全13枚からなるシューマン/ピアノ曲集。今回は6枚目。佳境に入ってきた。

プログラムは以下の通り―。

 

 

 

【CD 6】
1. 交響的練習曲 嬰ハ短調 Op.13
2. 交響的練習曲のための変奏曲 嬰ハ短調 WoO 6
3. 4つの夜曲 Op.23
4. 「ペダル・ピアノ」のための4つのスケッチ Op.58
5. 花の曲 変ニ長調 Op.19

 

 

 

実はこれが最も多くプレイヤーに載せられたCDである。

その理由は第1~2曲目にある。

 

 

1曲目の交響的練習曲 Op.13はシューマンのピアノ曲の中でも確実に五指に入る名曲。

「練習曲」というタイトルだが、その実は「変奏曲」でもあり、その壮大な楽想は過去の偉大な変奏曲作品―ゴルドベルク変奏曲やディアベッリ変奏曲に匹敵する、とすら言われている。

 

シューマンが当時交際していたエルネスティーネ・フォン・フリッケンの父(アマチュア作曲家だったようだ)が作曲した「フルートとピアノのための『主題と変奏』」のメロディを冒頭テーマにして展開させてゆくこの作品は当初「Variationspathétiques 」(「悲愴的変奏曲」)または「Etuden im Orchestercharakter von Florestan und Eusebius 」(フロレスタンとオイゼビウスによる交響的性格の練習曲」)のいずれかがタイトルとして考えられていたという。確かに嬰ハ短調のテーマは「悲愴的」に聞こえるし、お馴染みの「分身」キャラクターが現れるのも当時のシューマンの心境を如実に語っている(「謝肉祭」が作曲されていた時期とも重なる)。この時のクララはまだ十代半ばくらい。シューマンにとっては恋愛対象にならないのは当然かもしれないが、何やら「三角関係」に近い心理がクララの側に働いていた感がある。結局エルネスティーネとは婚約破棄という結果に至る。彼女の複雑な家庭事情が影を落としたためともいわれている。

でもこれでロベルトとクララはかえってお互いをより意識するようになってゆく―。

 

この作品は3つの経緯をたどることになる―。

1837年に「12の交響的練習曲」が第1版として、1852年には「変奏曲形式による練習曲」が第2版として編集された。ここでは練習曲第3番と第9番が省かれている。シューマンの死後、ブラームスにより1890年に校訂された第3版ではシューマンが含めなかった5曲の変奏曲を含めたヴァージョンとした。この「遺作」の5つの変奏曲をどのように扱うかはピアニストに任されているようで、そこがこの作品を聞く楽しみの1つともなっている。実際様々なケースがあり、コルトーのように作品全体に散らすように配置するのもあれば、ポリーニやシフのようにまとめて演奏するケースもある。ちなみにデームスの演奏は後者のケースだが、興味深いのはテーマをもう一度演奏してから5つの変奏曲を始めていることだ。そしてそのテーマも一部フレーズが変わったものになっている。これがデームスの即興なのか、別な版のスコアによるのかは未だにわからないが、魅力的な演奏である。

 

 

 

僕は最初この曲をポリーニ盤で聞き、のちにポゴレリチ盤でノックアウトされた。

ポリーニ盤は強固な構成感の中に詩情を漂わせ、クールで完璧な技巧で「征服」したような演奏だった。遺作の5曲の変奏曲を中間に「緩徐楽章」のようにまとめて配置したのも特徴だ。

ブリリアントなフィナーレでは「初版」から削除されたフレーズを復活させ、単なる「勝利感」に留まらない深さを感じさせるものとなった。

 

フィナーレ。現行版で削除された箇所は2分50秒辺りから。不思議な存在感。

 

 

 

ポゴレリチ盤は、というと、衝撃的なショパン演奏だったデビュー盤からの2作目でベートーヴェンの32番のソナタとのカップリング。「変奏曲」を共通項とする組み合わせで、クリアでシャープなソナタ演奏に対して、濃厚なロマンティシズムを漂わせる大胆な表現をやってのけたのだった。テーマの引き摺るようなテンポといい、幅広いアコーギクとダイナミズム、思い切ったテンポ変化など、実に個性的なピアニズムを聞かせてくれた。

 

テーマをはじめ、第2曲や8曲目の沈み込んだやるせないテンポと第6曲目

のようなぶっ飛びの高速演奏とが交錯する。実に個性的だ―。

 

 

以前もブログで一部取り上げた映画「哀愁のトロイメライ」。29分半以降、

エルネスティーネが登場。54分半辺りからクララが交響的練習曲を弾く

シーンが現れるが、その音源は上記のポゴレリチ盤だったりする。

 


 

テーマから印象的で沈鬱ながら甘美さをたたえた音楽でもある―。それらが展開し変奏されてゆくわけだが、たとえ長調のフレーズがふと現れたとしても、嬰ハ短調の影を完全に払うことはかなわない。音が鋭く聳え立つイメージがあり、「エテュード」らしくかなりの技巧が求められているのが聞いてるだけでもわかる。重音も多用され、音に厚みが加わる。それが「交響的」といわれる所以なのかもしれない。あるいはそのスケール感からかもしれないが、オーケストラの音色を意識したのかもしれない。ちなみに「シューマニアン」であるチャイコフスキーがこの作品の一部を管弦楽用に編曲している。

 

第11,12曲に基づく。世界初録音だそうだ。

 

 

全体の中で、調性が変わるのは2曲のみだ。第11曲が嬰ト短調「Andante espressivo」となり、哀切の極みのような感情の放出が聞かれる。フィナーレである第12曲で変二長調となる。「Allegro brillante」、まさに「闇から光へ」―という感じだ。今までの憂鬱がウソであったかのような、晴れやかで喜びのオーラがキラキラ輝くような爆発的なフィナーレとなる。ここでは冒頭のフリッケンのあの陰鬱なテーマではなく、ハインリヒ・マルシュナー/オペラ「聖堂騎士とユダヤの女」からロマンス「誇らしきイギリスよ、歓喜せよ」のテーマが使われる。

「クララ」という名の「輝き」―。

どうやらシューマンは「喜びの源」を見つけたようだ―。

 

 

 

 

 

2曲目は交響的練習曲のための変奏曲 嬰ハ短調 WoO 6。前述の遺作の5つの変奏曲である。シューマンが何故これらを交響的練習曲に含めなかったのか、正確な理由は不明だ。

だが、それら1曲1曲は宝石のようなきらめきを見せ、ため息がこぼれそうになるほどの美しさを聞かせてくれるのだ―。ブラームスの判断は(この件に関する限り)慧眼であった―と思う。

デームスの演奏は「補遺」として扱っているが、前述の通り、フレーズが一部異なる「テーマ」をリピート付で演奏している。なので1分以上長い演奏タイムとなっている。続く変奏が素晴らしいのは言うまでもない。実際作品自体が素晴らしいので誰の演奏でも聞けてしまうのである。

 

2019年スペインでのライヴ。ここでポゴレリチは冒頭に遺作の変奏曲を

配置している。テンポも2倍近く遅い。濃密なシューマンだ―。

 

 

フォーレ/「主題と変奏」嬰ハ短調Op.73。形式や調性、雰囲気など、影響

を受けていないはずはないと思われがちだが、直接的な因果関係は残され

ていないようだ。

 

 

 

 

 

3曲目は4つの夜曲 Op.23。この不思議な感触の作品が作曲された1839年はシューベルト/交響曲第8番「ザ・グレイト」がシューマンによって発見された年であった。それまではピアノ小品や歌曲の作曲家のイメージしかなかったシューベルトにこれほどの大規模な「天国的な長さ」の交響曲が存在していたとは―。この発見がシューマンにとって、後の交響曲作曲の意欲を激しく掻き立てたことは容易に想像できることだ。

 

フルトヴェングラー/BPOによる「ザ・グレイト」第1楽章。戦時中のライヴ。

冒頭のファンファーレは後のシューマン/「春」の交響曲を思わせる。

それにしても緩急のうねりが物凄い―。現代ではあり得ない演奏だ。

 

 

このように芸術上のインスピレーションに事欠かない年でありながら、シューマンの心に影を落とした出来事があった。兄エドゥアルドの死である。容態が思わしくないとの手紙を受け取ったとき、シューマンは死の予感を拭えなかったという。

 

彼はクララへの手紙の中でこう書き記している―。

 

私はこのところよく葬儀の行列、棺、不幸で絶望的な人々を見るのです。(…)しばしば私は涙が流れるほどに取り乱したが、なぜか分からなかった――その後[エドゥアルドの妻]テアーズの手紙が届いたが、私はその理由を知っていたのだ。

 
さらには「もし私が今、非常に貧しい男になり、悲しみしか持っていないので、私を見放するようにと言ったら、私を見捨てたりはしませんか 」とも書いている。シューマンの心の抑うつ状態を垣間見ることができる。彼の生来の憂鬱な気質が前面に出てしまっているようだ。
 
死の間際の兄に会うためシューマンはツヴィッカウに向かうが、予感は奇しくも的中する。
後にクララにこう書き送る―。
 
土曜日の朝の3時半、旅行中にトロンボーンのコラールが聞こえました。エドゥアルドが死んだ瞬間でした。(…)もし君がいなければ、私はずっと前に彼が今いる場所にいたことだろう 
 
このような精神状態でこの「夜の曲」が書かれたのだ―。タイトルからショパン/夜想曲のような甘くロマンティックなイメージを抱くことは出来なさそうだ(現にシューマンは当初「亡霊の幻想」と名付けようとして、クララに止められている)。もっともショパン/ノクターンにも不気味で厭世的なフレーズは少ないが存在しないわけではない。たた、シューマンの「夜」は明らかに現世の夜のことではあるまい。しかも全4曲は「長調」で書かれているのである。かえって恐ろしいではないか―まだ「短調」で嘆くほうがかえって心が落ち着くというものだ、「涙」に癒し効果があるように。そういえば、同年に書き進められていた「ウィーンの謝肉祭の道化」の中の第4曲、変ホ短調の「間奏曲」は本来この「夜曲」に含まれる予定であったという。この間奏曲の渦巻く「ダークエネルギー」の一因を想像することができる。

 

「夜の曲」というタイトルは、実はシューマンのオリジナルではなく、例の如く、E.T.A.ホフマンの同名小説集(1817)に由来すると考えられている。僕は読んだことはないが、怪奇小説に近いテイストのようだ。この小説に当てはめて曲を解釈する向きもあるようだが、どこまで正当化できるのかは正直疑問だ―。あからさまに否定するつもりはないが、僕としては「音楽」を感じるままに受け止めたいと思う。

 

ショパン/2つのノクターンOp.48。第13番ハ短調と第14番嬰ヘ短調。

どちらも陰鬱で悲しく厭世的だ―。ソコロフの白熱したライヴ演奏で。

 

 

 
全4曲それぞれには、ホフマンに倣ってか、当初タイトルが付けられていたようだ。

 

第1曲 「葬送行進曲」 ヘ長調 。「Mehr langsam , oft zuruckhaltend」(より遅く、よく抑えて)という指示がなされている。タイトル通り、「葬送の行列」が行進しているイメージだが、この世ならざる雰囲気も感じられる。不気味な曲だ―。調子が狂ったバネが跳ねてる痛ましい印象すらある。この重苦しいリズムはベルリオーズ/幻想交響曲の第4楽章「断頭台への行進」を思わせる。それでも冒頭から聞かれる「下降音型」は例の「クララの動機」なのである。

 

ミンコフスキ指揮。マーラーCOと手兵ルーブル宮廷音楽隊、モダンとピリオド

を混合したオケによる演奏。主に管楽やブラスにピリオドの雰囲気を感じる。

 

 

第2曲 「奇怪な道連れ」 ハ長調。前曲の重苦しい雰囲気はどこへやら、突然闊達な音楽となる。まるで急におしゃべりを始めるかのように。かと思いきや、急に黙り込み、空想にふける、といった風なのだ―。  実際シューマンにはそんな時が度々あったという。

 

第3曲 「夜の祭り」 ヘ長調。「Mit großer Lebhaftigkeit 」(大いなる活気を抱いて)と指示される。前述の「ウィーンの謝肉祭の道化」第4曲「間奏曲」にも「Mit Größter Energie」(大いなるエネルギーに満ちて)という指示が与えられ、類似性を覚える。祭りの活気あふれるイメージが確かにある。ただ、流麗で泡立つような伴奏の上で奏されるフレーズには苦しい感情が聞き取れる。

 

第4曲「ただ声だけを伴うロンド」 変ニ長調。 この曲集で一番穏やかで美しい音楽。

まるで「子守歌」のように響く―(そういえばショパン/「子守歌」も変ニ長調だった)。

前3曲が一筋縄でいかない雰囲気があっただけに、ここでの「平安」は比類ない―。

左手のアルペジョがリュートかギターの伴奏を思わせ、慰めに満ちた歌が「シンプル」に奏でられる―。ただ、タイトルだけが意味不明だが―。

 

ギレリスによるライヴ映像。ベートーヴェン演奏の時とは違う彼の姿がある。

 

 

確かにギターにも相性が良い音楽―。こうなると本当に「子守歌」に聞こえる。

 

 

 

 

 

4曲目は「ペダル・ピアノ」のための4つのスケッチ Op.58。

この「ペダル・ピアノ」とは、足鍵盤が備わったピアノのこと。シューマンはアップライトタイプのペダルピアノを好み、この作品やOp.56の練習曲を作曲している。超絶技巧で有名なフランスの作曲家兼ピアニスト、シャルル・ヴァランタン・アルカン(1813-88)もエラール社に自分専用のペダルピアノの制作を依頼し、作品を残している。

    

 

    

プレイエルアップライトタイプ。     グランドピアノタイプ。「ドッピオボルガート」。

 

 

この作品が実際のペダル・ピアノで演奏される機会は少なく、通常はピアノ・ソロかオルガン、またはピアノ・デュオで演奏される。このデームス盤はもちろんピアノでの演奏である。

 

作品は4曲からなる。第1番ハ短調/第2番ハ長調/第3番ヘ短調/第4番変ニ長調。

シューマン的な勢いを感じる第3番と声部同士の「対話」が面白い第4番が印象的だった。

 

 

第3番ヘ短調。ペダルピアノでの演奏。映像でその全貌を確認できる。

 

第4番変ニ長調。足鍵盤と手鍵盤との「対話」が興味深い。デュオを1人で

やっているかのようだ。

 

 

 

 

 

最後の5曲目は「花の曲」 変ニ長調 Op.19。この可愛らしいタイトルとその名を裏切らない愛らしい雰囲気のこの曲を、シューマンはOp.18の「アラベスク」ハ長調とセットとして考えていたようだ―。「ウィーンの女性たちに好まれる作品」を目指した―という見方もあるらしいが、定かではない。ただ、クララは生涯にわたって演奏し続けた作品の1つだったようだ。

 

 

「花」にまつわる作品/音楽はジャンルを問わず沢山あるのではないだろうか―。

 

 

松田聖子/「赤いスイートピー」。歌詞が素晴らしい―。

 

 

「ハナミズキ」。新垣結衣ヴァージョン。どうぞお幸せに―。

 

 

Aimer/「花の唄」。浜辺美波に見惚れてしまうが、曲のディテールが深い。

 

 

指田郁也/「花になれ」。頑張っているあなたへ―。

 

 

ヨルシカ/「花に亡霊」。さり気ないピアノのフレーズ、ウィスパーな声。

 

 

 

新海誠/「秒速5センチメートル」。桜の花びらが落ちるスピードは…。

 

 

 

作品はロンド形式をとるが変奏的味わいもあり、形式の「統合」を図ってる気がする。

中心となるテーマは「クララ」のフレーズ。数多くの作品に常に現れる、あの「4つの音」だ―。

それに基づく「5つの楽想」が存在し、それらが入れ代わり立ち代わりに現れる。

図式としては「Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅱ-Ⅳ-Ⅴ-Ⅱ-Ⅰ-コーダ」となる。

Ⅱの短調に傾斜する楽想は実に魅力的だ―。

実際に書かれたのは1839年だが、二人がようやく結ばれた1840年に、歌曲集「ミルテの花」Op.25と共に、この曲の自筆楽譜がブライダルギフトとしてクララに贈られたのだった。

 

ウラディミール・ホロヴィッツによるライヴ演奏。スコア付き。

 

 

 

※ このブログ記事のサムネイルはこの「花の曲」にちなんだものである―。