ワレリー・ゲルギエフ/キーロフ歌劇場管弦楽団によるインパクト大の名演奏。ストラヴィンスキーとスクリャービンの2大名作を収録している。2001年度レコード・アカデミー大賞銀賞受賞。このアルバムの看板は明らかに「ハルサイ」だが、購入した理由はむしろスクリャービンの方にあった。「法悦の詩」という音楽がこの演奏によって初めて僕の心に到達したのだ。

 

 

 

 

ゲルギエフの演奏はチャイコフスキー/交響曲第5番(WPhライヴ盤)で初めて接した。何故か「爆演」のイメージがあり、確かにその演奏も表情が濃厚で、ライヴのためか、かなりスリリングだったが、巷で騒ぐほどではないな―と感じていた。むしろ随分神経を使って細やかに指揮してるな―という印象が強かったのだ。最近はどうか知らないが、一時期、彼のタクトは異様に短い、というか小さかった―爪楊枝サイズだったと思う(「そのもの」ではないと思うが)。それを痙攣するようにブルブルさせて指揮をしていた。オケ側としては演奏しやすいのかどうかはわからないが、作品に内包された「感情の襞」をなぞっているかのようにも見え、興味深く感じたものだ。

 

ゲルギエフ/LSOによるラヴェル/ボレロ。「爪楊枝」を確認できる。

 

 

 

ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」はずっとコレクションからは外されていた曲だった。ドイツ・ロマン派の音楽を愛好する者には「キツい」のは想像がつくと思う―。この狂乱するリズムとエグい内容の音楽を楽しめるようになったのはごく最近のことで、現代音楽、特にノイズ音楽や電子音楽などを聴くようになってからだ。よく「ハルサイ」はロックなどに親しんだ人からの評価が高いと聞くが、本当にそうだと思う。それでもこの作品の「音」そのものが持つ「衝撃度」はいささかも薄まることはないのだが―。

 

ゲルギエフによる演奏は重量感たっぷりで、しかも表情の濃いものだ。そして色彩感に富み、とても美しい―(これ、大切)。この重量感は指揮者やオケのもの―というより、ロシアが持つ独特の「重さ」だろう(ドストエフスキーの小説を思い出す)。まさに「お国もの」が成せるワザなのだと思う(例えば、第2曲「春のきざしと乙女たちの踊り」。弦のきざみがザクザクと深い)。これに比べれば、デイヴィス/RCO盤はオケそのものの力量の発揮と優秀録音によって知られる演奏であり、クルレンツィス盤は指揮者のカリスマ性と独裁的な手腕で纏められたオケの超絶技巧がスマートに発揮された現代の名盤、ということになるだろうか―。ゲルギエフ盤の前に所有していたのはマゼール/WPh盤であったが、これは「珍しさ」から購入したものだった。2021年現在でもウィーン・フィル唯一の「ハルサイ」録音だと記憶しているが、マゼールのクセの強い解釈が気になった演奏だった。あと「変わり種」ではファジル・サイによるアイディアを尽くしたピアノ・ソロ版があった。最近ではラトル/BPh盤を入手したことがあったが、不思議と手元に残らなかった。「完全試合」を観せられて、かえって白けてしまったのかも知れない。

 

クルレンツィス盤のハイライツ。「大地の踊り」などはまるで倍速で聞いているかのような超高速演奏だ。

 

 

 

作品は巨大なオーケストラ編成になるが、他のバレエ音楽のようにハープやチェレスタなどの「鳴り物」が一切使用されていないのは意外だ。「優雅さ」を意図的に省いたのだろうか―。冒頭のファゴットによる超高音はサン=サーンスの否定的な反応と共に有名な箇所の1つである。「ハルサイ」には古いロシア民謡が数多く引用ないし活用されているようで、カタチが残らないほど完全消化された状態で用いられている、とのこと。冒頭のメロディもその一例であろう(リトアニア民謡"Tu mano seserėle(私の妹よ)"に基づいているようだ)。クラリネットでもオーボエでもなく、あえてファゴットを「非常識」な方法で用いるとは―ストラヴィンスキーの脳裏に流れていたのに近い音はそんな感じだったのだろう。

 

1913年に初演された春の祭典の8年後、サン=サーンス最晩年1921年に作曲されたファゴット・ソナタOp.168。同年に作曲された木管ソナタ・シリーズ最後の作品となった。

 

1894年に初演されたドビュッシー/「牧神の午後への前奏曲」。冒頭のフルートを(cis=C#)音という「響かない」音程であえてスタートされる書法は、後の「春の祭典」でのファゴット・ソロと

通じるスピリッツを感じる。

 

 

 

第1部「大地礼賛」の中で、僕がこの演奏で一番印象的なのは第4曲「春のロンド」。ライナーノーツの中で、宇野功芳氏が(例によって)熱く語っているが、確かに低音域のベース音の濃厚さは半端ない―心に重くのしかかるのだ―。この箇所に深く心打たれたのはこのゲルギエフ盤だけだった。

 

第2部「いけにえ」では第9曲「序奏」の沈滞する重苦しい表情の音楽が印象的だ。身体にまとわりつくかのような陰惨さが凄い。この後に暫く続く神秘的な音楽の展開は僕の好むところ。もっとも、その静寂は第13曲「祖先の儀式」での大太鼓の一撃で激しく破られるのだが―。そして史上最難関とされる最終曲第14曲「いけにえの踊り」に至る―。ストラヴィンスキー自身も振り間違ったとされる(もっとも職業指揮者ではなかったから無理もない)変拍子のリズムが文字通り乱舞する。ときに偉大な作品は、作曲家をも超えた存在になってしまうらしい―。

 

ちなみにストラヴィンスキーは作曲家としては最も自作自演盤の録音を果たした人物として知られる(CD22枚分に相当するという)。この「いけにえの踊り」の録音はボイジャーに搭載された「ゴールデンレコード」にも含まれている。

 

ストラヴィンスキー/コロンビアsoによる演奏。宇宙人の反応を知りたい。

「it's cool!」とでもいうのだろうか―(何故か英語)。

 

 

ゲルギエフの演奏は他の演奏では聞かれない独特な終わり方をする―テンポを落とし、長い静寂(5秒!)のあと、終結音をぶちかますのだ。「大見得を切る」ような感じだ(ゲルギエフは「歌舞伎」を知っているのだろうか)。

 

よく言われることだが、「春の祭典」の初演はスキャンダラスな騒動に発展するほど、物議を醸し出すものだったようだ(当時の新聞は「春の災典」と呼んだ。ウマい)。ただ、それは必ずしも「音楽」に対してだけではないかも知れない(「音楽」は今もって衝撃的だ―。だが、もし民謡に親しんでいた原住民が聞いたら、どう思うだろうか?仮に「驚く」としても、それは「拡大された音響」故であるかも知れず、「音楽」そのものではないように思えるのだ)。当時の振付師であったニジンスキーの「無能力さ」が大きな一因となったという説もある。ブーイングの大半は「音楽」よりも地味で不気味な「ダンサー」たちに向けられたものなのかもしれない―。

 

作品の終結音が「D-E-A-D」に基づく、と教えてくれたアニメーション。

全編英語だが分かり易いし、興味深い。そして何より面白い―。

 

アルトゥール・ユッセン&ルーカス・ユッセンによる4手ピアノ版。

リズムの強靭さが際立つ。改めて「バレエ音楽」なのだと思う。

 

ここではLSOとの2007年ライヴを―。ゲルギエフの指揮ぶりを堪能。

 

 

 

 

2曲目は僕にとっての本命、スクリャービン/「法悦の詩」Op.54。「交響曲第4番」とも表記される。1908年完成。フランス語の「Le Poème de l'extase」が示しているように、「法悦」と訳すのは日本特有の「慎み」であり(恐らくスクリャービンが傾倒した「神智学」に因んでそのように「意訳」したのかもしれない)、本来は「エクスタシー」である。彼の作曲上の特徴である「神秘和音」(6和音)が用いられていることでも知られている。

 

オルガンなどを含む大編成のオーケストラが、めくるめく「官能」を歌い上げる―と言いたいところだが、実はそう感じさせてくれる演奏は意外と少なかった。目立つのは冒頭や他の箇所でも登場するトランペットのフレーズくらいで、寄せては返すようなオケのフレーズに乗って鳴り響くイメージがあった。羞恥心が働くのか、分析力が興奮を萎えさせてしまうのか、表題が示す「エクスタシー」に達し得ない冷静な演奏が多かった。ブーレーズ/CSO盤はまさにそうで、すっきり聞けるが、「魔力」は衰えている。もしかすれば、旧盤の方がまだ尖っている演奏かもしれない。そんな中、このゲルギエフ盤を聞く機会が訪れた―ひと言でいうなら「生々しい」。感覚の美と陶酔する美がそこに示されていた。あらゆる楽器が語りかけてくるような気がした。官能の波が幾度も押し寄せるような演奏だったのだ―まさに「エクスタシー」そのものだったのである。

 

僕の中ではこの曲は「トリスタンとイゾルデの交響詩版」のようなイメージを持っていた。スクリャービンが関心があった「神秘主義」に必ずしも寄り添う必要はないと思う。人間の生きる原動力の1つである「エクスタシズム」はタブーとして排除するのではなく、もっと大切にすべき感覚だと僕は感じている。それは性行動だけに限られることはない。着心地の良いファッション、使いやすいペン、美味しい食事等々…「心地好いものへの追求」は全て「エクスタシー」とその持続を目的としているのだ。性的なエクスタシーのみならず、音楽によって与えられる「官能」は何物にも代えがたいものがあると思う―グレン・グールドは演奏とエクスタシーを深く結びつけて、「演奏とは競争ではなく恋愛である」と述べたことがあったほどだ―。多くの演奏家が「忘我の境地」に入っているように見える(心理学者ミハイ・チクセントミハイによって提唱された「フロー状態」、もしくは「ゾーンに入る」とも表現されることが多い)。リスナーもそうだ―思わず指揮をしてる自分に気づくことがある。エア・ピアノやエア・ヴァイオリンを弾いている自分がいるのだ―。その時に感じているものは厳密に言って何なのか?心の奥深いところに悦びを、もしかすると生きがいすら与えてくれるこの感覚はいったい何なのだろうか―。

 

 

スクリャービン/「法悦の詩」が作曲されるのに前後して、スクリャービン自身の手による370行に及ぶ「詩」が自費出版された。その詩は次の言葉で締めくくられている―。

 

私は永遠を照らす瞬間です。.私は肯定です。.私はエクスタシーです

 

彼は音楽を人間の芸術の中で最も進化したものとみなし、同時に「エクスタシー」の感情がすべての人間の感情の中で最も進化していると信じ、すべての人類が「エクスタシー」で贖われる必要性を説いているこのような思想が作品に反映されていることは確かなようだ―。

 

単一楽章によりながらソナタ形式が垣間見れるため、「交響曲」と呼ばれることもあるこの作品は、作曲者による「暗黙のプログラム」により、3つのセクションに分かれることが示されていた。

  1. 「愛の乱交における彼の魂」
  2. 「幻想的で素晴らしい夢の実現」
  3. 「彼自身の芸術の栄光」

そしてスコアにはフランス語も交えた詳細な演奏指示が書き連ねられている―「可能な限りだるく」「非常に香り高く」「高尚で喜びの感情を持って」「官能的な喜びをさらに歓喜させて」「偽装して」「劇的に」「苦悩して」「悲劇的に」「せん妄」「雄大に」etc…。

 

 

ついでにネットでこの作品の「成分解析」をしてみる―。

  • 交響曲第4番《法悦の詩》の77%は「罠」で出来ています。
  • 交響曲第4番《法悦の詩》の12%は「記憶」で出来ています。
  • 交響曲第4番《法悦の詩》の5%は「信念」で出来ています。
  • 交響曲第4番《法悦の詩》の4%は「努力」で出来ています。
  • 交響曲第4番《法悦の詩》の2%は「魔法」で出来ています。

 

甘い「罠」には気を付けたいものだ―「それ」に引っかかるのもまた人生だが。

 

そんな僕たちは今宵も「記憶」をたどり、「想い」を育むのだ―。

2%の「魔法」の力を信じて―。

 

 

2台ピアノとトランペット・ソロという独特な組み合わせによる編曲版。

ドビュッシーのように響くのが大変興味深い。トランペットも健闘している。

 

終結部に合唱が入るユーリ・アーロノヴィチ編曲によるヴァージョン。

ピアノが入っていない「プロメテウス」(「火の詩})といったところか―。

 

当盤音源より―。