イシュトヴァン・ケルテス/ロンドン交響楽団によるブラームスのセレナード集。1960年代後半の録音だが、さすが往年のデッカ録音だけに素晴らしい録音でこの名演を引き立てている。

ブラームス20代の青年期に書かれたフレッシュな名曲で、交響曲の重厚なイメージからはかけ離れている印象だ―。

 

 

 

 

 

たった今、「名曲」と言ったが、その実そんなに聞かれていないのも事実ではないだろうか―。

それは本当に勿体ないことだ。あちらこちらに青春の息吹に溢れている。若さに見合う勢いもあり、みずみずしい歌にも事欠かないが、管弦楽法は巧みながら地味な印象を拭えない。

そのあたりが今一つ人気が出ない理由かもしれない―。

 

この盤のもう1つの魅力は、ケルテスの真の実力を感じさせる指揮である。1973年に海岸で遊泳中、高波にさらわれ、43歳の若さで溺死した彼がもし生きていたら、あのカルロス・クライバーに匹敵する(もしくは凌ぐ)存在となっていたであろうと語られることがあるほどだ―。

確かに言えることは、ケルテスが存命なら、指揮者の世界は随分と事情が変わっていただろう、ということだ。

 

VPOがケルテスの死を悼み、指揮者なしで「フィナーレ」を演奏したハイドン

の主題による変奏曲。

 

 

 

 

「セレナード」の歴史は古代ギリシャまで遡れるという。よく言われるように「夜に野外で恋人を褒め称えるために歌われる」音楽なわけだが、ルネサンス時代にこの名称が定着した可能性がある。夜、1人の歌い手がリュート片手に扉や窓のそばで歌うわけだ。現代では気づかれないどころか通報されそうだ―。時代は変わるのである。

「合奏」としてのセレナードはバロック時代から見られる。やはり夜に野外で演奏されるという点は変わらなかったが、18世紀になってからは冠婚葬祭や晩餐会など、特定の行事に演奏される「機会音楽」(Gelegenheitsmusik)として作曲されることとなった。つまりは「バックグラウンドミュージック」である。モーツァルトのセレナードの前後に「行進曲」が付随されるのは音楽家の入退場のためであったのだろう。

ロマン派以降は多楽章形式の演奏会用作品として、作風に合わせて命名させることが多いように思われる。ドヴォルザークやチャイコフスキーの作品がその代表例だろう(実はそれらを僕はあまり聞かない。というより、以前聞きすぎて新鮮さを感じられなくなっている)。

現代は―というと、言うまでもない。音楽は「自由」である―。

 

「セレナード」といえば、先ずはこれ。誰もが知ってるモーツァルトの超名曲

「アイネ(小さく)・クライネ(可愛らしい)・ナハト(夜の)ムジーク(音楽)」。

コントラバスを加えた弦楽五重奏版。しかも第2楽章メヌエットが復元された

珍しい5楽章版。ピリオド楽器によるザロモンSQによる演奏。

 

映画「アマデウス」より。老年のサリエリは自慢げに自分の作品を披露するが、

司祭は知らないという。しかし最後に「アイネ~」の一節を弾くと司祭は…。

サリエリには切なすぎる場面だ(もちろんこれはフィクションである)。

 

16歳のシューベルトが作曲したといわれる「九重奏曲」変ホ短調D79。

またの名を「Eine kleine Trauermusik」(小葬送音楽)。

 

シューベルトのセレナーデ。ナナ・ムスクーリのヴォーカルで。

 

スガシカオ/「8月のセレナーデ」。「ちはやふる」のイメージで。

 

ジャズのスタンダードナンバー、グレン・ミラー/「ムーンライトセレナーデ」。

「古き良き時代」という言葉を使いたくなる音楽と映像だ―。

 

こちらは一味違った「ムーンライトセレナーデ」。いや「伝説」というべきか。アレンジが素晴らしい―。


こちらがその「ムーンライト伝説」。歌詞がツインレイっぽいと、スピリチュアル界隈では評判だ―。

 

 

 

 

 

アルバム1曲目はブラームス/セレナード第1番ニ長調Op.11。

この作品番号が示すようにあの大作「ピアノ協奏曲第1番ニ短調Op.15」より前の、比較的規模の大きい本格的なオーケストラ作品、ということになる。でも実はこの作品の初版が「弦楽と管楽による九重奏曲」という室内楽作品であった―この編成による演奏やCDも存在する―。

初演は成功であったようだ。ブラームス自身はあまり自信がなかったようだが、当時としては破格と思われる1200人の観客が初演に立ち会い、演奏もミスなく行われ、拍手喝さいを浴びたようである。シャウトまで聞かれたそうだ。Op.15の初演とは大違いである。シェーンベルクは自らが管弦楽編曲したピアノ四重奏曲第1番のことを「ブラームス/交響曲第5番」と呼んだが、それに倣っていうなら、僕にとってこの曲は「ブラームス/交響曲第0番」といってもいいかもしれない (形式を無視した言いようだが)。

 

作品は全6楽章からなる―。

第1楽章「Allegro molto」はまさにこれから新天地へ向かう時の心のウキウキ感を音に託したかのような溌剌とした音楽となっている。最初こそは低弦のリズムに乗ってホルンがいかにも「片田舎のイメージ」でノホホンと吹き出すが、「活気」が全ての雰囲気を征服してしまう。

提示部がリピートされるので12分を超える演奏となっているが、ケルテスの指揮は最高だ。

燃え立つようなリズム、きりっと引き締まった存在感のあるティンパニ、有機的な響きを奏でる楽器たち―。初夏のドライブで聞くと本当に心が開放される思いがする―。

幸先が良い音楽だ。

 

第2楽章以降はブラームスの叙情性が前面に打ち出される。スケルツォ楽章だが、ニ短調で少し翳りのある音楽となっている。木陰に佇むイメージといってもいい。

 

アカデミー室内アンサンブルによる第2楽章。この曲調には室内楽版が似合う。

 

こちらは4手ピアノ版。ブラームス自身の編曲による。ピアノ協奏曲第2番の

「スケルツォ」を思わせる出だし。ピアノだからこそ気づく不思議。

 

 

第3楽章は緩徐楽章で14分に及ぶアダージョ。のちの交響曲に聞かれる漂うような叙情性を垣間見ることができる。ふと立ち止まり、美しい自然の風景を眺めているかのようだ―。

あるいは空の風景。雲が移り行き、時々日が陰ったり、再び青空が見えたり―。

聴きようによっては、夕暮れより少し前の、陽の光がオレンジに差し掛かる直前の時間帯の風景を思い浮かべられるかもしれない。青年にしては落ち着き過ぎてる音楽かもしれないが。

 

第4楽章はメヌエット。セレナードらしい配置だ。通常メヌエットは2種類用意される。ここでもト長調とト短調の音楽が奏でられる。僕好みはもちろん後者だ。このそよ風のような予感を孕んだ憂いある音楽は実に美しい―。

 

このようなデリケートな音楽はアバドが実にうまい。マーラーCOとの演奏。

 

 

第5楽章は再びスケルツォ。ただし以前のスケルツォとは違い、ニ長調である。明らかにフィナーレとの関連を示しているように聞こえるし、「予兆」ともなっていると思う。ケルテスの演奏は重量感があり、往年の指揮者によるベートーヴェンの演奏のような風格を感じる。

 

第6楽章のフィナーレはニ長調。交響曲的な充実感のあるフィナーレ。低弦のリズムの刻みが印象的だ。こうしてみると作品が第3楽章「Adagio non troppo」を中心とするシンメトリカルな設計になっていることに改めて気づかされる。

 

 

 

 

 

2曲目はセレナード第2番イ長調Op.16。

クララ・シューマンに献呈された作品のようだ。だからかどうかは知らないが、地味で不思議で静かな雰囲気が漂っている―前作とは大違いだ―。作品番号からピアノ協奏曲第1番のすぐ後の作品であることがわかる。地味な印象なのは心理的なものだけではなく、楽器編成にある。いやむしろそちらの方が直接的要因か―。それは第1番と比べてみるとよくわかる。弦楽がヴァイオリンが省かれて中低弦に限定されているのである。他の楽器も、トランペットとティンパニが省かれ、ホルンが4→2になっている。かわりにピッコロが入っているが、全体的に指向するサウンドは明らかだ。そういう点でセレナード第2番は実にブラームスらしい作品と言えるのではないだろうか―僕もこの第2番の方を好んでいる。余談だが、ブラームスの主要作品をライヴ・レコーディングしたバーンスタインは何故か彼にお似合いな感じの第1番ではなく第2番を映像作品で残している。

 

アバド/BPO他によるブラームス/「ドイツ・レクイエム」Op.45~第1楽章。

ここでもヴァイオリン・セクションはお休み。それにしても美しい音楽だ。

 

 

 

曲は全5楽章からなる。第1番より簡素な印象だが、それだけ巧みさが示されているともいえよう。だが、世間の評判は第1番の場合のようにはいかなかったようだ―ピアノ協奏曲第1番の不評のせいもあるのかもしれないが。ブラームス自身はこの作品を気に入っていたようだがら、いつの世も「不条理」は存在するらしい―。改めて「自分軸」の大切さを覚える。前作と同様、第3楽章に「アダージョ」を置き、それを中心に両端にアレグロ楽章と舞踏楽章を配置するシンメトリーが意識されているように感じられる。ちなみにこの初演はベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲をヨアヒムが独奏を務め、シューマン/ピアノ協奏曲をブラームスが独奏を務める、という豪華なプログラムで、指揮はブラームスが行ったようだ(つまり弾き振り)。聴衆の中にはクララ・シューマンもいたと伝えられる。その場にいて聞いてみたいものである―。

 

 

第1楽章は「Allegro moderato」。ポイントは、そう「モデラート」だ。あくまでも穏やかに、そしてイ長調という一見晴れやかなイメージの中に、俯き加減の淡い翳りのある雰囲気がふと現れるような、何とも深みのある音楽―。この時点で前作の闊達な印象とはもはや別人のヨハネスの素顔が垣間見れる気がする。

 

第2楽章はスケルツォ。第1番の活気が戻ってきた印象だが、ユーモアを感じさせるのが興味深い。ダンス的要素が強い感じがする。ケルテスの演奏がそうだからなのか、低弦のリズムの刻みが深く、その上を管楽が楽しそうに舞うイメージが想起される。

 

第3楽章は「Adagio non troppo」。前作と全く同じ演奏指示だが、内容は「パッサカリア」を模倣するような凝ったものになっている。調性もイ短調でその哀愁がひときわ目を引く―。

クララ・シューマンはブラームス宛ての手紙で「素晴らしく美しい作品で、教会のイメージがある」ことを伝えている。

 

第4楽章はメヌエット。「quasi menueto」なので実際は「メヌエットのような」音楽。たゆたうような雰囲気が独特だ―。実にブラームスのこういうところが好き。主部はニ長調だが、トリオは嬰ヘ短調となる。これがまたたまらない。おそらくこの曲で、いやこのアルバムで一番心惹かれるフレーズかもしれない。

 

シャイー/ゲヴァントハウス盤。しっとりと聞かせてくれる―。

 

 

第5楽章フィナーレでは、第2楽章で聞かれたような活気が再び訪れる。沈黙していたピッコロがここで初めて登場する(といっても最後なのだが)。セレナードの性格らしい寛いだ雰囲気とフィナーレに相応しいノリの良さがうまくブレンドされている。明るく和やかなコーダも後味が良く、爽やかな聴後感を覚える―。 

 

第1番とともに、もっと聞かれ、演奏されて良い作品である。

 

 

当盤音源で第2番全曲を―。