グリゴリー・ソコロフ(pf)による「ライヴ・アルバム」第2弾。CD2枚目は2013年ザルツブルク音楽祭でのライヴ。ベートーヴェンのハンマークラヴィーア・ソナタと恒例のアンコール・ピースとしてラモー&ブラームスを収録。
ソコロフの凄いところは、常に完成形で示してくれることだ。音符一つ一つを吟味し、楽曲を再構築する。その徹底性は「超人レヴェル」だと思う―。
聴いてると、あらゆる瞬間が吟味された上での「最良の姿」が示されているように感じる。
これ以上の演奏は無いんじゃないかな―と常に思わせるピアニストだ。
1曲目はベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調Op.106「ハンマークラヴィーア」。
経済的必要のために切迫し「パンのために」書かれたこの曲―。「楽章」を切り売りしてでも即座に金が欲しかった状況だったのかもしれない―。
そんな 「人間的な、あまりに人間的な」印象をこの作品は全く感じさせない―。
不思議な現実だ―。プライヴェートではドン底だった本人とは違い、生み出された作品はそれ自体の価値を失うことなく「高み」を目指すのだ―。
ちなみに多くの音楽学者たちによって、この「ハンマークラヴィーア」は少なくとも2種類の楽器が関係していると考えられているようだ。
当時のピアノは進化の過渡期で、音域を拡大することが目指されていた。実際、第1~3楽章は「シュトライヒャー・ピアノ」で作曲され、第4楽章は「ブロードウッド・ピアノ」で作曲されている可能性が極めて高い。スコアから導き出される音域がそのことを示しているようだ。
限界を絶えず打ち破り、更新しようとするベートーヴェンの志のようなものを感じる。
大半のピアニストがこの作品の巨大さ、「晩年様式」への認識から、挑戦意識をギラギラさせて力感こめて取り組むケースが多いのに、ソコロフは母性(父性)のような慈愛の想いで弾き始める―神殿を建てるくらいの勢いで弾き始めるのではなく―。しかも終始そうなのだ。
第1楽章の冒頭から、柔らかなタッチでじっくりと奏でられることに驚きすら感じる。
だが、必要とあれば深く楔を打ち込むことも厭わない。
パッセージを明確に弾き分けるテクニックは最高だ―。
第1楽章( = 138)指定という高速テンポで弾いたのが、このギーゼキング盤。
リピート敢行で9分というスピードで駆け抜ける。ソコロフ盤は約14分弱。
第2楽章「スケルツォ」は周りの「巨大さ」に比して随分こじんまりとしている。
実際、演奏時間も3分半くらいだ。「息抜き」というイメージがある。
短調に転じる中間部は「英雄」交響曲の冒頭を思わせるフレーズが現われる。
第3楽章「Adagio sostenuto (appassionato e con molto sentimento)」。
嬰ヘ短調。「世界の霊廟」とも表現された深遠な音楽。全曲中最も長く21分以上を要する。スローテンポの部類に入る演奏だと思う。この深遠かつ哲学的に響くこの楽章が不思議と親密に、軽やかさすら感じられることに驚く。
知らず知らずのうちに培われていた固定観念から解放されるのは嬉しいことだ。
真の独創性とはこのようなものなのかもしれない―。
この楽章にはよく知られた逸話がある―。
出版の際、冒頭に2つの音符を加えるよう、ベートーヴェンから指示があったらしいのだ。
弟子であったフェルディナント・リースの回想である―。
「正直に言って、先生は頭がおかしくなったのではないかと思った。これほどまでに徹底的に考え抜かれ、半年も前に完成している大作に、たった2つの音符を送って来るとは―。しかし、この音符がどれほどの効果をもたらすかを知った時、私はさらに増して驚嘆した。」
この2つの音符は「世界の霊廟」に入殿する際の2枚のコインなのだ―。
第4楽章は序奏の「ラルゴ」でスタートする。前楽章を受けてか、幻想的な面持ちだ―。
アクセルが踏み込まれスピードが上がると主部に突入し、「幾分自由な3声のフーガ」が展開されてゆく―。バッハのフーガとは感覚的に違う。ヘンな言い方だが、「端正さ」がないのだ。
フーガに関わる様々な要素が詰め込まれているせいかもしれない。でも「大フーガ」ほど破天荒な感じはしない。逆に言えば「大フーガ」が如何に斬新かつ前衛的か―ということになる。
ソコロフの演奏は明晰そのもので、強靭で余裕のあるテクニックでフーガの「糸」を見事に解きほぐす。フーガの難解さは変わらないが、ここで初めて巨大な構築感が立ち現れてくる。
でも柔らかさは失われない。そして大きな充実感によって終結を向かえるのだ―。
20世紀前半、指揮者であり作曲家でもあったフェリックス・ワインガルトナー(1863-1942)
は自身の手による「ハンマークラヴィーア」ソナタの管弦楽編曲版を録音している。
(彼は史上初ベートーヴェン/全交響曲録音を果たした人物であった)
不思議な繋がりだが、フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は 「人間的な、あまりに人間的な」
(1878-80)の中で、この「偉大な変ロ長調」のピアノ・ソナタに言及、「交響曲」化することの必要性を述べていた。ワインガルトナーはこのことを知っていたのだろうか―。
1930年の録音ながら十分楽しめる。編曲も違和感をそんなに感じない。
第2楽章中間部の「エロイカ」フレーズも、編曲のおかげで分かり易い。
「作曲家」ワインガルトナー。ハンス・ロットやブルックナー/交響曲第7番
「スケルツォ」を思わせる楽想―。なかなか聞かせる。
第3楽章の情緒性は特筆すべきものがある、と思う。
万雷の拍手に応えてアンコールが始まる―。彼のアンコールはメイン・プログラム級のヴォリュームがあるものばかりで、ソコロフを聴く楽しみの1つともなっている。
ジャン・フィリップ・ラモー(1683-1764)のクラヴサン曲から5曲が選ばれて演奏される。
1曲終わるごとにオーディエンスが高揚してくるのが手に取るようにわかる。クラヴサンの為に書かれた作品をモダン・ピアノで弾く難しさを僕は説明出来ないが、魔術的な指回りの凄さはよくわかる―というか圧倒させられる。呆然とさせられる―。
ラモーを弾いて絶賛の嵐を受けるピアニストが世界に果たして何人いるだろうか―。
1曲目。「やさしい訴え」。こんな「訴え」ならいつでも喜んで聞くのだが…。
3曲目。「一つ目の巨人」。2013年ベルリンでのライヴ。
5曲目。「未開人」。テクニックにただただ圧倒される。そしてブルーノ・モンサンジョンによるカメラワークも俊逸。
ラスト・ピースがブラームス/間奏曲変ロ短調Op.117-2で締めくくられるのが素敵過ぎる。大曲を書き終えた晩年の作曲家が心の赴くままに綴った小品。シューベルト的にも聞こえる。ブラームスはフランス・バロックの作曲家ラモーのスコアの校訂に携わっていた。
アンコール曲も全プログラムの一環としてすべて考え抜かれたものであったのかもしれない。
今後のソコロフのコンサートにも目が離せない―。