*当記事は2021年1月に投稿された記事の再編集版となります―。
ホリガー/ケルンWDRso(ケルン放送交響楽団)によるシューマン・プロジェクト第3弾。この度は後期作品に注目、名作であるチェロ協奏曲と交響曲第4番(改訂版)を収録―。アルバム的にこの組み合わせは珍しいが、どちらも1850年代の晩年期の作品であること、古典的フォルムを維持しながらも単一楽章のような内容を持っている点が共通している。
1曲目は「チェロ協奏曲イ短調Op.129」。
小ぶりながらこのジャンルの傑作になぞらえられる名品だ。同作品では、ドヴォルザークの協奏曲が超有名だ―あのブラームスが嫉妬したほどの出来だったのだから―。作品の規模も大きい。他の協奏曲作品(ピアノ&ヴァイオリン)が霞んでみえるくらいだ。僕はかつてマイスキー&バーンスタイン盤を所有していたことがある。お互い「濃厚派」のアーティストだから、仕上がりも「こってり」だった記憶がある。でも不思議と長続きしなかった。むしろヴァイオリン協奏曲の方を好ましく思っている(でも後に再度購入している)。
パイネマン&マーク盤によるドヴォルザーク/ヴァイオリン協奏曲イ短調Op.52。
凛とした音色、奇をてらわない誠実な演奏に好感を覚える―。
ドヴォルザーク/チェロ協奏曲第2楽章。デュ・プレ&チェリビダッケ盤。
別格の演奏。実にアンビエントだ―。
ブラームス/二重協奏曲~フィナーレ。実質的にはチェロ協奏曲に近い。
ベル&イッサ―リスというシューマニアーナ・コンビによる演奏。
シューマン/チェロ協奏曲を初めて聞いたのはカザルスの演奏であった―豪胆で、最初から最後まで気迫に押されっぱなしだったような気がする。フィナーレのカデンツァで、第1楽章のテーマを引用していたのが印象的だった(他の演奏を聞いてこれがカザルス独自のものだと気づいた)。他にはデュプレ&バレンボイム盤や、ノラス&サラステ盤などが挙げられる。ホリガーはソリストに当オケの首席チェロ奏者オーレン・シェヴリンを採用している。癖のない演奏をする人だ。オケとの同調を狙ったのかもしれないが、素直にいい演奏なのだ。作品が良いからだろう。であればどんな演奏家でも一定の成果を上げるのだろうか―仮にそうだとしても誰でも良い、ということにはならないのだ。今回の録音に際し、シェヴリンは(作品と同時期の)1850年製「John Frederick Lott」のチェロを用いている。とても珍しい名器だそうだ。
カザルス盤による第3楽章。1953年録音。やはりカデンツァが素晴らしい。
グレゴール・ピアティゴルスキー作によるカデンツァ。桑田歩のチェロで。
第1楽章冒頭の響きがメンデルスゾーン/「真夏の夜の夢」の序曲の冒頭と類似している、という指摘がライナーノーツにある(あと「ルイ・ブラス」とも)。云われてみると確かにそうである―1847年、急逝した姉ファニーを追うように、病死したメンデルスゾーン。チェロ協奏曲が完成した1850年、シューマンは後任の音楽監督としてデュッセルドルフのオケを指揮、そこで演奏されたのは、クララをソリストとしたメンデルスゾーン/ピアノ協奏曲第1番ト短調であったという。名作「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」と同様、全編アタッカで接続されたこれらのコンチェルトがシューマンの創作に影響を与えないはずはない。亡くなった盟友のためにシューマンは無言歌風のピアノ曲「思い出」を作曲したが、深い哀愁を感じさせるチェロ協奏曲もまた、メンデルスゾーンへのオマージュと据えてもよいのかもしれない。
オケによる短い序奏のあと登場する独奏チェロの憂いを帯びたメロディはいつ聞いても魅力的だ。オケと共に、地味ながら内面で熱い想いがたぎっているようなフレーズが歌われてゆく。ピアノ協奏曲Op.54と比べても、各楽章の緊密さは遥かにこちらの方が上で、ライトモティーフで全体が統一され、全楽章アタッカで繋がれた、明らかに単一楽章に多楽章の要素を凝縮した設計である(Op.54は元々第1楽章が「幻想曲」として独立していたところに後続楽章を追加した作品であった。メンデルスゾーン「真夏の夜の夢」の序曲と劇音楽もそうである)。シューマンとしては「コンチェルトシュテック」として据えていたそうだ―従来の名技的な「協奏曲」の在り方に一石を投じようとしていたのかもしれない。カデンツァは割愛され、第3楽章で現れるが、全体を単一楽章の曲と据えるなら後半に配置されるのは理にかなっている。それでも第2楽章へ繋ぐソロのフレーズは小カデンツァと見なしてもよいのかもしれない。
メンデルスゾーン/序曲「真夏の夜の夢」Op.21。クレンペラーに
よる豊かなロマン的演奏を堪能―。
シューマン/ユーゲントアルバム~第28番「思い出」。「1847年11月4日」
とあるのはメンデルスゾーンの命日である。
メンデルスゾーン/ピアノ協奏曲第1番。若きユジャ・ワンの演奏で。
当音源より第1楽章「Nicht zu Schnell」。艶やかな哀愁―。
第2楽章「langsam」の心満たされるような穏やかな音楽は、この作品の白眉。「クララ」の音型が含まれ、ピアノ・ソナタ第2番~フィナーレの叙情的な第2主題も用いられている。まるでレチタティーヴォのように語るようなチェロの旋律―僕には「暖炉で温まっている光景」を思わせる。ブリッジでは再び第1楽章のテーマが用いられ、そのまま第3楽章へ突入する。ダンスのように躍動的なチェロとオーケストラ。独奏チェロには高度が技巧が求められているように感じられる―テーマが再現する直前の、チェロの高度なパッセージによるアインガングを聞くと特にそう思う―。カデンツァを経たのち、テンポアップしてコーダへ向かう。ピアノ協奏曲でのフィナーレの場合と同様、ソロは最後の最後まで休みを与えられず弾き抜くこととなる。
ヨアヒムのためにシューマン自身が編曲したヴァイオリン協奏曲版。
クレーメルは以前ショスタコーヴィチ編曲版を小澤征爾と録音していた。
ブラームス/ピアノ協奏曲第2番~独奏チェロが活躍する第3楽章を。
もちろんシェヴリンがソロを受け持つ。ノーブルな音色だ。
Richard Klemm編曲/4台のチェロによるシューマン/チェロ協奏曲。
違和感は少なく、いかに中低域に沿った音楽かがわかる―。
2曲目は「交響曲第4番ニ短調Op.120(1851年改訂版)」。「初稿版」(1841)については、以前のブログで取り上げた―初演時の不評のため10年間封印した交響曲が、改訂を施され再び日の目を見ることとなる―。さすがに改訂稿ともなると重心が低くなり、俄然安定感が増す。響きの厚みが一聴してすぐに分かる。両端楽章での提示部の繰り返しも充実感の理由の1つだろう。初稿版よりも全体の統一性に重きが置かれ、シューマン自身も満足のゆく改訂となったようだ。当初は「交響的幻想曲」と呼んでいたという。愛着が感じられる。
ライナーノーツには、ブラームスが初稿版を高く評価したことに触れられている―彼はシューマン自身の「最初の着想は常に最善であり、最も自然である」との言葉通りに判断したのだろうか―。同時に改訂版の音の鈍重さをデュッセルドルフのオーケストラのせいにしていることが示されている(19世紀当時のオケはプロばかりではなく、優秀なアマチュア奏者が参加しているのが普通だったようである)。しかし、状況を織り込み済みでシューマンが改訂を試みたのでは?と綴られており、素晴らしい見識だと感じた次第である。
この曲を語る際に欠かせないのは、フルトヴェングラー/BPO盤である。録音の質も良く、フルヴェンの才能が随所で発揮されている。「シューマンを感じるか」というとどうだろうか―少なくとも、芸術形態の「完成形」を見たような気持ちになる。シューマン・ルネサンスに貢献したアーノンクールが室内オケのCOEと初稿を録音したのに対して、改訂版をベルリン・フィルと録音したのは興味深い(ちなみにブラームス全4曲とブルックナー第8番もBPOと収録している)。量感の違いは歴然としていて「成長した姿」「ライフステージが上がった」印象がある。
このホリガー盤はオケを変えている訳ではないから、あからさまに違うわけじゃない。でも充実した響きが聞かれるのも事実だ。ストロングな印象を受ける。第1楽章主部に入ると、なかなかのテンポで突き進むのが爽快だ。逞しくなっているのに俊敏なのだ。展開部のミニマル的な音楽も芯が通っている。この「繰り返し」が作曲上の欠点ではなく、「感情のチャージ」になっていることに気づく―。全体の設計上必要なのだ。何一つ無駄なことはない。
第2楽章「Romanze. Ziemlich langsam」の親密な雰囲気も良い―これなら当初初稿版に予定されていたという「ギター」はいらないだろう。
当盤音源による第1楽章&第2楽章。しなやかさを感じる。
第3楽章「Scherzo. lebhaft」の重厚な推進力。そして例の「ブリッジ」を迎える。第4楽章に繋がるこのブリッジを、例えばチェリビダッケはあからさまに強調する―まるでブルックナーであるかのように。録音では「掛け声」すら響き、かなりの重要ポイントとして据えていたのだろう―。ホリガー盤はそれほど極端ではなく、自然体の演奏だ。「夜明け」を感じる音楽―徐々に太陽が昇ってくる。強烈な光が差し込む。カタルシスを迎え、全てが動き始める―。第4楽章主部の疾駆感は素晴らしい。提示部をリピートしてくれるのも嬉しい。ブラスセクションの充実ぶりにも気づく―バロック的に吹き鳴らすのではなく、微細なグラデーションが与えられていることに気づくのだ(この特徴は第1楽章でも感じられたことだった)。コーダの加速も申し分ない。フルヴェンは「究めてしまった」が、そこまでしなくても十分―あのアッチェレランドは彼の専売特許なのだから―。音楽的に何の問題も感じない。後期作品ながらオプシミティックに終わる素敵な曲である。
フルトヴェングラー/BPOによる第3楽章ブリッジ~第4楽章。独特の揺らぎ
がシューマン独自のフレージングと見事に共鳴する。怒涛のコーダは圧巻。
第1楽章。シューマン自身による4手ピアノ版。交響曲を家庭で楽しむために
このような編曲が当時は頻繁になされていた。違和感が不思議とない。
カスパー・ダ―ヴィト・フリードリヒ(1774-1840)/「海辺の月の出」(1822)