どうも、新芽 取亜です―。


「音楽と○○」シリーズ、第2回目は「音楽と構造」というテーマで考察してゆきたいと思います。一見難しいテーマに見えるかもしれませんが、小生特別専門知識を有しているわけではないので、とても感覚的な扱いになります。ご容赦いただきたい―。

 

 

 

 

 

音楽を初めて聞いた時のことを思い出していただきたい―。どんな反応をしただろうか。どんな感情や思いに捕らわれただろうか。おそらく、美しいメロディに、演奏する様子にうっとりしたり、テクニックに驚愕したりしたのではないだろうか。最初から音楽の「構造」に注目した聞き方をした方は、多分ほとんどいらっしゃらないと思う(皆無だとは思わないが)。

こう考えると、「構造」を聞き取るということが普通は自然にできることではないことがわかる。意識しなければ、そしてその種の知識や認識がなければ、聞き取ったり把握するのは難しいのかもしれない。

 

当然のようにこんな疑問も生じる―「構造」に注目することにどんな意味があるのか。どんなメリットがあるのか。意識するとしないとでは、どんな違いがあるのだろうか。音楽を楽しむこととどんな関わりがあるというのだろうか、といったことである。

別に楽しむだけなら気にする必要が無い要素でもある―どのように聞こうが聞くまいが構わないではないか―。でもあえて言うと、自分なりに気づける面があったとしたら、かなりの確率で喜びをもたらすであろう。聞きなれたはずの曲の新たな面に気づくことができるとしたら、とても新鮮で嬉しい気持ちになると思う―おそらく自分の心の中にしまっておくことができない程に。なので(お節介にも)語ってしまうのだ。その気持ちはわからないことはない。

 

 

レコ芸などに載ってる講評を見ると、作品の「構造」に通じ、的確に論じている評論に出会うことがある。共通認識がある場合、それはとても示唆に富んだものに写ることだろう。もし通じていなくても、近い将来興味深く感じることができるようになるかもしれない。もちろん、そのためには作品の背景にあらかじめ通じておく必要があるだろう。100%正確ではないが、今はウィキペディアなどで調査可能である。僕もブログ執筆にあたってお世話になっている。前にも述べたが、英語やドイツ語、フランス語版もとても興味深いものである。日本語版と違う内容のものが多く、(ありがたいことに)より詳細な場合がかなり多い。対象作品の言語で調査すると「ヒット」することが多いが、必ずしも多彩な内容とは限らず、意外とオランダ語版が詳しかったりとバラツキがあるのも興味深い(なので可能な限り多くのヴァージョンを参考にしたいと思っている)。

一例として、ベートーヴェン/「大フーガ」変ロ長調Op.133を取り上げてみる。日本語版が短く、ドイツ語版がさらに具体的だが、英語版はスコアも提示し最も充実した内容となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

哲学においては「構造主義」というものがある。詳しい方なら即座にレヴィ=ストロースや、ラカン、フーコーらを思い浮かべることだろう(僕は名前を知っている程度である)。あらゆる事物が物質(または非物質)で形成されている以上、この世界を成り立たせているあらゆるものに

「構造」が存在するのは至極当然といえよう。なので、数学、言語学、生物学、精神分析学、文化人類学、社会学などの学問分野のみならず、文芸批評や音楽でも構造主義が見られるのも納得できる。ちなみにレヴィ=ストロースは幼少のころから作曲家や指揮者に憧れていたのだそうだ―。オペラの作曲やリブレットの制作を試みたことがあったのだという。

 

音楽における「構造」となると、外観的には音楽の「様式」や「形式」が関係してくることだろう。より深い専門的な内容だと、調性や和声システム、リズムや拍子、音程などが関わってくると思う。クラシック音楽においては大体が「ソナタ形式」「ロンド形式」「3部形式」「変奏曲形式」「フーガ形式」のいずれかに該当することが多い。後はこれらを崩したり、省略したり、付け加えたり、といった印象だ。いくつの楽章から成り立たせるのか、その性質から「形式」が決められてゆくことだろう。小品は「3部形式」や「ロンド」が圧倒的に多い。「ソナタ形式」における「(序奏)-提示部-展開部-再現部-コーダ」のカタチは「起承転結」に近く、僕たちの感性に受け入れられやすい。そこに「ストーリー性」を生理的に感じ、安定感と安心感を抱くからだ。雅楽や能楽で聞かれる「序破急」にも親近感を覚えることだろう。由来は世阿弥/「風姿花伝」などに見られ、ビジネス・シーンなどにも応用されているらしい(「初心を忘れず」は世阿弥の言葉)が、クラシック音楽にも一部似たような楽曲が見受けられる。

 

主にイタリア語で示されている「速度表示」も興味深い。そういえば「運命」交響曲の第1楽章をただの「アレグロ・コン・ブリオ」じゃないか―と即物的に答えたのはトスカニーニであった。但し、指定はあっても当時と現代ではスピード感覚が違う(18世紀の彼らをスポーツ・カーに乗せたらどうなるだろうか。僕はぜひ「鉄オタ」のドヴォルザークを新幹線に乗せてみたい)。同じ曲を演奏しても演奏者によって全く違う音楽に聞こえるのは驚きを通り越して痛快ですらある。これもまたクラシック音楽の楽しみの1つかもしれない―。

僕はやたら長い演奏指示が好きだ。そこに作曲家の思い入れを感じるからである(演奏家はどう感じているのだろう)。後期ベートーヴェン以降から見られるようになったドイツ語の指示も好きである。文学的な感じがする。スクリャービン作品でのフランス語の指示はさながら「詩」のようでもある―。

 

チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番~第1楽章。大規模なソナタ形式な

がら序奏が一切再現されない異形の曲。アルゲリッチが共演を熱く望んだ

コンドラシンとのライヴ盤。実はこの盤、当初は序奏と主部がトラック分けさ

れていて、序奏を聞きたくない僕としては随分助かったものだ。

 

 

ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101。第27番からドイツ

語の演奏指示が始まる―。スコアリーディング付き。

MVT I 「 Etwas Lebhaft und mit innigsten Empfindung 」 -

MVT II 「 Lebhaft, marschmässig 」-

MVT III 「 Langsam und sehnsuchtvoll 」- (MVT IV) 「 Geschwind, doch nicht

 zu sehr und mit Entschlossenheit

幾分速く、そして非常に深い感情をもって-生き生きした行進曲風に-ゆっくりと、

そして憧れに満ちて- 速く、しかし速すぎないように、そして断固として 

 

 

シューベルト/3つのピアノ曲D946~第2曲変ホ長調。僕がこの世で最も好きな曲の1つ。「A-B-A-C-A」というロンド形式によるが、Cパート(変イ短調)がたまらなく良い。アントン・バタコフの演奏で。

 

 

サン=サーンス/ピアノ協奏曲第2番ト短調Op.22。「色々」あったファジル・サイ

が自由闊達に演奏している。この曲と「月光ソナタ」は形式が似ていて、楽章が

進むごとにスピードアップ。まさに「序破急」のよう。アンコールでは自作を演奏。

 

 

 

 

ところで、僕は副業として「建築業」の手伝いを15年ほどしているが、リフォーム工事が多い中で何度か新築住宅の建築に一から携わったことがあった。売地となっている土地の水平を測るなど、基礎作りから全てだ。実際の作業は(当然)業者や専門職の人たちが行うわけだが、基礎→土台、資材搬入を経て、少しずつ建物の姿が形作られてゆく―。普段は決して見ることが出来ない「裏の裏」を見れるのは本当に刺激的だった。何より仕組みが理解できる喜びは大きいものがある。建築にせよ音楽にせよ「構造」を知るならより理解が深まり、知的刺激を受けることは紛れもない事実なのだ―。

「モノ」であれば、分解することで「構造」を理解することもできる(建築であれば「解体」か)。子供の頃、手回しドライバーで色々なものを分解しては元通りにするような「遊び」をしていた記憶がある―もっともその一部は復元できなかったが。音楽においてスコアを読み解く作業もそれに当たるのであろうか―。僕は完全にスコアを読むことはできない。もし出来るとしたら大きな発見や喜びを経験できるのだろうか。そこにこの「音」が、この「フレーズ」が置かれている意味を、他の「音」や「フレーズ」との関連を理解したなら、僕の聴取体験はより深さを増すのであろうか―。

 

一握りの音楽家が行う「再構築」、「再創造」もそれに当たるかもしれない―。もちろんスコアを参考にしない音楽家など存在しない(即興演奏以外は)。ただ、その再考なり分析なりが実際に演奏に反映されて「音」や「表現」となって現れなければ、音楽家自身のものだけで終わってしまう―。「知的満足」が目的ならそれでも良いのかも知れないが、幸いなことにほとんどの音楽家は、得られた知識を生かして演奏を昇華させるために、あらゆる犠牲を払うことだろう。
そしてそれは僕たちリスナーに「至福」をもたらすものとなるのである―。

 

とはいえ、彼らと同程度の芸術性や「鍛錬」がリスナーに求められているわけでもなく、事実として「敷居の高い」音楽と思えてしまうものも存在している。分かり難い音楽を分かり易くすることが果たして相応しいことなのかどうか―ふと、村上春樹/「1Q84」の「説明しなければわからないことは説明されてもわからない」という言葉を思い出す―。これは一考の価値がある案件だと思う。僕としては全ての価値をフラットにするのが正しいとは思えない。リスナーの側が歩み寄って初めて理解できる音楽が存在してもいいと思うのだ。実際もし分からなくてもこれから先生きてゆくのに支障はないはずだし、僕がそうであったように、いつか少しでも理解できる時が、そして「目から鱗」のような体験を経験できる時が来るかもしれない。そのためには何らかの仕方で「音楽」と関わっていることが大切であるように思えてならないのである―。

 

「構造」といえばバッハのフーガ、そしてグールドである。第24番ロ短調は

このシリーズで好きな曲の1つ。アナログからの再生で、CDではカットされて

いる前奏曲のリピートが聞ける。フーガは4声からなる。

 

 

僕は熱心なヴァントの聴き手ではないが、なぜか「エロイカ」の演奏に心

惹かれるものがあった。ここでは第1楽章を。各パートが克明に聞こえる。

 

 

アーノンクールによるブルックナー8番。1890年ノヴァーク版によるライヴ。

BPOを採用し、パレストリーナ的な透明さを現出させる示唆に富む演奏。

これはまだ「旅立つ」ことが許されない地上の人による「ミサ」である。

 

 

ブーレーズ/CSOによる(異例の)R.シュトラウス。しかも「ツァラトゥストラ」。
「世界の背後を説く者について」。グレゴリオ聖歌の引用がある陶酔的な

音楽。僕は苦手な作曲家だが、ブーレーズ盤だから聞けた気がする。
 

 

ブーレーズ/「ストラクチャー」Ⅰ&Ⅱ。その名もズバリ「構造」。

2台ピアノのための作品。果たしてこのような音楽を心から理解したと言える時が来るのかどうか―。

 

 

 

子供の頃、図鑑を見るのが好きだった―。葉っぱの断面図や、花の仕組み、車の仕組み、ありとあらゆる昆虫たち、鳥や動物たち、地球の断面図とか宇宙についての絵本など…。

その名残か、今でも書棚(と呼べるほど立派なものではないが)には「美しい人体図鑑」があったり、「深層心理」の解説本などが並んでいる。

子供の頃、胸をワクワクさせながら見た図鑑や絵本、そして音楽。

好奇心の赴くまま、発見の喜びを、探求する楽しみを、忘れずにいたいものである―。

 

 

 

以上、新芽 取亜でした―。