*当記事は2021年1月に投稿された記事の再編集版となります―。

 

 

 

ホリガー/ケルンWDRsoによるシューマン・プロジェクト第4巻。2つの協奏曲を収録。ヴァイオリン協奏曲ではソリストにパトリシア・コパチンスカヤを、ピアノ協奏曲ではデーネシュ・ヴァーリョンが起用されている。

 

 

 

 

 

 

 

アルバム1曲目の「ヴァイオリン協奏曲ニ短調WoO.1」は「遺作」として20世紀になって初演されたいわくつきの作品であり、最近になってレパートリー化しつつある。1937年に初演されたそうだ―ちなみに日本初演は翌年の1938年だった。意外と早い(当時の社会事情も関係しているのだろうか)―。当時と20世紀の複雑に絡んだ歴史的かつミステリアスな事情については下記リンクを参照していただくとして、ライナーノーツによると、シューマンの「協奏曲」が全3楽章による古典的様式を尊重する流れと、各楽章の要素を単一楽章に凝縮したファンタスティックな様式の2つの流れに分かれるのだという。このヴァイオリン協奏曲の前には単一楽章の幻想曲Op.131が作曲されているが、幻想曲から発展したピアノ協奏曲とは異なり、ヴァイオリン協奏曲は最も古いスタイルで書かれているように思われる―第1楽章冒頭のバロック様式の序曲を思わせる重厚な主題や従来のコンチェルト同様、オケの提示部後のソロ登場など。それでも第2主題にはロマン派的な美しいテーマが現れ、様式の混在を感じる―。シューマンの主要な3つの協奏曲の中ではチェロ協奏曲が最も先鋭的なスタイルで、前述の2つの流れが統合されているのに対し、最後に書かれたヴァイオリン協奏曲はいわば伝統に回帰した形になっているのが興味深い。

 

 

 

 

僕が初めてこの曲を耳にしたのはクレーメル&ムーティ盤。同じニ短調のシベリウスの協奏曲がカップリングされていたCDだった。その次に聞いたツェートマイヤー&ドホナーニ盤では、当時最新の校訂されたスコアが使用されていたらしい。そしてクレーメル&アーノンクール盤を長年愛聴することになる(偶然かそのCDもピアノ協奏曲がカップリングされていた。しかもアルゲリッチのソロで)。クレーメル新旧盤において明らかに違う解釈がフィナーレで聴かれたのは興味深いことである―新盤において、終楽章のテンポが明らかに遅く、12分を超える演奏時間(今でも最長かもしれない)となっているのだ。これはアーノンクールの解釈の可能性大であり、おそらくはポロネーズのリズムを生かすべく選択したテンポと推察される。今回のホリガー盤では10分半で演奏しているが、僕としてはこのテンポの方が自然に聞こえる。

 

当アルバムの話題性はコパチンスカヤのソロにある、と言っていいだろう―「破天荒なおてんば娘」のイメージが強い彼女だが、地味としか言いようのないシューマンの協奏曲においても大いに気を吐いているのは嬉しいことだ。ただ、ホリガーの指揮ゆえ、クルレンツィスやアントニーニの場合のようにはいかないことは確かなのだが、ある意味「制限」が課せられているおかげで、内面的に激情を孕ませた―そのことを間接的かつ節々に感じされるような名演に仕上がったのだと思う。

 

クレーメル&アーノンクール/COE盤。全曲音源で―。

 

 

第1楽章では16分かけて(アーノンクール盤より長い)、じっくり両者が取り組んでいる。ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲に触発され、作曲に至った経緯を持つこの曲は、ベートーヴェンの同作品を聞いた際に時折感じるような「退屈感」を隠さない。凄く堅実でベートーヴェン以上に聞かせどころが無いのだ―第2主題は辛うじて美しく、不思議と癒される―。バックで弦がひたすらリズムを刻んでいるなか、ソロは不思議な糸のようなメロディを縫い付けてゆく。カデンツァもなく、ひたすら同じ調子が延々と続くのだ―その様子はシューマンの数々のコンチェルト作品には珍しくシンフォニックな感覚を覚えさせる―。そんな曲想に対して、コパチン嬢は独特のイントネーションで鋭く切り込みを入れ、(いつものように)ジプシー風の歌いまわしを貫く。大したものだ。おかげで不可思議な立体感が生まれる。とりわけ展開部の、短調に転じる密やかで静かな表情は、シューマンの心の深い闇を連想させる―「異色の名演」と言ってもいいだろう。

 

第2楽章は「天使の主題による変奏曲WoO.24」のテーマが聞こえてくることで知られる緩徐楽章。オーケストレーションで興味深いのは、ファゴットとトランペット以外の管楽器が沈黙していることだ―これでますます作品の内面性が強調されているように感じられる。コパチンスカヤも絶妙なピアニッシモでシューマンの心境に迫るが、民族楽器を彷彿とさせるような彼女の独特なヴァイオリンの音色は、リスナーによっては場違いに聞こえるかもしれないほど個性的である。

後年クララはこの作品の演奏を禁じたというが、不吉な感じをぬぐい切れなかったのだろうか(本当の理由は依然として謎のままだ)―ライン河に身を投げる直前、テーブルにあったのは指輪とこの「変奏曲」のスコアであった―。ただ、作品そのものの価値は当事者たちの事情にすら左右されない。僕には安らぎに満ちた音楽に聞こえる―愛する家族の姿が見えるほどだ。個人的には好きな音楽である。たゆたうメロディには独特の魅力があるが、この世のものではない感じは特にしない。他の協奏曲と同様、アタッカで終楽章に繋がる―。

その第3楽章では、ポロネーズのリズムでゆったりとしたステップを踏むダンスが展開される(この舞曲の採用はバロック的、もっといえばバッハの組曲を連想させる)。「ニ長調」であり、それはベートーヴェン作のフィナーレと同じ調性で、かつ同じロンド形式による。このフィナーレはクララ・シューマンが特に否定的で、ヨアヒムに書き直すことを提案したほどであったという―その理由も定かではない―。相変わらずソロは休みなく螺旋のようなフレーズを弾き続ける。シューマンの協奏曲は皆そうだ、地味な仕方でヴィルトゥオジティが要求される。故にリスナーにはそれが伝わりにくい―実演を観るとその凄さがわかる―。報いが少ないように見えるが、勿論真実は異なる。作品を享受することの報いは大きいのである。

コーダは穏やかで、第1楽章コーダと似たような終結を迎える。ただ当盤で気になるのは第1楽章とは異なり、割と早めにディミヌエンドすることだ(スコアの指示なのだろうか)。意思に反して強制終了させられてしまったかのような、そんなもどかしい気持ちにさせられる。

 

ジョシュア・ベル&スティーヴン・イッサ―リスという「シューマニアーナ」による

独立させた第2楽章。しかもコーダはブリテン作という珍しさ―。

 

当音源より(問題の)フィナーレ。先述のアーノンクール盤と比較。

 

コパチン嬢がエッシェンバッハと共演した「無観客」だが熱い表現のライヴ。

第2楽章の前にエッシェンバッハのソロで「変奏曲」のテーマが演奏される。

 

シューマン、ブラームスと共作の「F.A.E.ソナタ」で有名なシューマンの弟子

アルベルト・ディートリヒのヴァイオリン協奏曲ニ短調。調性やフィナーレ

がポロネーズ風など、共通点が多い。

 

 

 

 

2曲目の「ピアノ協奏曲イ短調Op.54」は、言わずと知れた名曲中の名曲。よく「グリーグ/ピアノ協奏曲」とカップリングされる。僕が最初に聞いたのもそうで、ルプー&プレヴィン盤だった。ただ、大概このカップリングだと、グリーグの魅力の方が大きかったりする。以前付き合っていた彼女にリヒテル&マタチッチ盤のCDを貸したところ、明らかにグリーグばかり聞いていたらしい―名曲であるとは言え、やはりシューマンは「地味」なのかもしれない。

 

地味なわりにはこんなところで使われていたりする―衝撃(笑撃)のシーン

は50秒あたりから。この後もふんだんに使われる。リパッティ盤を使用。
 

 

この協奏曲には実は初稿がある―「ピアノとオーケストラのための幻想曲」(1841)である。前述の通り、シューマンの協奏曲スタイルの1つに合致するが、興味深いのは単一楽章の幻想曲が4年後、全3楽章のコンチェルトへ「変貌」を遂げた事実である―そこには出版社との事情が関係するらしい―。メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」では序曲Op.21と劇音楽Op.61との間に17年ほどの開きがあるのに、まるで同時期に作曲されたかのような感じがするが、このシューマンのピアノ協奏曲も同様である―どちらも共通するモティーフを巧みに織り込み、全体を統一しているのである―。

この初稿版を録音しているCDは幾つか存在するが、当ホリガー盤の興味深いところは、その初稿を視野に入れて演奏しているということだ(「春」の交響曲の時もそうだった)。顕著に表れているのは第1楽章。ピアノを装飾するように吹かれるクラリネットの旋律が従来のものと異なり、初稿を参考にしている可能性が極めて高い―ピアノ・パートにも部分的にその節がありそうだ―。まだまだ探すと見つかるかもしれないが、この件がライナーノーツで全く触れられていないのが不思議である。

 

ピアノとオーケストラのための「幻想曲」イ短調(1841)。貴重な録音だ―。

 

 

第1楽章冒頭、オケによる和音の後にピアノが切り込んでくるスタイルはベートーヴェンの「皇帝」以来の伝統ともいえる(第4番はピアノ・ソロからのスタートだったが)。ソロによる下降音型は「クララ」を音に読み替えたもので、まさにラブラブのコンチェルトなわけだ―シューマンのあらゆる作品に聞かれるモティーフである―。だからといって(メンデルスゾーンの有名なヴァイオリン協奏曲ホ短調と同様)甘い雰囲気に浸りすぎるとテンポの収集が付かなくなる危険を孕む楽章であるが―中間部でツケを払わせられる―、当演奏は割と速めのテンポでサクサクと進み、夢見心地な展開部でもテンポを保つ。デーネシュ・ヴァーリョンのピアノは個性的な演奏とは言い難く、ニュートラルに徹しているように感じられるが、ホリガーともに目指したスタイルともいえる。聴き込むほど微細な変化に気づく類の演奏である。僕が特に好きな箇所であるカデンツァでも情熱を内に秘め、クールにこなす印象だ。ここは流石にミケランジェリ&チェリビダッケ盤(1967)を超える演奏にはまだ出会っていない。少々外連味のあるピアノだったが、あの表現の深さは無類だ。アルゲリッチ盤はもう少し落ち着いて弾いて欲しい演奏だ。

 

ベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ」~フロレスタンのアリア。

 

カデンツァの冒頭は友人で早世したルードヴィヒ・シュンケ/グランド・ソナタ

ト短調からの引用となっている。その第1楽章。

 

当音源より第1楽章。前述の初稿版と聴き比べていただきたい―。

 

 

第2楽章「間奏曲」がオケとピアノの対話のように聞こえたのは、アルゲリッチでの演奏が初めてだったが、当盤では不思議と普通に聞こえる―ライナーノーツでは「ピアノ&オケ」「チェロ&クラリネットorファゴット」との2つの対話が示されている―。それでも心と心を通わせるような親密な音楽であることに変わりはない。シューマンのコンチェルトの緩徐楽章はどれもさり気ない美しさに溢れている。信頼感のある穏やかな雰囲気が心地よい…。

やはり第3楽章フィナーレとはアタッカで繋がれる。その間のブリッジでは、第1楽章の「クララのテーマ」が何度も呼び声のように奏でられる。高揚し、長調に変容した瞬間、フィナーレが勝利感を伴って開始されるこの場面はいつ聞いても胸が熱くなる―交響曲第4番のフィナーレ導入にも通じる高揚感だ―。ピアノがオブリガートのようにオケと溶け合い、夢中になって弾きまくる―そう、まさに「弾きまくる」感じなのだ。しかも目立たない。この作品はオケとピアノの一体感を感じさせてくれる。真の協奏曲であり「競争曲」ではないのだ。それだけにソリストには困難さが与えられる―とりわけ旋回するテーマとリズムの取りづらいモティーフが連続するこのフィナーレで、ミスなく切り抜けられるピアニストは現在でもそんなに多くない(実際、有名なプロのピアニストの手が一瞬止まってしまった場面に遭遇したことがある。この幸福感に満ち満ちた終楽章には「魔物」が棲んでいるのかもしれない)。だからこそ、リスナー&演奏者を虜にするのかもしれない。

こんな感じで、ついにコーダの最後の最後までピアノは弾きまくり、オケの高揚とともに大団円を迎えるのだ―。

 

シューマンの理想は(数々の要素の)「統合」にあったのかもしれない―と、2年前に記したが、今はまさにその通りだと確信している。

 

ミケランジェリ&チェリビダッケ/MPOによる1992年のライヴ。

共に晩年の演奏スタイル。

 

ポゴレリチによる2017年スペインでのライヴ。オーディエンス録音。

1996年に亡くなった妻アリス・ケゼラーゼの思い出に捧げられている。

今まで聞いたことがないような解釈に満ちたシューマンだ―。

 

シューマン生誕200年記念として制作された3枚組アルバム紹介の動画。

未完に終わったピアノ協奏曲の補筆完成版の世界初録音を果たしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「帆船の上にて」(1819)/カスパー・ダ―ヴィト・フリードリヒ

 

 

 

ピアノ協奏曲の初稿が書かれた1841年は、まさにロベルトとクララにとって「人生の船出」の時であった―。