現時点でコレクション中、唯一のショスタコーヴィチ・アルバム。バーンスタインがウィーン・フィルと蜜月関係にあった1980年代後半にライヴ収録されたものである。

ドイツ直輸入盤。

 

 

 

 

 

オペラを除いて一通り聞いたショスタコだが、バルトークやブリテンを思わせる深刻さが僕には合わなかった―後のシュニトケのような引用とアイロニーに富んだ音楽は面白いと感じたが―。個人の尊厳が「全体主義」によって制限され、真の自分を隠しながら(自分を守るために)表向き迎合してゆく彼の人生から紡ぎ出される音楽は僕にはリアル過ぎた。だからどうしても敬遠せざるを得なかったのだと思う。

 

そんな僕がこのアルバムを聴くようになった理由の1つに、作品の特殊性があるように感じる。規模が大きく、当時の政治情勢が反映されている交響曲とは違って、これら2作品はコンパクトな仕上がりだ。ユーモア(ブラックだが)が際立った曲でもあるのも好ましい。全3楽章形式の「交響曲第6番」は冒頭楽章こそいつもの深刻なショスタコだが、バーンスタインの粘着的な解釈がかえって叙情性を引き立てる。後続楽章のリズムやスピード感はさすがレニーである。現在だともっとスピーディなフィナーレ演奏があるが、バーンスタイン盤でのテンポのほうが味わいがあり、コーダではしっかり興奮させてくれる。

全5楽章形式の「交響曲第9番」でも同様―。第6番に比べて親しみやすく、ユーモアの点ではこちらが上。それゆえ深刻な場面は少ない(中間楽章にちゃんと用意されてはいるが)。

 

チャイコフスキーと同様、ショスタコーヴィチの演奏では地元ロシアの指揮者&オケによるものを好む人が多いと思うが(ムラヴィンスキーやコンドラシン、バルシャイなど)、その素晴らしさは認めつつも(前述した通り)僕には切実過ぎ、むしろ当盤のようなある種の大らかさや、音楽そのものの美しさや哀しさに浸れる演奏の方が良いのである―これがバーンスタイン盤をチョイスしたもう1つの理由かもしれない。もっとも、レニーはマーラーやチャイコフスキーを念頭に置いた解釈のようである(同じ情念を所々感じる)。純音楽的解釈というのであれば、東欧における初の全集を録音したハイティンク盤がそうかもしれない。

 

 

実はショスタコーヴィチのこれらの交響曲には少し思い出がある―初めて聞いたのが「銀河英雄伝説」でのBGMだったのだ。「徳間ジャパンコミュニケーションズ」の全面協力のおかげで、豊富な音源から贅沢にクラシック音楽を使うことができたこともあり、全編にわたり効果的に用いられている。中にはマイナーな曲が選ばれていたりして、審美眼の良さを感じた。ショスタコの音楽は主に「戦闘シーン」で用いられていて、まさにドンピシャなのである。


こちらでは交響曲第5番や第8番、第9番が取り上げられている。

 

 

ちなみに「バーンスタインのショスタコーヴィチ」といえば、何と言っても第5番の1979年東京ライヴが有名だ(オケはNYP。SONY盤でリリース。他にも第1,6,7,9,14番、ピアノ協奏曲第2番を録音)。後にDGにて当盤(第6,9番/VPO)と、CSOとの第1,7番が再録音されていた。

 

1959年モスクワにてであった。バーンスタインの求めに応じて

ショスタコが姿を現わす。彼のシャイな性格が垣間見れる。

 

DG盤より第7番「レニングラード」のフィナーレ、コーダ部分を―。

 

レニーの弾き振りで、ピアノ協奏曲第2番を。1958年ライヴ。

叙情的な第2楽章が聴きもの―。

 

 

 

 

 

アルバム1曲目は「ショスタコーヴィチ/交響曲第6番ロ短調Op.54」。

人気作である(当時も好評だった)第5番の後に作曲。旧ソ連においてもベートーヴェンの交響曲は理想形であり、大成功を収めた第5番は当然の如く「運命」のような位置付けとされた。となるとこの第6番は「田園」に相当するということになるが、実際は似ても似つかない作品である。

 

元々ショスタコーヴィチは「レーニン」を題材とした詩(実は批判的な内容だったともいわれている)を用いた「ベートーヴェン第九」クラスの「レーニン交響曲」を予定していたそうだが、結局果たせず、現状のシンプルなスタイルとなった。

ショスタコーヴィチ自身この交響曲についてこのようにコメントしている―。

 

「第6交響曲の音楽的性格は、悲劇と緊張の瞬間が特徴的であった第5交響曲の気分と感情的なトーンとは異なります。私の最新の交響曲では、瞑想的で叙情的な秩序の音楽が優勢です。その中で春、喜び、青春の気分を伝えたかったのです。」

 

初演は第5番と同様大成功に終わり、第3楽章がアンコールされたという。

 

 

 

作品は(前述の通り)全3楽章形式だが、冒頭楽章に長大な緩徐楽章「Largo」が充てられている点が特徴的だ(交響曲史上初かもしれない。もちろん「本来の」ソナタ形式の第1楽章を書き忘れたわけではあるまい)。ショスタコの緩徐楽章によく聞かれる深刻さと真摯な美しさを見出せる音楽だが、通常10分台後半で演奏されるところをバーンスタインは20分以上かけてじっくり取り組んでいるのが素晴らしい。彼の晩年様式の特徴でもあるが、そのスタイルがピタッとハマった感がある。(後に添付する)レニーの解釈によると、この楽章にはマーラーとバッハの響きが感じられるという。そして何よりも「交響曲第6番ロ短調」=チャイコフスキーの同曲を思わせ、それは決して偶然ではなく、その続編なのだとまでいう。「悲愴交響曲」はフィナーレが「Adagio」だった(交響曲史上初のことだった。マーラー9番はそれに倣ったと思われる)―それに対応する、というわけである。

 

レニー晩年の「悲愴」フィナーレ。演奏時間17分という破格さ。

 


後続楽章は2つ合わせて第1楽章分の量しかない短いものであり(こういう設定は後のシュニトケの交響曲によく見られる)、前楽章の陰鬱さがウソのような明るい音楽が展開してゆく。

バーンスタインによれば、作曲当時の1939年はドイツがポーランドに侵攻することで第二次世界大戦が始まったが、独ソ不可侵条約により、ドイツはポーランドのソ連領には侵攻しなかった。「我が国は平和だ」という偽善を表しているのが第2,3楽章の明るさであるのだという。

スケルツォに相当する第2楽章は攻撃的な性格のものではなく、華やかさをまき散らすかのような雰囲気に溢れている―それでも中間部では「暗い影」が忍び寄る―。

好評だった第3楽章はショスタコ自身も満足した出来だったというギャロップ風のフィナーレである。どこか「ウィリアム・テル」序曲を思わせる浮ついた感じ(自身の最後の交響曲で引用されることになるが)が印象的。陽気さを装ったバーレスク的な一面も感じられよう―ショスタコの音楽と人生はアイロニーと切っても切れない関係にあるのだ―。そしてバーンスタインの手にかかればこの種の音楽はさらに輝きを増し、魅力が最大限引き出される。あれよあれよという内に、音楽は高揚し強烈な終結を迎えるのである。

 

当音源と同じと思われるライヴ映像。バーンスタインの指揮ぶりにも注目。

 

 

 

 

 

 

2曲目は「交響曲第9番変ホ長調Op.70」。

全5楽章形式で、通常の交響曲形式から外れるもの。但し、第3~5楽章はアタッカで繋がれているため、実質上は(第6番と同じ)第3楽章形式にも聞こえる。第7番「レニングラード」、そして第8番に続く「戦争交響曲三部作」の最後に位置する作品(似た傾向の作品にプロコフィエフによる3曲の「戦争ソナタ」がある)。

第二次世界大戦での戦勝を祝うムードのためか、ショスタコーヴィチは「祖国の勝利と国民の偉大さをたたえる合唱交響曲を制作中である」と(しなきゃいいのに)公言してしまう。何と言っても「第九」である。周囲の期待は大きかったに違いない―。

 

人々の脳裏をかすめた「第九」はこのようなものだったのだろうか。

クルレンツィスによる2022年ライヴ。斬新極まりない。

 

プロコフィエフ/「戦争ソナタ」シリーズから第7番。

ブニアティシヴィリの憑依的な演奏を―。

 

 

しかし実際現れたのは第8番と同じく全5楽章とはいえ、遥かに小規模で軽妙な音楽で満ち満ちたアンチ「第九」であった(「英雄交響曲」と同じ「変ホ長調」だったが)。周囲の(勝手な)期待を裏切った、ということでスターリン批判にも受け取られ、この作品を境に(前述の)「ジターノフ批判」を受けることとなる。ショスタコーヴィチ自身、マーラーほどのジンクスは感じていなかったようだが、「第九」作曲のプレッシャーは否定できないものがあったという。それでも作品の出来の良さを喜んでいたようである―「音楽家たちはこれを演奏したがるだろう。(但し)批評家たちは攻撃することを喜ぶだろう」と述べている―。初演を聞いた作曲家ポポフは特に第1楽章を「モーツァルト!まさに完全なモーツァルト」と語っている(僕にはハイドンの精神が感じられるが)。

ちなみに作曲中に採用されなかったフラグメントが2003年に発見され、「交響的楽章」としてCD化がなされている。

 

こちらがそれ。一聴すると祝祭的な雰囲気に溢れているが…。

 

こちらは第9番4手ピアノ版~第1楽章。ショスタコ&リヒテルで

プライヴェート初演がなされたという。2ヶ月後に世界初演が

ムラヴィンスキーによってなされる。但し彼はこの曲を録音

しようとはしなかった。

 

 

 

第1楽章「Allegro」は序奏なしで突然始まり、あっけにとられてしまう―期待を抱いていた旧ソ連の人々の狼狽ぶりが想像できるというものだ。この人を食ったようなテーマは後のチェロ協奏曲第1番や交響曲第15番にも似ている。14回も繰り返されるトロンボーンのひと吹きはサーカス風のファンファーレのようでもあり、聴いててニヤニヤしてしまう(小太鼓の登場も)。

 

チェロ協奏曲第1番&交響曲第15番~ともに第1楽章を(引用関係にあり)。

第15番の方は息子マキシム・ショスタコーヴィチの指揮で。

 

 

第2楽章「Moderato」は打って変わって、寂しい音楽となる(第6番と同じロ短調)。前作第8番では第4楽章でパッサカリア形式を採用していたように、ここではサラバンドを取り入れていて、ショスタコがバロック様式を意識していたことが伺える。悲しみを孕んだ予感めいたものが徐々に近づいてくるかのようなメランコリックな音楽だ。

 

第3楽章「Presto」からは前述のようにフィナーレまでアタッカで繋がれる。木管が軽やかに舞い、華やかなスケルツォだが、中間部でトランペットによる宣誓布告のようなフレーズが現れる。

真のクライマックスは第4楽章「Largo」かもしれない―エレジーの幕開けのように再びトロンボーンが登場し、ファゴットがカデンツァで答える。しかしどれも長くは続かない(2つの楽章共々3分ほどの音楽である)。

ファゴットが橋渡しをしアタッカで第5楽章「Allegretto」に入る。ロンド・ソナタ形式でマーチ風のテーマ。再び第1楽章の雰囲気が戻ってくる(多少落ち着いてはいるが)。ここではユダヤの民謡旋律がパロディとして含まれているそうだ(箇所は特定できなかった)。それは、ナチス・ドイツの崩壊によってもたらされた第2次世界大戦の勝利を描き、ユダヤ人の解放を意図したものであるという解釈があるとされるが、真実はわからない。

 

ショスタコーヴィチの音楽には常にそんなところがある―聞く度に意義を問いかけられているような感じだ。もちろん音楽を楽しんではいるのだが、ふと考えが芽生えるのも事実(この度のロシアによるウクライナ侵攻とそれに伴う音楽家たちが被った悲劇を考え合わせると尚更だ)―。

それが21世紀に住む僕たちをショスタコーヴィチの音楽に惹きつけてやまない大きな理由なのかもしれない。

 

バーンスタインの指揮は第1楽章からノリノリである。

 

第6,9番のレクチャー動画。レニーの教育者の一面が現れる。