まぎれもなく世界最高の歌い手であるチェチーリア・バルトリが、綿密な研究&調査によってヴィヴァルディの「オペラ作曲家」としての知られざる姿を鮮烈に描き切ったアルバム。バックを担うのは気鋭のピリオド・アンサンブル、イル・ジャルディーノ・アルモニコ。当盤は全世界で70万枚のセールス、世界6カ国でゴールド・ディスクを獲得という、彼女のキャリアの中でも記念碑的なアルバムとなった。

 

 

 

 

 

 

ヴィヴァルディ=「四季」という図式が良くも悪くも定着してしまった中で、新たな面を示したこのディスク、僕も今回初めて聞き、感嘆の念を禁じ得ない。以前ブログで取り上げた書籍「古楽の終焉」で紹介されていた音源がこのアルバムの1曲だったのがきっかけになった。「人間の声こそ最高の楽器」といわれることがあるが、このアルバムを聴くとまさにその通りだと思う―実に素晴らしく昇華された修辞学的音楽の極致である。そして声楽→器楽へとシフトしていった音楽史の中で、このような芸術的なまでのコロラトゥーラ歌唱は「器楽を声楽のように歌わせる」とは逆説的な、「声楽を器楽のように扱う」手法に思えて大変興味深く感じた。

 

 

 

 

「600曲の協奏曲を作曲したのでなく、1曲を600回作曲したにすぎない」と揶揄されることもあるヴィヴァルディの音楽だが(イタリアの現代作曲家ダッラピッコラの言葉とされる。同国の作曲家というのが驚きではある)、実は僕も同じように感じ、積極的に聴いてこなかった。大多数のリスナーと同様、初めて聞いたのはイ・ムジチ合奏団による「四季」だった―ミケルッチ時代の第3回録音。日本でミリオンセラーとなった。21世紀のリスナーは最初に誰の演奏を聴いたのだろう?―。その後も、パンクな容姿ながら演奏は真摯なナイジェル・ケネディ盤や初のピリオド録音となったアーノンクール盤、より過激なイル・ジャルディーノ盤、ピアソラと組み合わせたクレーメル盤、最近ではマックス・リヒターによる再作曲版などを聞いたが、それっきりである。ヴィヴァルディの他の作品には見向きもしなかったのに、こうして知られざるオペラ・アリア集を聞いているのだから、人生はわからない。

 

世界で500万枚のセールスとなったデビュー盤

 

 

庄司紗矢香の弾き振りによるリヒター・ヴァージョン。何枚か録音

もあるようだが、どれもこの演奏を超えるものではない―。

 

ヴィヴァルディ/「調和の霊感」~第10番をバッハが編曲したヴァージョン。

バッハもヴィヴァルディから多くを吸収していたことが伺える―。

 

「恋人」というニックネームで親しまれている心安らぐ名品―。

このマンゼ盤は通奏低音にテオルボが含まれていて好ましい。

 

映画「クレイマー、クレイマー」で有名になったマンドリン協奏曲

ハ長調RV425。バックの弦楽が終始ピツィカートでソロを支える。

 

ギドン・クレーメルによるピアソラ/「ブエノスアイレスの夏」。

「四季」~「冬」が引用されている(南半球だからか)。

 

 

 

 

ヴィヴァルディ本人の言によれば「オペラを94曲作曲した」とのことだが、改作を除くと実数は50曲ほどになるという―それでも多作なのは確かだが―。その中で現存するのは半分以下の21曲とされる。当アルバムではその半分の11作品のオペラから13曲のアリアが歌われており、そのうちの5作品は世界初録音である。充実したライナーノーツ(多くの写真やヴィヴァルディ自身のモノグラムも記載)によれば、バルトリは北イタリアのトリノにある国立図書館にある自筆楽譜を調査し、レコーディングに結実させたという。彼女はアルバムにコメントを寄稿している―。

 

 

私たちはエキサイティングな旅行から帰ると、たいていは友人たちとその体験を分かち合いたいと思います。私たちが訪れたとても興味深い所で撮った写真を見せたり、出会ったおもしろい出来事のすべてを夢中になって話します。

 

同じようにこのレコーディングは、私がトリノの国立図書館を訪問し、ヴィヴァルディのオペラの手書き楽譜を調べ、長い間顧みられることのなかった多くの傑作を見つけるという魅力的な発見の報告なのです。

 

このレコーディングは、私の兄ガブリエーレの熱心さとあらゆる種類の偉大な音楽への愛情なくしては決して実現しなかったことでしょう。私はこのレコーディングを兄の霊に捧げたいと思います。

 

 

 

 

バルトリ&イル・ジャルディーノとのパリでのライヴ。聴衆も熱狂―。

ヴィヴァルディの時代でもそうであったに違いない。

 

当アルバムの20年後に再びヴィヴァルディ/オペラ・アリア集を

レコーディング。情熱は留まるところを知らない―。

 

オペラが禁止された時代に書かれたオラトリオを集めたアルバムより。

ヘンデルの有名なアリア「私を泣かせてください」と同じ旋律が―。

 

 

 

メッゾを基本にしつつもソプラノの音域もカバーし、超絶技巧の歌を聞かせるバルトリがメインであることは確かだが、リコーダー奏者兼指揮者のジョヴァンニ・アントニーニが率いるイル・ジャルディーノ・アルモニコによる、単なる伴奏を超えた鮮烈な演奏にも注目できる。強弱の極端な対比、スピード感あふれ、表現のためなら汚い音も辞さないアーノンクールばりの大胆な踏み込みを聞かせる彼らの演奏は実に刺激的。そもそも以前のアーノンクールと同じテルデック・レーベル専属の団体であり、ロケーション場所も(アーノンクールのお膝元だった)グラーツのStephaniensaalでの録音となっている―バルトリはデッカ・レーベルの専属アーティストであり、当アルバムはレーベルの違いを超えて完成されたものである―。スタッフの兼ね合いまではわからないが、テルデック録音ほどオンマイクではなく本来の迫力が後退した感もあるが、歌との合わせゆえのバランスがとられているのかも知れない。また、アーノンクールの演奏活動のために結成されたアルノルト・シェーンベルク合唱団も参加しており、演奏に華を添えている(何と冒頭1曲のみという贅沢な起用)。

 

「混ぜるな危険」の2人が共演したヴィヴァルディ・アルバム。

 

Haydn2032のプロジェクトが進行中―ここでは第45番「告別」を。

フィナーレの粋な演出にも注目―。

 

 

 

 

秘曲を集めているだけあって、僕が知っている作品は1曲もないが(ヴィヴァルディ・マニアは別だろうけど)、この種のアルバムを聞かせるには作品が魅力的か、演奏が素晴らしいかのいずれかになると思う―この点バルトリは聞かせ上手で、冒頭からあっ!と驚かせてくれる。その1曲目はタイトルチューンにもなっている「そよ風のささやきに」(歌劇「テムポー渓谷のドリッラ」第1幕第1場)だが、「春への喜ばしい予兆」が何と「四季」~「春」の有名な旋律とともに合唱によって歌われるのである。この引用の効果は絶大で、聞き始めて直ぐに心を捉えられてしまう―春の雰囲気においては寧ろ原曲よりこちらの方が華やいで聞こえるほどである。

 

ニンファと牧夫たちとの合唱からなり、オペラでも冒頭で歌われる。

 

 

そして11曲目のアリア「凍りついたようにあらゆる血管を」(歌劇「ファルナーチェ」第2幕第6場)では、「四季」~「冬」の冒頭を思わせるフレーズが現れる。全13曲の中でも唯一10分越えの長大なアリアで、ヘ短調で示される深い悲しみの音楽が実に印象的であり、リスナーの注意を惹きつける巧みな選曲といえよう―。

 

「冬」~第1楽章との聞き比べ。イル・ジャルディーノ盤より。

 

 

 

他に印象的なナンバーを挙げてゆく―。

3曲目の題名不詳のオペラのアリア「二つの瞳に真ささげて窶れゆくのは」ではリコーダーよりも小さなフラジョレット2つが登場する牧歌的な音楽―おそらく「二つの瞳」を表しているのだろう―。ここでは指揮者アントニーニがリコーダー奏者としての腕前を披露している(世界初録音のナンバーでもある)。

 

大体のアリアがABAの三部形式からなり、Bは短調となることが多い。

 

 

5曲目「ささやく春のそよ風よ」(歌劇「テルモドンテ河へ向かうヘラクレス」第2幕第1場)では、再びあたたかな春の酔いしれるような雰囲気が漂う―まるで20世紀のオルフ/「カルミナ・ブラーナ」を先取りしたかのような夢幻的な音楽だ―テキストはカルミナの方がずっと古いが。前奏では2つのヴァイオリンと2台のチェンバロがエコーのように用いられ、引き継ぐ歌唱でも遠近法を意識した効果が聞かれる(こちらも世界初録音)。

 

「カルミナ・ブラーナ」~第8曲との聞き比べ。歌詞は中世時代のもの。

 

 

また、レチタティーヴォ&アリアの形式の曲も3曲ほど収録されている。叙唱ではテオルボやチェンバロといった通奏低音がつま弾かれ、朗誦が始まりアリアへ突入するが、この形式だとオペラを聞いている気分になれるのも事実。ここではバッハの受難曲をかくやと思わせる深刻な面持ちの第9曲目を―。

 

「運命よ、おまえは私を招いたが……私には胸中、それほどに強き心がある」

(歌劇「ユスティヌス」第2幕第13場)。こちらも世界初録音。

 


最後の13曲目はトランペット&ティンパニが活躍するアリアで幕を閉じる―歌劇「テウッツォーネ」第2幕第1場での「戦闘ラッパの」である。幕開けの行進曲風アリアをアルバム最後に持ってくるのも面白いが、華やかなクライマックスに貢献しているようではある。でも記事の〆には僕の唯我独尊的嗜好でこのナンバーを―。
 

7曲目「言ってください、ああ」(歌劇「忠実なニンファ」第3幕第10場)。

テオルボが伴奏する歌曲のような仕上がり。悲しみの情感が溢れる―。