「猟奇的演奏」―と某評論家が絶賛していたヘルベルト・ケーゲル指揮による珠玉のブラームス録音。手兵ライプツィヒ放送so&choほかによる「ドイツ・レクイエム」だが、とりわけ合唱の美しさが特筆すべきもので、その真摯な演奏は非常に素晴らしく、これまでの演奏より遥かに深く心に残ったのだった。1985年録音。

 

 

 

 

 

今やケーゲルの録音は数多くリリースされていて、ライプツィヒ時代のものからドレスデンpoの首席になった頃の録音に至るまで、かなりの数に及ぶ。ライヴ音源も発掘され、来日時のライヴもリリースされている。バロック~現代音楽まで幅広いレパートリーを手中に収めているのも魅力の1つであるが、(某評論家がいうように)美しいハーモニーの狭間に感じられる一種独特の諦観と冷徹な迫力の演奏によって、聞き慣れたはずの通俗曲ですら空恐ろしい雰囲気を湛えることとなる―これが「猟奇的」といわれる所以だと感じている。1990年、東西ドイツ統一の直後ピストル自殺を遂げてしまったという衝撃的な最期が音楽聴取に少なからず影響を及ぼすことは避けられないようにも思えるが、僕には世間の評判のようには感じられなかった―これ以上ないくらい徹底した生真面目な演奏に聴こえたのである(もっとも「自死の決断に至る」性質というものがあるとすれば、「真摯さ」も含まれることだろう。実のところ、その動機は本人しか知らない)。

 

ムラヴィンスキーにハマっていた以前の知人が今度はケーゲルにハマったということで、彼からBOX盤を借りて聞いたことがあった(かれこれ10年以上前の話である)。ヴィヴァルディからブリテンまで網羅された10枚以上のCDから聞こえてきたものは、(繰り返すが)音楽に対するどこまでも真摯なスタンスである。それから感銘を受けて何枚か購入したアルバムがあった―そのうちの1枚が普段聞くことのないビゼーの有名な「アルルの女」組曲である(某評論家もこの演奏を絶賛していた)。

プロヴァンスの明るいイメージより、明るさ故の儚さが際立った演奏だった。

 

ビゼー/「アルルの女」第1&2組曲~「カリオン」「メヌエット」。

厚みのある音でしっかり鳴らす印象。

 

ヴィヴァルディ/シンフォニア ロ短調RV169「聖なる墓に」。

「四季」「秋」第2楽章に似たフレーズが現れる。

 

NHKsoとの83年ライヴで、シューマン/交響曲第4番を―。

実に重厚なサウンド。強靭なアクセントが極めて印象的だ。

 

最近なぜか気になってるショスタコーヴィチ/交響曲第6番。

ケーゲルのイメージにピッタリの音楽でもある。

 

「聴いてはいけない」といわれたら聞きたくなるのが人の常。

アルビノーニ/「アダージョ」&バッハ/「アリア」を収録。

 

 

 

 

 

ブラームスのこの特異なレクイエムは、昔からよく聴いていた。最初に聞いたのはジュリーニ/VPO盤。オケの美しい響きとじっくりしたテンポは曲との距離を縮めてくれた。テンポが遅い、というとチェリビダッケだが、正規録音のEMI盤はCD1枚に収まらないほどでやや集中力を欠く。カラヤン/BPO盤(EMI)は第2楽章の暗い迫力が良くて聴いてたが、知人がえらく気に入ってしまい、差し上げることにした名盤である。よく覚えていないが多分ピリオド系の演奏も聞いてたと思う(ガーディナー盤とか)。チェリビダッケの古い録音(1枚で収まる)を入手して聞いて以来、ずっとご無沙汰だった作品であるが、何故かふと聞きたくなり、ブックオフで売ってたのを思い出して購入したのがこのケーゲル盤である(よく残っていたものだ)。この演奏の素晴らしさはフォロワー様含め、各方面で語られているもので、とりわけ合唱の美しさとドイツ語の明確な発音(特徴的な子音の発声など)がしっかり聞き取れるほど優れた演奏なのだ(録音の良さでそう聞こえるのではない点に注目していただきたい)。

ケーゲルの指揮も奇をてらわないオーソドックスな指揮で、編成や(歌われるテキストの)内容がバラバラに聞こえる各楽章がまるで「交響曲」を聴いてるかのような充実感とコンセプトの統一性を感じさせるのである。オーソドックスといってもそこはケーゲル、例えば第2楽章後半では思いがけずブラスを突出させてみたり、第6楽章では快速テンポでティンパニを強調したりと、独特のバランスを聞かせる。それでも全体的には静謐な情感で満たされており、第1楽章や第7楽章でそれは顕著。厭世的な雰囲気が強い第3楽章では静寂さに一種の暗い迫力が加わり、後半では一転して透明度の高いフーガが展開するのも印象的だ。

 

 

 

 

1868年に完成されたという「ドイツ・レクイエム」Op.48はブラームス最初の大作だったといえよう―ピアノ協奏曲第1番は作曲されていたとはいえ、交響曲第1番はまだ先であり、結局彼の作品中最大規模のものとなった―。

「特異なレクイエム」と先述したが、内容も作曲過程もすべてユニークの一言に尽きる作品なのである。

 

内容の点では「レクイエム」と銘打たれているにも関わらず、(教会における)典礼作品ではなく演奏会用作品として作曲したのだということ。そして歌詞がラテン語による典礼文ではなく、ルター訳のドイツ語版聖書から任意に選んだテキストで構成されているのもユニークである(これがタイトルの由来かもしれない)。

これには先例があり、古くはシュッツの時代からシューベルトを経て、メンデルスゾーンが交響曲第2番「讃歌」で採用している。一部情報によれば、実はシューマンにも「ドイツ・レクイエム」の作曲計画があったらしく、後にそのことを知ったブラームスはたいそう喜んだとのことである。

 

シューベルト/「ドイツ・ミサ」。まさにシューベルトの意図通り、

会衆における演奏。ほのぼのとした気持ちになる。

 

メンデルスゾーン/交響曲第2番~第2部5曲「我は主を待ち焦がれ」。

特にシューマンが絶賛したという箇所である。詩編40編に基づく。

 

 

ブラームスの場合、テキストの選び方が興味深く、旧約&新約から様々な聖句を選んでいて(外典にまで及ぶ)、聖書における内面的文脈から切り離された選び方なのだ。彼が好きだった言葉を選んだだけなのかもしれないが、相当聖書に精通していたものと思われる―キリスト教国では当然なのだろうが―。そしてブラームス自身「キリストの復活に関わる部分は注意深く除いた」と述べているのもポイントだ。例えば第6楽章では「コリント第1の手紙第15章」の後半が扱われるが、「死者の復活」が歌われても(その前に記されているはずの)「キリストの再臨」は省かれているのである。このようなテキストの選択は当然信心深い人々から批判の対象になり、なかにはわざわざヘンデル/「メサイア」から(キリストの復活を扱った)楽曲を追加演奏した指揮者がいたほどだ。ブラームスが宗教的性格よりも「今生きている人―つまり遺族」に注目しているのは第1楽章冒頭のテキストからも明らか。本来のレクイエムは「死者」に永遠の安息を願う言葉で始まるが、ブラームスは(マタイの福音書第5章の)「悲しんでいるものは幸い。慰められるから」と歌うのだ。

 

このようなコンセプトを持ったレクイエムの直接の作曲のきっかけとなったのは母親の死が関係しているといわれているが、構想自体はシューマンが亡くなった頃まで遡れるかもしれない。翌年の1857年に(現在の)第2楽章が作曲されはじめたようだが、途中で頓挫してしまう。そのモティーフの一部が「ピアノ協奏曲第1番」の第2楽章に転用されたともいわれているし、後の「交響曲第1番」の素材になった可能性も指摘されている。だが、1865年の母の死をきっかけに、再び作曲の筆が進められ部分初演がなされるが不評、それでもめげずに作曲は続き、全6楽章版での初演が成功を収めるのが1868年。最後に完成した第5楽章のみの演奏が同年になされ、全7楽章の完全初演は翌年の1869年であった。「交響曲第1番」ほどではないが、長い時間をかけての構想がようやく実を結んだのである。

 

ヘンデル/「メサイア」~アリア「私は知る、私を贖う者は生きておられる」。

もちろんヘンデルにもこの曲にも「罪」はない。

 

ブラームス/ピアノ協奏曲第1番~第2楽章。シフがヴィンテージ・ピアノを

弾き振りしたピリオド演奏。音楽には「ベネディクトゥス」の引用があり、

シフによると音の並びがその歌詞に符合するという。

 

ブラームスが最初に宗教的テキストを採用した「葬儀の歌」Op.13。

同時期の「アヴェ・マリア」Op.12も同様である。

 

 

 

 

 

全7楽章の大作である「ドイツ・レクイエム」は各楽章がシンメトリカルに構成されている―。

 

1.「幸いなるかな、悲しみを抱くものは」

2.「肉なるものはみな、草のごとく」

3.「主よ、知らしめたまえ」

4.「いかに愛すべきかな、汝のいますところは、万軍の主よ」

5.「汝らも今は憂いあり」

6.「われらここには、とこしえの地なくして」

7.「幸いなるかな、死人のうち、主にありて死ぬるものは」

 

 

第1楽章のフレーズは第7楽章の終わりに再現されるだけでなく、ともに「幸い」を歌っている点でも共通している(音楽も「幸いな」状態にふさわしい穏やかで慰撫されるものだ)。また両端楽章のみハープが効果的に用いられているのも聞き逃せないところ。第1楽章で特徴的なのはヴァイオリン群が省かれていること。これは「セレナード第2番」でも実践されていたオーケストレーションである。

第2楽章と第6楽章はともに短調で(変ロ短調&ハ短調)、ティンパニも活躍するドラマティックな音楽となる。ただテキストの内容は「現世の虚しさ」と「死者の復活」という対比がなされる。後者にはバリトン・ソロが加わるのも特徴的である。

第3楽章と(最後に完成した)第5楽章はともにソロで始まる共通性がある―前者はバリトン、後者はソプラノ。ちなみに70分を要する大曲の中で僅か5分のために登場する―。テキスト的には「問いかけ」(「教えてほしい、希望はあるのか」)と「応答」(「母の如く主が慰める」)という対応性があるようだ。

そして中心部の第4楽章は(やがて行き着く)「天の神の住まい」の不動さ(希望)を示しているかのようである―。

 

 

 

さきほどテキストの選択をブラームスが「好み」で選んだのかも―という浅はかな意見を述べたばかりだが、まさに緻密な完成度に驚くばかりである(僕には「悔い改め」が必要なようだ)。

当時も今もこの作品はブラームスの「代表作」といっていいほどである(たとえ4つの交響曲や協奏曲があろうとも)。評論家エドゥアルト・ハンスリックは「バッハ/ミサ曲ロ短調とベートーヴェン/ミサ・ソレムニス以来、この分野でブラームス/ドイツ・レクイエムに匹敵するものは書かれていない」と激賞している。

第6楽章と7楽章のスコアを受け取ったクララ・シューマンも同様で、「これは非常に強力な作品で、身体全体が掴まれるかのようです。この深い真剣さはテキストと相まって、魔法のように素晴らしく衝撃的で、落ち着きます。この豊かな宝物について決して言葉にできませんが、深い感動ゆえに言葉を控えるわけにはいきません」と絶賛しているのである。

 

僕も全く共感する―そしてケーゲル盤のような卓越した演奏によって、さらにその感動は増すのである。

 

 

なお、この曲にはピアノ版も存在する。クリスマスプレゼントとしてクララに贈ったソロ・ヴァージョンのほかに、2台ピアノ(+コーラス)という代替ヴァージョンもある(1871年ロンドンで披露されたために「ロンドン版」とも呼ばれる)。このヴァージョンで演奏されることが最近もあり、ツイッター等で見かけた記憶がある。コンサートでも手掛けやすく、合唱が際立つ良い編曲だと思う―。

 

2021年コロナ禍の中での演奏。ソリスト&合唱に4手ピアノ、ティンパニ

が加わったヴァージョン。歌詞対訳も観れる。

 

83年の東京ライヴ音源。ケーゲルとNHKso他との熱い共演である。