旧テルデック・レーベルによる好企画「THE LIGETI PROJECT」からの第3弾。20世紀音楽の最高傑作の1つであるヴァイオリン協奏曲やチェロ協奏曲を中心に、世界初録音を含む充実したアルバムとなっているー。

 

 

 

 

 

この企画はどうやらソニー・レーベルでの「LIGETI EDITION」―リゲティ生誕75年を記念した企画―の続編のようで、室内楽や器楽、声楽が中心だったそれらに対し、「THE LIGETI PROJECT」は管弦楽や協奏曲をメインにレコーディングされている。リゲティ自身の謝辞にもあるように、(ソニー盤を含む)これらの録音は後援者のヴィンセント・メイヤー(Vincent Meyer)の全面協力によって成し遂げられたものであった。レコーディングにはリゲティ自身が立会い(ライナーノーツにはその写真が載せられている)、作曲者監修によるヴァージョンとなっているのも演奏に説得力を与えている―各曲の解説もリゲティ自身による。

 

 

 

 

エマールによるムジカ・リチェルカータ第2番。2音のみ用いられた作品。

 映画「Eyes Wide Shut」でも用いられた。最近では東京交響楽団の定期

で、マーラー6番の前座に弾かれたのが印象的だった。

 

「ルクス・エテルナ」はこの映画のおかげでリゲティの代表曲になったかも。

キューブリック監督が(候補があったにもかかわらず)無許可で用いて

裁判沙汰になったのも話題となった。

 

 

 

本プロジェクト第4弾「レクイエム」から「キリエ」。こちらも映画で使用された。

かつて僕が手放したCDであった(無理もない)。

 

こちらは第1弾「ピアノ協奏曲」~第1楽章。エマールがノリノリで演奏。

今は楽しく聞けるのに、数年前は受けつけなかった。

 

第2弾ではジョナサン・ノットが登場―BPOとの豪華な共演が実現。

「ロンターノ」は有名な「アトモスフェール」より詩的で聞きやすい。

 

その「アトモスフェール」をラトル/BPOで。ラトルの解釈なのか、

どこかロマンティックに響くのは気のせいだろうか―。

 

 

 

 

現代音楽に興味を持つ人なら、大御所といえるリゲティを無視するわけにはいかないーというわけで色々聞いたが、ことごとく僕の耳と心をすり抜けていった。先日「振り返り投稿」で扱ったクセナキスを聞いて感銘を受けた後でも微妙だった(クセナキスがあれば現代音楽は他にはいらない、と思っていたからかもしれない)。数式を用いた作曲法など、リゲティとクセナキスは共通する部分もある。しかし生み出される音楽はまるで異なる―「カオスな音響」という点で似ている気がするが、クセナキスが「存在をかけた真摯な音楽」だとすれば、リゲティの音楽は奇異なサウンドだけが目立つ「エンターテイメント」な感じがしたのだ(映画でよく用いられているのはそういう面があるからではなかろうか)。当アルバムの印象も同様だが、素晴らしいソリストや現代音楽を得意とする音楽家たちのおかげで、極めて質の高い充実した演奏を純粋に楽しむことができる。ソリストは後述するとして、アンサンブルの中核となるのはラインベルト・デ・レーウ率いるASKOアンサンブル&シェーンベルク・アンサンブルの合同演奏である(この2つの団体は後に合併する)。演奏至難な(はずの)リゲティの音楽が鮮やかで楽しく聞こえるのは、彼らの実力の所以であろう。

 

 

アルバム1曲目は「チェロ協奏曲」(1966)。献呈者ジークフリート・パルムのチェロ独奏による全2楽章の作品である。このアルバムの中で一番好きな曲であり、映画で用いられていたことで知った作品である―ディカプリオ主演の映画「シャッターアイランド」―。特に第1楽章の不穏なアンビエントのような音楽は映画の内容にピッタリで、とても印象に残った。リゲティ自身第1楽章が「アトモスフェール」(1961)の影響下にあることを認めており、アンビエントな感覚が主立っている。極めて静寂に―「pppppppp」という演奏指示―ソロから始まるこのコンチェルトが従来のもののアンチであることは明らかで、室内楽的編成のオケとソロが交わることはない。楽章の終わり辺りに登場するソロによるハイトーンがクライマックスとなる。アタッカで第2楽章が続くが、当初リゲティは単一楽章の構想であったという。前楽章とは異なり、動的でコラージュのように激烈な音響が炸裂しては交替してゆく(「アヴァンチュール」(1962)との関わりが指摘されている)。終わりに現れる超絶技巧的なカデンツァの存在が、この曲が「協奏曲」であったことを思い出させてくれる―終楽章の最後にカデンツァが配置されるのはシューマンのチェロ協奏曲などに先例を見出せる―。

 

オケの配置がよく見渡せる演奏。ソリストの特殊奏法にも注目―。

 

アヴァンチュールなひとときをお過ごしください―。

 

 

 

 

2曲目の「時計と雲」(1973)は12人の女声と管弦楽のための作品で、このたび世界初録音となる。オケの規模は管楽器を中心に拡大しているが、弦楽器はヴァイオリンが省かれ、チェレスタなどが加えられている。当然僕も初めて聞いたが、前作のチェロ協奏曲やアトモスフェールでのアンビエントな雰囲気を継承しつつも、意外にミニマル風な音楽語法が用いられているように聞こえて面白い―ミニマル音楽の規則性を「時計」になぞらえているのかもしれない―。一方で「雲」のような流動的なフレーズが聞こえ、やがて両者は溶け合い交代する。作曲者も認めているように「詩的な連想」を感じるのは確かで、それが作品の魅力となっていると思う。「12」人の女声(この数字の意味は想像がつく)が歌うテキストは聞き取れないほど抽象的で、ライナーノーツによれば「国際的に通用する音声をアルファベットで記したもので、リズムのアーティキュレーションや音色の変化に貢献している」のだという。ちなみにタイトルはカール・ポッパーの科学哲学の論文に由来しているそうだ。

 

当盤音源より―。このアルバムの中で一番聞きやすい音楽かも。

 

 

 

 

3曲目は再びコンチェルトになり、20世紀末の最高作(持論)「ヴァイオリン協奏曲」(1992)である。このアルバムを購入する前に実はリゲティの協奏曲集のCDを所有したことがあった―ブーレーズ/EIC盤。献呈者であるサシェコ・ガウリロフが独奏を担当していたが、どうもしっくりこなかった思い出がある。それでも第2楽章のアリアがリゲティには珍しいほど詠嘆的な旋律で、惜しいとも思っていた。暫くして購入した当盤では(演奏が良いせいのかどうかは判別しづらいが)不思議と楽しめた―僕自身が「成長」したのかもしれない。「習うより慣れよ」ではないが、現代音楽に親しむには色々偏見なく聴き続けることが必要なようである―。

 

当初8楽章(!)形式を予定していたこのヴァイオリン協奏曲は一旦は3楽章形式で1990年に初演されたものの、1992年に5楽章形式に改訂されたようだ―その際に未完成の楽章の音楽がフィナーレのカデンツァに取り込まれたという情報もある―。室内オーケストラ規模の管弦楽が用意されているが、オカリナや種類の異なるフルートが複数あったり、様々な打楽器類があったりと実に多彩(奏者が持ち替えて対応する)。しかも弦楽器群には調律の異なるヴァイオリンとヴィオラが用意される。その中でホルンが自然倍音で吹き鳴らすのである―こんな状況で生み出される音楽は、様々な音程が共存し、微分音へ導かれ、独特のサウンドがもたらされるものとなる(スペクトル楽派にも通じる面があるかもしれない)。そんな豊かなサウンドのパレットを背景に独奏ヴァイオリンが大いに超絶技巧を発揮するわけだ。当盤でソロを担当するのはフランク・ペーター・ツィマーマン(初めてチャイコフスキー&プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲を聞いたのが、彼の演奏であった。とても懐かしい)。実は彼の恩師がサシェコ・ガウリロフであるのは興味深い事実である。師の演奏より手堅い印象で、さほど奇抜に聞こえないのが彼らしい。

 

ツィマーマンによるプロコフィエフ/ヴァイオリン協奏曲第1番~第2楽章。

バックがロリン・マゼール/BPOという強力な布陣。

 

 

作品は「前奏曲-アリア・ホケトゥス・コラール-間奏曲-パッサカリア-フィナーレ」の全5楽章からなる。第3楽章までアタッカで繋がれていることは改訂前の姿を思い起こさせる。各楽章には伝統的な音楽のタイトルがつけられているが、第2楽章は特に懐古的でルネサンス音楽まで遡る―もちろん聞こえてくる音は現代そのものだ。その冒頭の詠嘆的なメロディは「ムジカ・リチェルカータ」第7番に由来するともいわれる―もっとも、そのメロディは長く続かず、中間部のホケトゥスでオカリナによる「しゃっくり」を聞くはめになるのだが。チェロ協奏曲と同様にヴァイオリン協奏曲でも、「Appassionato」と記されたフィナーレの終盤でカデンツァが奏されるが、既存のものの他に最近ではパトリシア・コパチンスカヤが用意したヴァージョンが話題になった。草葉の陰でリゲティも微笑んでいることだろう―。

 

ムジカ・リチェルカータ第7番はヴァイオリン協奏曲のほかに

「6つのバガテル」第3番に編曲されてもいる。

 

テツラフ&ロトによる鮮烈な演奏を―。カデンツァはおそらくテツラフ作で、

第2楽章のメロディを引用している。

 

第5楽章をコパチン嬢&ロトで。彼女の演奏だと民俗的なダンスに聞こえる。

カデンツァは口笛、ハミング、シャウトを伴う演劇的なもので引き込まれる。

 

 

 

 

 

アルバム最後は世界初録音となる「Sippal, dobbal, nadihegeduvel」(2000)である。タイトルの意味は「笛・太鼓・フィドルで」になるらしく、メッゾと4人の打楽器奏者(楽器はハーモニカ等を含む)のための歌曲集となっている。どうやらハンガリー語で歌われているようで、テキストは同国の詩人シャーンドル・ヴェレシュの詩に基づく。だが曲のタイトルはトルコ占領時代のハンガリーのこどもの詩によるものだそうだ(「数え歌」でもあったらしい)。全7曲からなり、ライナーノーツには対訳された歌詞も付いてきているのだが、何曲かは「翻訳不能」になっているのが面白い(というかリゲティらしさを感じてしまう)。それぞれのタイトルは「寓話」「舞曲」「中国の寺院」「苦力」「夢」「ほろ苦さ」「オウム」となっている―どれが翻訳不能か想像してみてほしい(2曲ある)―。印象的なのは第5曲「夢」。ライナーノーツにはリゲティによる次のような解説がある―。

 

りんごの木の枝が風に静かに揺れている。りんごは遠い魔法の国に旅することを夢見ている。歌声をわたしは4本のハーモニカの響きに包み込み、異国風でシュールレアリズム的な気分が生まれた

 

 

このコメント通りのアンビエントな雰囲気が3分に満たない曲に満ちている(それでも曲集の中で一番長い)。ただ、歌詞の意味を理解しなくとも(できなくとも)サウンドとリズム、多様な音色の戯れを楽しむことは十分可能である―。

 

 

りんごは夢の中でインドやアフリカに航海に出るようだ―。

 

第7曲「オウム」。「パピコ」のCMソングに採用してほしいくらいだ。

 

様々な楽器や奏法を用いるリゲティの作品は映像で観るとさらに楽しい。

 

 

 

 

 

先日5月28日が誕生日で生誕100年を迎えたリゲティ。

今年も(これからも)引き続きリゲティ作品が取り上げられることだろう―。

 

お世話になった「レコード芸術」も今年中に休刊となる―。

そんな中、渾身の内容となっているのがこちら。