圧倒的なカリスマを誇る指揮者、カルロス・クライバーのDVD盤。ウィーン・フィルとの共演でモーツァルト/「リンツ」交響曲&ブラームス/交響曲第2番を演奏している。1991年10月、ウィーン・ムジークフェラインザールでのチャリティ特別公演のライヴ映像を収録。この後クライバーは1992年ニューイヤー・コンサートに出演している(1989年に続き2度目)。

 



 

 

 

クラシックファンなら見逃すことができない指揮者は数多くいるが、カルロス・クライバーもその一人であろう。取り上げるレパートリーは限定され―父である指揮者エーリッヒ・クライバーのレパートリーをなぞっているという見方も―、正規録音も少ない(それゆえ海賊盤が多数出回ることに)。もちろん他の作品は振れないという意味では絶対なく、彼のポリシー(もしくは繊細さ)の表れなのだろう―カラヤンは「冷蔵庫が空になったら指揮をする」と揶揄していたが、もちろんそれは違う―。

去年の12月から日経新聞に連載されていたリッカルト・ムーティ/「私の履歴書」の中で、ムーティは「私の真の友人」クライバーのこんな言葉を紹介している。

 

楽譜に書かれているものを音にすると、何か魔法が失われるような気がするね

 

だから慎重になり、キャンセルが多かったのかもしれない―と振り返っている。

確かにそうかもしれない。演奏する度に手垢がつき、新鮮さが失われる。いつしか紋切り型の演奏に終始し(もっと酷いことに)聴衆もそれに満足してしまう…。何百年の、数え切れないほど演奏されてきた作品を、まるでこの瞬間に生まれたかのように奏でることの、何と至難なことか。初演に立ち会ったかのような驚きと感動をもたらしてくれる音楽家は一握りしかいない。僕の中でまず指折られるのはニコラウス・アーノンクールであり、そしてカルロス・クライバーである。

 

アーノンクール/BPO盤のブラームス/交響曲全集では、見事に

手垢を取り除いた演奏が達成された―。

 

ドヴォルザーク/「新世界」交響曲も同様―こちらもフィナーレを

意外にも19世紀音楽の演奏に聞くべきものが多い

 

 

 

 

初めてクライバーを聞いたのはVPOとのベートーヴェン/交響曲第7番だったと思う―確か高校生の頃だ。あまりに感激して、普段クラシックなど聞かないクラスメートに無理やりCDを貸したこともあった。それ以降、オペラ以外の正規録音を全部聞いた(幸か不幸か、録音の数は少なかった)。そんなクライバーのことを思い巡らしていて、1つ思い出したことがあった―ある程度オーディオをいじるようになってから、クライバーのベートーヴェンを聴いたとき、左右のスピーカーからヴァイオリンが聞こえるので、接続を間違ったのかと思い、何度も確認したが、問題のないまま現状が続いた。ヴァイオリンを左右に振り分ける「対向配置」というものがあるのを知ったのは、その後のことである―。

 

指揮者に必須の能力の1つにオケとの「コミュニケーション」があると思うが、クライバーはその点で多くの逸話を残すほど抜群だった。そして彼のタクトは雄弁で瞬発力に富み、オケも聴衆もその動きを完全に読むことは出なかった―誰も真似ができない指揮ぶり。まさに唯一無二であろう。そして漂う気品。優雅な指揮姿を観たいという聴衆のため、常にチケットは完売。キャンセルもいとわない人だったため、いやが上にも希少価値が高まる。その点で、1991年秋~翌年にかけてはファンにとって狂喜する時となったことは疑いない。既に92年ニューイヤー・コンサートの出演は決まっていたが、まさかその前にコンサートが聞けるとは!しかも相手はVPOである。

1970年代にベートーヴェンの交響曲第5,7番、1981年にはブラームス/交響曲第4番を録音していたこのコンビだったが、1982年に解釈の相違をめぐって関係が悪化、公演がキャンセルになり修復に6年かかる―世でいう「テレーズ事件」―。1989年にはニューイヤー・コンサートを初指揮するまでに信頼が回復した。そういう背景もあり、クライバー/VPOの演奏は実に貴重なのである(81年録音のブラームス4番は特にクライバーのお気に入りだったようで、彼の死後、愛車のオーディオにこのCDが入っていたという)。

 

上記動画でも紹介されていた「魔弾の射手」のリハーサルを―。

天真爛漫な指揮者というイメージが覆らされる

 

クライバーが「ロールスロイス」に譬えたBPOとの1994年ライヴ。

「爆演」としてマニアに重宝されている

 

 

 

 

このDVDで楽しめるのはモーツァルト/交響曲第36番ハ長調K.425「リンツ」とブラームス/交響曲第2番ニ長調Op.73の2曲。どちらも正規録音はなく、この映像盤のみ(あとは海賊盤でのライヴ音源)である。実は、僕は両方の交響曲を進んで聞くほど好きではなかったが、この演奏は(当然ながら)別格である。

リンツ滞在中、わずか4日で完成されたといわれる「モーツァルト/交響曲第36番」―大編成で華やかな第35番「ハフナー」とオペラティックな第38番「プラハ」に挟まれた作品のためか、僕的には印象が薄い。多分CDで聞いたのはビギナーの頃買ったケルテス盤以来だと思う。モーツァルトの交響曲史上初、序奏が付いた冒頭楽章、初めて緩徐楽章でトランペット&ティンパニが用いられる第2楽章、古き良き時代を思わせるメヌエットを経て、聞き応えのある華麗なフィナーレで幕を閉じる。全体を通じて活気ある音楽だが、時折見せる短調の響きが作品に深みを与えている。

 

ところで、「モーツァルト/交響曲第37番」はどこへいったのだろうか?―実は「リンツ」交響曲と同時期の作品らしいのだが、どうやらモーツァルトが手掛けたのはアダージョの序奏のみで、ほとんどはパパ・ハイドンの息子ミヒャエル・ハイドンの作品(交響曲第25番ト長調MH.334,P16)とのこと。それゆえ欠番扱いとなり、演奏されるのも稀な交響曲となっているのが現状である―。

 

僕も初めて聞くが、序奏と主部以降の音楽の密度が違い過ぎる

無理もないことだが…。

 

 

 

 

さて肝心のクライバーの演奏だが、舞台に登場した際の拍手が鳴りやまず、演奏を始めることができないほど。やむを得ず、もう一度オケを起立させ挨拶をすることに(これは後のブラームスでも同様である)。弦は両翼配置(左から、1stヴァイオリン→チェロ→ヴィオラ→2ndヴァイオリン。コントラバスはひな壇に並ぶ)。VPOのメンバーによると、音楽的な信頼関係がないと、このような配置や変更は絶対行わない、とのことだ―ラトルがVPOに初登場したときに、対向配置を主張して揉めたのもよく理解できる。曲が「マーラー/交響曲第9番」だから、ラトルの主張は音楽的に一理あるのだが)―。

 

マーラーは冒頭2ndVnから始まり、1stVnに引き継がれる書き方を

している。そのステレオ効果に対向配置が向いているのは明らかだ

 

 

第1楽章でクライバーは思いのほかタクトを振らない―時には(かつてのリヒャルト・シュトラウスがそうであったように)左手をポケットに入れる仕草すら見せる。オケに任せている印象が強いのだが(実際VPOならば、目をつぶってでも演奏できるだろう)、アンダンテ楽章に入った途端、細やかな指揮をし始める。デリケートなニュアンスに拘っているからだと思う―そこがいかにもクライバーらしい。弦に応答するようにティンパニ&トランペットがアクセントをつけてゆくが、まるで何かが到着した際のシグナルのようだ(ポストホルンのような)。優雅な音楽に奏者の表情も喜びに綻ぶ―VPOメンバーに(そして聴衆とリスナーに)音楽のエクスタシーを感じさせるクライバー。実に驚くべきことだ。でも彼は音楽にある本来の「悦び」を引き出しているだけなのかもしれない―。昨今のピリオド志向では鋭く高速に演奏されがちのメヌエット楽章が、「踊りの音楽」に相応しいゆっくり目のテンポで優雅に奏でられるのも特徴的だ。しかもトリオが魅惑的―クライバーは完全にタクトを止め、顔の表情で指揮をする。弦はプルトを減らし「宮廷音楽」の雰囲気が立ち昇るのだ。一気呵成のフィナーレはクライバーの独壇場。馴染みの薄いこの交響曲の中で、このフィナーレが一番好きかもしれない。まるで遊園地に来たような愉悦に浸れる。

ちなみに第1楽章と同様提示部のリピートを行っている。

 

YouTubeにフル動画がUPされていたのでシェア。まるでニューイヤー

・コンサートのような雰囲気がある

 

 

 

 

2曲目は「ブラームス/交響曲第2番ニ長調Op.73」。昔から苦手だったが、ジュリーニ/VPO盤のおかげで聞けるようになった作品。どういうわけかラジオで流れる頻度が高い交響曲である。「ベートーヴェンの後継者」として20年越しにようやく完成をみた「交響曲第1番ハ短調」、そのプレッシャーから一気に解放されたかのように、わずか4ヶ月という短期間で作曲されたという。ブラームスが気に入っていた南オーストリア、ヴェルタ―湖畔にある小さな村ペルチャッハで着手されたこともあって、リラックスした雰囲気にあふれている―ちなみにこのペルチャッハでの作曲で生まれたものには、ヴァイオリン協奏曲やヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」など、美しい旋律が際立つ作品が多い―。ハンス・フォン・ビューローから「ベートーヴェンの第10交響曲」と称された第1番に対して、この第2番は「ブラームスの田園交響曲」と呼ばれることがある。いつからそう呼ばれたかは不明だが、仮にブラームスが知っていたとしても、それは彼の想定内だったように思う。出版社に向けてブラームスはこの新作の交響曲について、こう述べているのである(引用は意訳)―。

 

新しい交響曲はとても憂鬱で、耐えられないほどです。私はこれほど悲しい音楽を書いたことがなく、スコアは喪に服してくるに違いありません

 

如何にも天邪鬼のブラームスらしい言いぐさだが、メランコリックな感情が読み取れるという点は確かである。単なる穏やかな音楽でないことは明らかだ。全楽章にわたって短調のフレーズが頻出する―晴れていた空がいつの間にか雲で陰るかのように。または心地良いそよ風にふと冷たい風が混じるかのように。あるいは微笑んだ瞳の奥で「何か」が揺れたように感じたときのように…。

(他のブラームス/交響曲では用いられていないチューバが採用されていることも関係しているのだろうか、宗教的ともいえる独特な響きを感じる瞬間がある)

 

第1楽章冒頭で低弦に支えられてホルンが歌い出すと、一気に美しい園のような心象風景が広がるが、盛り上がった先には嬰ヘ短調の第2主題が待っている―有名な「ブラームスの子守歌」に酷似した音楽―。詩情豊かなコーダについては、クレッチマーによる「沈みゆく太陽が崇高でしかも真剣な光を投げかける楽しい風景」というコメントがしっくりくる。ロ長調の第2楽章はブラームスが書いた数少ないアダージョ楽章だが、黄昏に似た響きが冒頭から聞かれる。この楽章に僕は最も強い憂愁を感じる。

 

 

 

この第2楽章までは非常に好きなのだが、第3楽章~フィナーレが僕の耳には浮かれすぎた音楽に聞こえてあまり好きになれなかったのだが、今回のクライバーの演奏での個人的な好き嫌いを超えた説得力とグルーヴで圧倒されてしまった。

 

第3楽章は「grazioso」指定があってか、優雅なメヌエットを思わせる音楽だが、中間部で「presto」に転じ、ダンサンブルな音楽となる。主部が戻り、コーダ付近になると急にメランコリックなフレーズが名残惜しむかのように現れるのが、きわめて印象的である(初演時にはアンコール演奏されたという)。そしてブラームスの全作品の中で最もはっちゃけた爆発的な音楽であるフィナーレ。ブラームスの「歓喜の歌」といってもいいくらい喜びにあふれている。何があったのブラームス?と聞きたい。

印象的な場面は再現部直前の導入部―まるでマーラー/交響曲第1番冒頭の「自然音」のようだ。強弱の交替が激しい音楽で、勢いだけでなく実に細やかなニュアンスが求められる。めくるめくコーダは圧倒的で、強引なほどだ。畳みかけるフレーズにいやが上にも興奮させられる。

 

ブーレーズ/CSO盤によるマーラー/交響曲第1番「巨人」~第1楽章。

 

 

 

クライバーの登場で沸き立つ会場―指揮を始めようとタクトを構えたにも関わらず拍手は鳴り止まない。少々呆れた表情を一瞬見せたものの、振り返って笑顔で一礼するマエストロの姿が印象的だ。これから演奏に集中しようとする指揮者にとってはストレスだろう。とはいえ、指揮台に立ってくれたクライバーへの感謝の気持ちが拍手を通して感じられるのもまた事実である。

先ほどのモーツァルト以上に、指揮に神経を使っているのが映像から伝わってくる。細やかなジェスチャーが目立つ。第1楽章冒頭の弦のフレーズが1stヴァイオリンのみで奏でられるのを確認できるのも映像ゆえの特典であろう。モーツァルトの場合とは異なり、このブラームスでは提示部の反復は行われない―初演時にはリピートが行われ、第1楽章だけで20分近くかかったようだ。ピリオド系の指揮者以外で反復を実行する指揮者は少ない。クライバーの演奏では反復なしで14分ほどである―。クライバーの反射神経の鋭さが際立つのは後半楽章だ。特にフィナーレでは躍動感あふれる指揮ぶりを堪能できる。クライバーも楽しそうだ。かつてチェリビダッケが常に微笑みながら指揮をする彼を皮肉って述べたことがあったが、その笑顔に偽りは感じられない。指揮者によってはコーダの終結を華々しいポーズで決めたがるものだが、クライバーはそんなことはしない。全く無駄のない動きであり、見栄や効果といった「余分」をすべてそぎ落としたものであることに気づく。横の線を生かすような彼の指揮は、見かけの華やかさとは無縁で、「本質」だけを見つめたものである―そういえば、クライバーは彼にしか見えない設計図を空間に展開し、それに基づいて指揮をしていると思わせる場面に幾度も出会う―。

 

カルロス・クライバーの芸術を存分に楽しめたひとときであった。

 

当映像盤より、第1,2,4楽章を。何故か第3楽章の動画だけ見つからない

 

こちらはVPOとの1988年の演奏。マニアに言わせれば、この演奏

がテンションの高さの点で最高らしい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は庭の野菜のように太陽を浴びて成長し、食べて、飲み、愛し合いたいだけ

                         ―カルロス・クライバー