個性派ピアニスト、イーヴォ・ポゴレリチによる珠玉のブラームス。

実に愛すべきディスクだ。一体何度聴いたことだろう―。

「レコードがすり減るほど…」という言葉があるが、幸いなことに、今はその心配はない。


 

 

 

 

 

1990年初めの録音―それは彼の録音の中で、特筆すべきレコーディングが生み出された時期だと思う。スカルラッティの奇跡的録音、ハイドンのクリスタルな叙情性、悪魔的なリスト&スクリャービン、モーツァルトの意外なロマン性など…。

 

D.スカルラッティ/ソナタ ニ短調 K.9。粒のそろったピアニズム。工芸品の

ような美しさだ。舘野泉の「ポゴレリチは好きではないが、彼のスカルラッティ

は凄い」との率直な意見を思い出す―。

 

ハイドン/ピアノ・ソナタ第46番変イ長調~第2楽章「Adagio」。13分かけ

てじっくりと奏でる。静かな湖面の輝き―そんな印象を与える素敵な演奏だ。

 

スクリャービン/ピアノ・ソナタ第2番嬰ト短調~第2楽章「Presto」。ショパン

の同曲との関連が指摘されるこのドス黒い音楽は彼に合ってる気がする。


モーツァルト/ピアノ・ソナタ第5番ト長調 K.283~第3楽章「Presto」。

強靭な指から奏でられるロココ風の響き―。中間部に現れる激変に注目。

ポゴレリチの凄さはこんな古典作品によく現れる気がする。

 

 

でも僕はやはりこのブラームスが一番だ。全編スローテンポを採用。ただアファナシエフのようにではなく、凄まじい情念と絶望感との対比を極端なテンポ変化であぶり出す場面も多い。これほど「感情的」な演奏も珍しい。録音スタッフはどんな気持ちで聞いていたのだろう―と要らぬ想像をしてしまうほどだ。

 

 

 

 

1曲目は「8つのピアノ小品集Op.76」から、第1番「カプリッチョ」嬰ヘ短調。

クララ・シューマンの誕生日に贈られたとされるこの曲を、僕はこの演奏で初めて知った。だから、他のピアニストの演奏を聞いた時、驚きと違和感を覚えたのだ。他のピアニストは4分台で弾き、「奇想曲」というタイトルにふさわしいムーブマンを示していたと思うが、ポゴレリチは「un poco agitato」の指示にもかかわらず、なんと6分もかけて漆黒の感情を背後に感じさせるような異端の演奏を繰り広げる。僕にとっては、このテンポがこの曲に相応しいものとして刷り込まれてしまっている。

「呪縛」に近いかもしれない―。

 

最晩年のグールドによる「4つのバラードOp.10」~第4番ロ長調。

分散和音とともに弾かれるメロディとの関連が指摘されている。

 

「8つのピアノ小品集Op.76」~第7番「間奏曲」イ短調。コロリオフの演奏。

「ショパン/ノクターン第15番ヘ短調」との関連を指摘する声も聞かれる。

 

「ショパン/ノクターン第15番」をアラウの高貴な佇まいを感じさせる演奏で。

6分弱のタイムで噛みしめるように弾く。こんなゆったり目の演奏が好みだ。

 

 

 

 

2曲目は「6つのピアノ小品集Op.118」~第2曲「間奏曲」イ長調。

ブラームスの後期ピアノ作品の中では最も有名かもしれない。「Andante teneramente」の表記通り、とても優しく叙情的だ―。「家庭的なあたたかさ」に近い感覚かもしれない(僕の理想に過ぎないが)。さすが、クララに献呈されているだけある―。音そのものの美しさは極めて魅力的でありながら、音の強度は強く、様々な情感を思わせる。左手の低音域の重量感も控えめながら発揮されている(最高潮を迎えるのは次の曲からだろう)。そして破格の9分に迫る演奏時間でじっくりと歌う―。

 

思い出したのだが―実はポゴレリチが「壊れてしまった」時期の演奏を聞いたことがある。その時に、この曲を何と16分以上かけて演奏していたのだ。

一音一音がバラバラになってしまい、リスナーも今、曲のどの辺りなのか分からなくなってしまうほどの「異演」(怪演)だった。

 

2007年ライヴ。プライベート録音のため、音割れが。それ以上に11分かけての

この演奏は、張り詰めた緊張感で途中で息苦しくなるほどだ―。

 

 

 

 

3曲目は「2つのラプソディOp.79」。

ブラームスのかつての弟子エリーザベト・フォン・シュトックハウゼンに献呈されたこの作品は、2曲とも激烈な表情で満ちている。「ラプソディ」の由来は多くの音楽の起源と同様、古代ギリシャにあり、吟遊詩人ホメロスの叙事詩との関わりでそう呼ばれるようになったらしい。ピアノ曲ではリスト/ハンガリー狂詩曲(19曲もある)がよく知られている。

 

ガーシュウィン/ラプソディ・イン・ブルー。4手ピアノ版のはずだが…。

 

ラフマニノフ/パガニーニの主題による狂詩曲~第18変奏。

トリフォノフの叙情的な演奏で―。

 


 

「第1番ロ短調」は実に強烈だ―。

ポゴレリチの強靭なテクニックが十二分に発揮される。「天空を駆け巡る若きヨハネス」と形容されるにふさわしいダイナミクス豊かな音楽だ。なんて激烈な音楽なのだろう―。左手の強力さは比類ない。テンポの緩急も凄まじい。うっとりと歌うかと思いきや、次の瞬間剣を抜き、切り裂いているのだ―。リピートを敢行しているため、10分を超える。ところで中間部は「さくらさくら」と言ってるように聞こえるのは僕だけだろうか―むしろグリーグ/「ペールギュント」~「オーゼの死」と似ている、というべきか―。

 

「オーゼの死」。作曲家自身のピアノ編曲版による演奏。

 

 

 

「第2番ト短調」はどうやらピアノ学習者によく知られている曲らしい―こんな風に弾いたら、先生は何というのだろう。僕にはこの曲が悩ましく聞こえる。第1番よりも内向的な激烈さを感じる。「どうしてわかってくれないの?」と鬱々としているイメージが強い。前曲以上に「やり切れない」感情が沸騰している風なのだ。特に再現部~コーダにかけての場面は胸が痛くなるほど痛烈だ。ちなみにポゴレリチの吐息もよく聞こえる。

 

ここはご本人の演奏で―。この曲のこんな演奏はきっと彼からしか聴けない。

 

 

 

 

最後の4曲目は「3つの間奏曲Op.117」。

あらゆるピアノ作品の中で最高位にランクされる曲だ―。

「シューベルト/3つのピアノ曲 D946」と並ぶくらい好きだ。ただシューベルトの方は終曲が前2曲に比べ若干聞き劣りするのが残念だが、このブラームス/Op.117は完璧だ―。3曲すべてが愛おしい。「これらの曲があれば、あとは何もいらない」―とまではゆかないが。

 

音楽もそうだが「間奏曲」というタイトルもいい。ピアノ小品にこのタイトルをつけたのはブラームスが最初だった可能性がある(もしかするとシューマンかも)。元々は規模の大きな楽曲の中で、場面転換の際に挿入される小曲であったり、ある楽曲とある楽曲の橋渡し的な役割を果たすような地味な曲であっただろう。そんな目立たない橋渡し的存在が「メインキャラクター」となる、それもとびきり美しく、悲しみを体現する存在へ―。

 

そういえば、かのグールドも「間奏曲」ばかりを集めたアルバムを作っていた。僕も好きでよく聞いていたのを思い出した。彼には珍しく全編ロマンティックで、ペダルも多用していたように記憶している。ジャケットの俯いた若きグールドの憂いある表情も魅力的でだった―。

 

全10曲収録。オルタナティヴ版としてOp.118-2の別ヴァージョンもあった。

 

シューベルト/3つのピアノ曲 D946~第2番変ホ長調。ソコロフの演奏で―。

 

 

 

ところで僕は「黄昏時」が好きである。

昼とも夜ともつかない曖昧な時間、どちらにも属さない固有の時間―まさに「間」(あいだ)なのだ。

「間」は「魔」とも繋がる―。

「闇」への前奏曲イコール「間奏曲」なのだ。

 

ブラームスはこの曲集を「わが心の痛みへの子守歌」と呼び、批評家エドゥアルド・ハンスリックは「モノローグ」と表現し、「徹底的に個人的で主観的な性格」の作品だと述べている―。

 

「第1番変ホ長調」。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744-1803)が編纂した古いスコットランドのバラードの一節がスコアに記されている―。

 

Balow, my babe, lie still and sleep!
It grieves me sore to see thee weep.

 

まさに「苦悩の子守歌」にふさわしい音楽が奏でられるのだが、特に悩ましい表情を見せる中間部ではその感を強くする―。

過去のブログでも書いたが、真の意味で癒しの音楽だと思う。後半再現されるテーマはますます輝きを増し、僕たちを優しく包み込んでくれる―。惜しむらくは、テンポが理想よりわずかに速いことだ(5分半)。アファナシエフ盤(1992)のような7分台の演奏が僕には理想的なテンポだ。

 

せっかくなので全曲盤を。第3番の終わりもこの人ならではの厭世感で

満ちている。このCDは1992年にレコード・アカデミー賞を受賞している。

 

 

ポール・クレンゲル(1854-1935)編曲によるOp.117-1。

 

こちらは間奏曲ホ長調Op.116-4。編曲者のクレンゲルはゲヴァントハウス

の首席チェロ奏者の兄だそうだ。

 

 

 

「第2番変ロ短調」。

やるせない悲しみはここでも続いている―。

雨に濡れた悲しい表情を思い浮かべる。

中間部で、かつての明るく穏やかだった日々が思い出される―。

でも否応なく現実へ引き戻してゆくのだ。

コーダは「音の痛み」であり、心に突き刺さる―。


ちなみにこの曲、ソコロフのお気に入りのようで、ライヴのアンコールでよく取り上げていたことを思い出す。最新盤のアルバムでも、アンコールで演奏していた。

 

 

 

2019年のライヴ。このアルバムは秋ごろブログで取り上げたい―。

 

 

 

「第3番嬰ハ短調」では8分かけて(あのアファナシエフよりも長い)苦悩から絶望への深化を残酷に描きつくす―。

極めて厭世的な音楽だ。テンポの僅かな「ため」が実に効く。

ダークサイドに引き込む力がある演奏だ。

ポゴレリチ演奏の常、かもしれないが―テーマの再現時にはますます表情が濃厚になって帰ってくる。

テンポをますます緩めて、ひたひたと迫ってくるような音楽に出会う時―そしてコーダでそのダークな感情が頂点に達するときに―ブルーノ・ワルターが「大地の歌」の感想で述べたことをつい思い出してしまうような、ある種「危険」な演奏と言えるかもしれない―。

 

試聴の方は、自己責任でどうぞ―。

 

 

 

このレコーディングの数年後、ポゴレリチは生涯最大の試練に打ちのめされることとなる―。

 

僕はこの演奏を聞くと無性に、「ラフロイグ」を飲みたくなる。ロックで―。

 

 

 


 

1995年録音。ポゴレリチの最後のDG録音となったショパン/スケルツォ集。

その第1番ロ短調。やるせなさと自虐にも聞こえてしまい、居たたまれなくなる。