―幾つかの憶測の中で面白いのは「ベートーヴェン/交響曲第2番のスケルツォに似ており、行き詰まりを感じた」というもの―。「2楽章完結説」を採るなら、第3楽章は途中で放棄されたことになる。従来の交響曲の様式に拘らなければ、この第7番は全2楽章で「完成」した交響曲となるのである(当アルバムにカップリングされたシベリウス最後の交響曲が単一楽章で完成された作品であることを思い出してほしい)。

 

シューベルト自身、この曲の初演に立ち会うことはできなかった―初演は1865年、彼の死の37年後に行われた。エドゥアルト・ハンスリックによると、この曲は熱狂的に迎えられ、第1楽章の最初の主題が流れるやいなや、「シューベルト!」という感嘆に満ちた多くの囁き声がホールに響き渡ったという。さらに、2つの楽章の魅惑的な美しさを称え、シンプルなオーケストレーション(2管編成)にも関わらず、そこから得られる音響効果はワーグナーですら達成できないとし、「シューベルトの最も美しい器楽作品の一つ」と締めくくっている。

 

残された楽章の補筆も現在では普及しつつある。以前は第3楽章の(総譜になっていた)20小節までを演奏したケースがあったが―ジョナサン・ノットがバンベルクsoと完成させた全集盤(Tudor)に含まれている―、現在では4楽章版をいくつかの演奏で聞くことができる。多くの場合、同時期の作品―「ロザムンデ」間奏曲第1番ロ短調―を補筆の参考にしているようだ。中には逆転の発想で「ロザムンデ」が(全4楽章の)交響曲第7番から採られたという説もあり、最近のマリオ・ヴェンツァーゴ盤(Sony)はそれに依っているそうだ。

 

 

 

 

アーノンクール夫妻亡き後CMWを引き継いだステファン・ゴットフリード

指揮による補筆完成版より第3,4楽章を―。最終的な判断は各自で。

 

 

 

「未完成交響曲」には1つの思い出がある―父子家庭だった僕の祖母が昔から好きだった曲で、以前に自分が思いつく色々な演奏を聴かせたことがあった。でもどの演奏もヒットせず、悔しい思いをしたものだった。今から思うと、多分ワルター/VPO盤が祖母の心に残っていた演奏だったのかもしれない―。

 

今までにバーンスタイン盤をはじめとして(ピリオド・アプローチを含む)様々な演奏を聴いてきた―特にアーノンクール旧盤はシューベルトの手紙に基づいた解釈でとても興味深かった―が、最近まで所有盤として残っていたのはクレンペラー/VPO盤だった。1960年代の古き良きウィーンの響きが残された良質な録音は実に味わい深く、そのスケール感豊かな演奏は作品の真髄に触れるような瞬間が感じられた。シューベルトの他の交響曲ではHIPスタイルが功を奏する感じがしたが、この曲だけはどうも奏法や楽器の問題では済まされない命題が含まれているような気がしてならなかったのだ。地の底から響くような序奏、天国と地獄を行き来するような激しいコントラストの楽想は、明らかにそれまでの彼の作品、いや、それまでに作曲された全ての作曲家の交響曲とも違う音楽世界であった。当アルバムのムラヴィンスキー盤だけが命題をクリアしている、というつもりはない。ただ、ムラヴィンスキーの特徴である正確無比な合奏と百発百中のアタック、クールで厚みのある弦の響きは、この作品が孕んでいる深淵を垣間見せる。その秘めたる恐ろしさが如実に感じれるのは、意外にも第2楽章なのである―「愛らしく、讃美歌のような至福の思い」と形容されることもあるホ長調であるにもかかわらず、である。驚くべきことにムラヴィンスキーは他の誰も実践していない(シューベルト自身ですら想定していなかったであろう)表現を加える―それは強弱の逆転である。通常フォルテで奏される箇所がピアニッシモでスタートするのだ。原典至上主義が横行している現代ではもはやあり得ない芸当だが、この効果は恐ろしい。何度聞いても癒されることがない。もはやシューベルト自身の音楽によって、その結末に訪れる音世界によってのみ治癒が可能なのである。

 

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」とはニーチェからの引用だが(「善悪の彼岸」)、ムラヴィンスキーのシューベルト演奏には、この言葉がとてもよく当てはまるように思える。彼の「未完成」は数種類のライヴ録音が残されているが、当盤は1978年4月、レニングラード・フィルハーモニー大ホールでのライヴ・レコーディングである(この曲以外シューベルトを録音していないようだ)。

ちなみに自身の最後の演奏会―1987年3月6日―のプログラムはシューベルトの「未完成」とブラームスの4番であったという。

 

当盤音源より―。こちらも鮮明な音質。

 

「未完成交響曲」に関わる映画の数々―。

 

ゴドフスキー/「パッサカリア」。変奏主題が「未完成交響曲」に基づく。

 

 

 

 

アルバム後半はシベリウスの作品―4つの伝説曲Op.22~第3曲「トゥオネラの白鳥」と「交響曲第7番ハ長調Op.105」。ムラヴィンスキーによるこの演奏は1965年2月、モスクワ音楽院大ホールでのライヴ・レコーディングとなっている。

 

「4つの伝説曲」は別名(フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」に基づく)「レンミンカイネン組曲」と呼ばれ、シベリウスがワーグナーの楽劇に感銘を受け、研究を始めた時期と重なる作品だ―もっとも最終的にはワーグナーとは別の道を歩むことになるが―。だからだろうか、その3曲目(当初の順番であり、現行版では2曲目にあたる)「トゥオネラの白鳥」では、まるでワーグナー/「ローエングリン」のような響きが聴こえる。トゥオネラ川に佇む白鳥を描いたといわれるこの曲、美しくも静かな弦楽のさざ波の中、白鳥を表わすイングリッシュホルンの歌が深く印象に残る。1937年に日本初演された際は「黄泉の白鳥」という曲名で紹介されたらしいが、そう言われるとそんな風に聞こえたりもする―それくらい情景をイメージさせるほどの豊かな印象を与える作品であり、まさに「交響詩」たる所以であろう。

 

当盤音源より。録音データにズレがあるが、おそらく間違いはないだろう。

ムラヴィンスキー盤は標題音楽というより絶対音楽のように聞こえる。

 

ムラヴィンスキーによるワーグナー/「ローエングリン」前奏曲。

1977年東京でのライヴ音源―。

 




続く「交響曲第7番」への流れがきわめてスムーズであることに気づく―もしこの作品に標題が付いていたなら「交響詩」に分類されたかもしれない(初演時には「交響的幻想曲」と名付けられたという。シューマンが聞けば喜びそうなタイトルである)。シベリウスが完成した最後の交響曲が単一楽章となったのは初めからの構想ではなく、当初は3楽章形式だったようだ。それが、あたかも執筆中の小説が、作家の思惑を超えて思いのよらない結末へ物語を導くように、交響曲史上類を見ない凝縮した姿へと統合されるのである。

 

実はこの凝縮性はこの第7番が初めてではなく、既に交響曲第5番で試みられ、成功を収めている。第5番は当初4楽章形式で作曲が進められていたが、やがて最初の2つの楽章が1つに統合され、(第2楽章の)スケルツォ的な要素が含まれた冒頭楽章に生まれ変わったのだった―第5番は第6番とともに、第7番と作曲が同時進行で進んでいたことは注目に値する―。そしてこの第7番では一部の楽章ではなく作品全体に射程が及び、ついにソナタ形式、スケルツォ、アダージョ、フィナーレという各楽章の要素が1つの楽章に凝縮されることとなった。各楽章がアタッカで繋がれたシューマン/交響曲第4番を遥かに超えた融合性を感じる。以前のブログでも述べたかもしれないが、音楽は時に建築に例えられ、交響曲は構築性が特色となるが、シベリウスの交響曲の場合はむしろ植物の生長のような有機的な構造を思わせる。とりわけこの交響曲第7番はそうかもしれないが、もはや地球を飛び出している印象もある。

 

 

 

単一楽章による交響曲第7番には「Adagio」-「Vivacissimo-Adagio」-「Allegro molto moderato-Allegro moderato」-「Vivace-Presto-Adagio-Largamente molto」-「Affettuoso」という演奏表記(実際はもっと細かい)が与えられているが、当アルバムでは5トラックに分けられている。冒頭のアダージョの序奏からトリスタン和音のような響きに聴こえるのは興味深いことである。強度の強い純粋な絶対音楽を聞かせるムラヴィンスキーだが、この演奏の特色であり不思議な魅力ともなっているのはヴィブラートがかけられたトロンボーンのソロだ。シンフォニー全体の要となるテーマだからかもしれないが、一度聴いたら忘れられないインパクトを持つ。前述の通りテンポ変化が頻出するので(調性の変化も多彩だ)、音楽が次々とうねるように展開してゆくが、ムラヴィンスキーだからだろう、表現が的確にヒットし、タイトに音楽が進んでゆく。中間部では作曲家曰く「ギリシャ風ロンド」が現れるが(どの辺りかは実際聴いてみていただきたい)、キレのあるサウンドとリズムが素晴らしい。「Vivace」以降の音楽の展開には言葉を失うほど聴き入ってしまう―終盤へ向けてクライマックスを築いてゆくからだ。途中「Adagio」では妻の名前がスコアに記された「アイノ」のテーマが「神の楽器」トロンボーンのソロで奏されるのは象徴的である。拡大膨張し、高揚した頂点で訪れる「Largamente」(ここのフレーズは「悲しきワルツ」の引用であるという見解もある)でのハイポジションの弦楽によるコラールはまさに神々しく感動的―この箇所を聴くとマーラー/交響曲第9番終楽章のクライマックスをいつも思い出すのだが、陰と陽の違いがある―。「Affettuoso」から始まるコーダでは再びアイノ主題が現れ、「愛情深く」奏される。終結部の最後の高揚は宇宙の叡智を仰ぎ見るかのようだ。

 

レイフ・ヴォーン=ウィリアムズが語ったとされる「今日、シベリウスか神だけがハ長調で書くことができます」という言葉は第7交響曲―「7」の意味を考えると興味深い―の素晴らしさを端的に示したものであるといえよう。

 

 

シベリウスの妻アイノ・ヤルネフェルト

 

 

当盤音源より―。動画では細かくタイムが刻まれていて便利。

 

ムラヴィンスキーによるシベリウス/交響曲第3番。1963年10月録音。

これでほぼ全てのムラヴィンスキーのシベリウス録音が揃った。

 

バーンスタインによるマーラー9番のリハーサル映像より。

フィナーレ部分を演奏している。

 

シベリウス/「悲しいワルツ」Op.44。オケ版とピアノ版で―。