まさか手に入るとは思っていなかったアルバム。ロシアのピアニスト/ミハイル・リツキーによる1997年モスクワでのコンサート・ライヴの第2弾。すべてラヴェルの作品が演奏されている(第1弾はリスト&ラフマニノフ/ピアノ協奏曲)。

 

 

 

 

このアルバムの目当ての曲は最後に収められている「左手のためのピアノ協奏曲」だった。ラヴェル晩年のこの作品は僕が最も好きなラヴェルの曲だ。「ラ・ヴァルス」の狂気も捨てがたいが、この曲の暗澹たるサウンドと特殊なフォームから生じる不思議な妖しさと美しさは比類がない―。

 

この作品に対する僕の勝手な理想として、フランスの作曲家の作品というだけで「粋」でカラフルな色彩とサウンドでオシャレにまとめる演奏ではなく、もっと重厚でダークネス、その中から一瞬浮かび上がるビロードのような美しさが漂う演奏を思い描いていた。既存のアルバムはどれも繊細かつジャジーで、とても片手だけで弾いてるようには思えない素晴らしい音楽が展開しているが、スケールの大きさや強度の強いピアノを聞かせてくれた演奏はごく少なく感じる。実はポゴレリチが新録音で扱ってくれたら…という淡い期待があった。というのも以前のインタビューでラヴェルの左手を演奏したい旨を語っていたからだ(同様に今彼が勉強中と言われるラフマニノフ/3番にも期待している)。

 

そんな時、このアルバムの存在を知ったのだった。HMVサイトで一時期試聴が可能だったので聞いてみたが、肝心のピアノの部分は何も聞けずじまいだった(持ち時間30秒だけで、冒頭はコントラファゴットの超低音で鳴らされるため)が、他のソロ作品「古風なメヌエット」「夜のガスパール」は少し聞けてイメージすることはできた。それにジャケット写真の恰幅の良いピアニストの様子から「名演」を想像してしまった。購入する機会を探していたが、HMVでは取り扱わなくなり、AMAZONでも中古が当初8000円以上の高値が付いていたので諦めざるを得なかったのだった―。一応「ほしい物リスト」に入れて値段が下がるのを待っていたら、ある時4000円代に下がったのだが、さすがに購入する気持ちになれず、そのうち売れてしまった。

それから暫くして、たまたま「ウィトゲンシュタイン」についてのブログ記事を書いていて、ピアニストで献呈者であったパウル本人の演奏をYouTubeで観ていたとき、ふとこのアルバムのことを思い出して、検索してみたら、何と中古で1800円で売られていた―即購入の手続きをしたのは言うまでもない。ついツイートしてしまうくらい嬉しい偶然であった。

 

 

 

 

アルバムは全3曲。前述の通り、全てモーリス・ラヴェル(1875-1937)の作品で1,2曲目にはソロ作品がライヴ収録されている。オンマイク気味の録音でピアノの直接音にフォーカスされている感じだ。2曲目の後、オーディエンスからの拍手が聞こえる。

 

1曲目は「古風なメヌエット」(1895)。ラヴェルの懐古趣味が最初にタイトルに示された作品かもしれない。「人は新しいワインを古い革袋に入れたりしない」とは確かイエス・キリストの言葉だったと思うが、ラヴェルの幾つかの作品はそれを実践しているのが興味深い。この後の「ソナチネ」(1905)、「ハイドンの名によるメヌエット」(1909)、「クープランの墓」(1917)などはその一例だ。古い革袋は柔軟性を失い、固くなる。一方、新しいワインは発酵し続けることでガスを発生させる。やがてどうなるかは自明の理だが、ラヴェルの作品は形式(借り物だが)とサウンドの斬新さとの絶妙なバランスを保つことに成功している。ちなみに「古風なメヌエット」では、本来のメヌエットより起源の古い教会旋法が用いられる。ラヴェルならではのセンスなのかもしれない―。この曲はラヴェル自身によってオーケストレーションが施されている。

 

「亡き王女のためのパヴァーヌ」(1899/1910)。作曲当初から世間の人気を

博したこの曲(自分のことを表現したのだと思った婦人たちが多くいたらしい)

も前述のことが当てはまる。スペインへのノスタルジーを音に託した作品。

辻井伸行の柔らかなピアノ・センスにピッタリな楽曲だと思う。

 

「ソナチネ」(1905)。この種の小品では一番好きかも知れない。特に第2楽章。

ソコロフの演奏は深い呼吸から生じる情感と構築感の一体となった手堅いもの。

 

 

 

 

2曲目の「夜のガスパール」(1909)。ドビュッシー/前奏曲集第1巻と同じ作曲年だ。ちなみにこの後、ラフマニノフも前奏曲や練習曲を作曲している。この時期のフランスの作品というだけで「印象主義」として安易にくくられやすい恐れがあるが、ベルトランの同名の詩に基づく「夜のガスパール」はそれどころではない。何といっても当時存在したピアノ作品中屈指の難曲として知られているからだ(今もってその評価は変わるまい)。

見た目はソナタ楽章-緩徐楽章-ロンド楽章が連なる「ソナタ」風の楽曲。しかしそれぞれの調性は嬰ハ長調-変ホ短調-嬰ト短調と一貫せず、やはりここでも「形式」が「借り物」であることが判明する。前2曲「水の精」/「紋首台」は陰惨ながら穏やかな音楽が繰り広げられるが、終曲「スカルボ」に入った途端、事態は変貌する―超絶技巧の「嵐」となるのだ。難技巧の上、センシティヴな表現が求められるため、コントロールが至難。当然ラヴェルもそこは確信犯的に作曲していて、当時ナンバーワンの難曲とされていたバラキレフ/「イスラメイ」(1869)を超えるヴィルトゥオジティを、と目論んでいたらしい。それでも単なる「自己満足」に終わることなく、音楽的な美しさと構築感、チャレンジに伴う一種の熱感が相互作用し、実に充実したひとときを演奏者にもリスナーにも与えてくれる稀なピアノ作品の1つといえる。僕のようなリスナーを含む誰が聞いても高度な技巧が求められる難しい作品だと「分からせる」ところが凄い―。

 

リツキーの演奏は楽曲の繊細な部分に主にフォーカスし、ビロードのように美しい音世界を現出させる―。「水の精」は特にそう。音が痩せて聞こえず、かといって肉惑的でもない。例えばポゴレリチのような妖しさはないが、情感より「音」そのものを楽しめる演奏である。全体的にゆとりが感じられるのが嬉しい(テンポを遅めに設定しているからかもしれない)。

それが第2曲「紋首台」になるとミステリアス満載の音楽に変貌し、妖しさが立ち上ってくるのが興味深い。誰が弾いてもそうなのであろうか―。そういえばこの演奏は「ライヴ」であった。終曲に向かって、少しずつ内面のボルテージが上昇しているのかもしれない―。

そしてついに「その時」が訪れる―。前曲の静寂を受けてトレモロが囁き、クレシェンドするさまは圧巻だ―。「スカルボ」は妖精だそうだが、そんな可愛らしいものではなく、きっと悪魔の類いに違いない、とこの曲と演奏を聞いて思う。豊かなテンポでのスケールの大きな演奏で、徐々に白熱してくるのはライヴならではなのか、曲のせいなのか―。しかし聞き終えてみると、思いのほかクールで見通しの良い演奏にも聞こえた。意外と頭の中は冷静だったのかもしれない―。

ちなみにこの作品は第3者によってオーケストレーションが施されている(グーセンス版とコンスタン版)。ラヴェル本人の前で全作品を演奏したというピアニスト、ヴラド・ペルルミュテールによると、自身は管弦楽のイメージを抱いていたらしいとのことだ。

 

解脱した(?)ポゴレリチによる2015年ウィーン・ライヴでのアンコール。

「イスラメイ」がこのような硬質のクリスタルのような美しさで、深く、そして

鬼神の如く弾かれた演奏は初めて聴いたかもしれない―。

 

ラヴェルの「水」3部作の1曲/「水の戯れ」(1901)。イヴォンヌ・ルフェビュール

のピアノの粒立ちが特徴的な演奏で―。あと2曲は「水の精」と「海原の小舟」。

 

ラヴェル/「鏡」(1905)~第3曲「海原の小舟」。印象主義と呼ばれても仕方

がないほど描写的で美しい―。キラキラ輝く水しぶきが見えるようだ。

 

初めて聴いたのはポゴレリチ盤だった。異様に美しくて、恐ろしく、凄まじさ

を覚えた戦慄の演奏―。ここでもそうだ。音の圧倒的な強度は比類ない。

 


 

 

3曲目はいよいよ「本命」、左手のためのピアノ協奏曲(1931)である。

先日のブログでも触れたように、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの兄であるピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインの委嘱で作曲されたコンチェルトであったが、当時ラヴェルはト長調のピアノ協奏曲の作曲も手掛けており、ほぼ同時進行で作曲が進み、結果として「左手」が先に仕上がったわけだが、「演奏至難」とパウルが異議を唱え、了承も得ず勝手に弾きやすいようにアレンジして演奏してしまい、ラヴェルの怒りを買う事態になってしまった。

実はネット調査するとコルトーも両手用に編曲し、ラヴェルの反対を押しのけて演奏したのだ。ラヴェルはコルトーに演奏させないようにするため、あらゆる手段をとったらしい。一旦収まったものの、ラヴェルが死去すると途端に、アレンジ版演奏が再開されるようになったという。オリジナルな形での再演(初演)は2年後の1933年、ジャック・フェヴリエのピアノ独奏、シャルル・ミュンシュの指揮で行われた。フェヴリエはもちろん「両手」のピアニストであり、プーランク/2台のピアノのための協奏曲を作曲者とともに初演した人である。

 

そのプーランクとの協奏曲。左側がプーランク、右側がフェヴリエである。

プレートル/フランス国立Oの演奏。映像が残っているとは思わなかった。

 

これが噂(?)のコルトーによる両手アレンジ版の「左手」。1937年録音。

ミュンシュ/パリ音楽院Oの演奏。ミュンシュは快諾したのだろうか―。

 

 

善意で解釈するなら、それだけこの作品には魅力があったということになるのだろうか―編曲をしてても、作曲者本人から反対されても演奏したいという「何か」が。あるいは単に演奏者の「エゴイズム」だろうか―。

 

この曲は「両手」のト長調コンチェルトとカップリングされることが遥かに多い。僕も初めて聴いたのはフランソワ&クリュイタンス盤だった。それからロジェ&デュトワ盤で満足した、というのが正直な感想だ。あとはリヒテル盤を一時期所有していたこともあった。ト長調の方は、輝かしいミケランジェリ盤、バーンスタインとVPOの弾き振り盤などが印象に残っている。前者はストイックな美しさが際立ち、後者は恐らくあまり演奏することがなかったであろうVPOの戸惑いが感じられるレアなライヴ録音だが、レニーも不完全燃焼気味であった(前半のハイドン/交響曲第102番は素晴らしい名演だったが)。

 

むしろこっちの方がノリノリ。第3楽章なんて最高のフィーリングだ。第1楽章

では音程がズレてる箇所が僕には見受けられたが、それもライヴならでは。

オケはフランス国立O。指揮&ピアノには結構大変な曲かもしれない。

 

 

 

ところでどうなのであろうか―。レコーディングのとき、ピアニストは本当に左手だけで演奏しているのだろうか?と思ったことはないだろうか―。僕はある。誰かがこの件で発言していたのをどこかで読んだ記憶がある―。それは「同業者」だったはずだ。そして「彼」は必ずしも「左手」だけで演奏されていない可能性もあることを語っていた。そして「左手」である必然性はないかもしれないことをほのめかしていた(ニュースソースがはっきり思い出せなくて申し訳ないが、「これ」は少なくとも僕の考え方ではない)。前述のコルトーの件ではないが、「オリジナル」の意義について考えさせられる事案ではある。きっと2021年の現在では圧倒的にオリジナルを支持するであろうことは想像できる。
 

この「左手」が「ト長調」と比べ、暗澹たる雰囲気と崩壊の兆しのような音楽に聞こえるのは僕のネガティヴな感性のせいだけではない。委嘱者であったパウル・ウィトゲンシュタインがそもそも右腕を失うことになったのは第一次世界大戦で従軍したせいであった。同じころ、当のラヴェルも入隊を希望、従軍トラックの運転手として戦場を走り回っていたという。オーストリアVSフランスという敵味方に分かれて、彼らは「同じ空気を吸っていた」のである。この作品で聞かれる「ジャジー」なムードは、ト長調の協奏曲で聞かれる「粋」なものではなく、憂愁を伴う「ブルーノート」のような風情を帯びている。

 

「左手」のオケ編成は「両手」より大きく、もしかすると彼の作品中最大規模に属するかもしれない。作曲者によれば、それは「左手」のみの音の薄さをカバーするためだという。ソロが「左手」だけだからといってラヴェルは容赦しない。ピアノ・パートのスコアは時に2段に及び、縦横無尽に鍵盤を駆け巡るフレーズが多発する(「スカルボ」の超絶技巧といい、この「左手」といい、ラヴェルにはサディスティックな要素を感じる)。このピアノ・パートの作曲に際し、ラヴェルはツェルニー、サンサーンスやゴドフスキー、アルカンやスクリャービンなどの「左手作品」を参考にしたと伝えられている。

 

有名な「革命」のエテュードをゴドフスキー版で―。こんなことが可能なのか。

このアンコール演奏をステージ脇で聞いてるゲルギエフが印象的。

 

右手を怪我してしまったピアニストがゴドフスキー版での「エオリアンハープ」

を弾く。地味なサウンドだが、ほのかに叙情が香る―。

 

 

曲は3部に分けられるが、「レント」と指示された第1部の冒頭はコントラファゴットによって超低音を軋ませながら始まる。この陰惨なテーマ(「ディエス・イレ」に似ているという指摘もある)は再三繰り返されるメインテーマとなる。呻くような音楽が少しずつ高揚してゆく―。面白いのはストラヴィンスキーが「ハルサイ」冒頭でファゴットを超高音で始めているのと真逆であることだ。ラヴェルはこのスキャンダラスな初演にドビュッシーとともに立ち会っている。オケが高揚したところでピアノがカデンツァで登場、曲が展開してゆく。リツキーのピアノはカデンツァから圧倒的な存在感を示すが、音色自体は意外とまろやかで驚く―内面的なピアノ、といっていい。「大地」を思わせる低音の豊かな量感は流石である。そこにブラスが強調されたオケが続き、メロディをよく歌う。

 

第2部の「アレグロ」は一転、行進曲風となり、ピアノがブルースを奏でる。キレの良さが聞かれるが、この人のピアノはどんな風に弾いても美しさが損なわれない。この部分の音楽はスケルツォともとれる作風だが、これらの要素は自筆楽譜の表紙にある「混じりあったミューズたち」(musae mixtatiae)と関わりがあるようにも思われる。「陽気」というのには憚られる「何か」を感じてしまうのは僕だけだろうか―。

 

ピアノのグリッサンドを合図に、第3部「テンポ・プリモ」で第1部のメインテーマが回帰する。そのあとのピアノによるカデンツァが絶品なのだ―。ここが聞きたいためにこの作品を聞いてると言っても過言ではない。リツキーの奏でる絶妙なピアニッシモと煌めく高音はこのカデンツァの美しさを際立たせる―。「夢の時」を思い出しているかのような陶酔的なフレーズに言葉を失う。テンポを落とし、じっくり一音一音空間に放ち、数分間の儚い至福の時を刻む。現実(オケ)がひたひたと迫り、ピアノを飲み込む勢いで高揚し、コーダではアレグロの行進曲が復活、まるで「ラ・ヴァルス」での「破局」のように、崩壊へと向かう―。

 

彼のピアノを支えるのはウラジーミル・ポンキン/モスクワ放送so。このオケ、アルバム表記では「チャイコフスキー大(記念)交響楽団」となっている。随分と大仰な感じもするが、国際チャイコフスキー協会とロシア文化省より授与された称号らしい。特によく響くブラスセクションが特徴的。冒頭、ピアノが入る直前、スコアにない(と思う)弦セクションの一撃が加わる。リツキーに合わせてであろうか、テンポ設定もスローで、この協奏曲演奏としては長めの21分越えである。フランスの作品とは思えない「異色の演奏」に属するかもしれない。かといってロシア的かというと、そうでもない気がするのだが(確かにブラスの響きはそう感じさせるものがある)、フランス勢の演奏からすれば「ロシア的」になるのかもしれない。前2曲よりホールトーンが加味されて聴きやすい録音となっている。曲の終わりにはオーディエンスからの拍手がわずかに収録されている。

 

ユジャ・ワンがレコーディングでも共演したリオネル・ブランギエ指揮で奏でる

「左手」。右手でiPadを操作し譜めくり。線は細いが説得力ある演奏。

 

インマゼールらによる珍しいピリオド演奏。こちらも演奏時間21分。ピアノは

1905年製エラールを使用。流石、こだわっている。

 

ついでに、桃源郷的世界の終焉を描く「ラ・ヴァルス」も―。