興味をそそられるアルバムだ―。ブルックナー/交響曲第9番ニ短調(全3楽章版/1894)と武満徹/笙とオーケストラのための「セレモニアル-An Autumn Ode-」(1992).との独創的なコンビネーションを楽しめる演奏―。佐渡裕/トーンキュンストラーO、宮田まゆみ(笙)。

2017年、ウィーン・ムジークフェラインザールでのライヴ録音。SACD版である。

 

 

 

 

今や、ブルックナー/第9番の演奏には複数の選択肢がある―。

従来通り3楽章の「完成された」交響曲として扱うか、フィナーレを補う楽曲を用意するか、補筆完成されたフィナーレを採用するか―のいずれかだ。

往年の指揮者たちは当然前者だった。中には(ブルックナーの言葉通り?)「テ・デウム」をフィナーレとして演奏した例もあったかもしれない(そうなるとベートーヴェン/第9番と形式的に酷似することになる)。最近はラトル/BPO盤など後者のケースも増えてきたように感じられる。

マーラー/第10番といい勝負だろうか(そちらの方が演奏頻度が上かも)。

 

僕が最初に聞いた演奏は、シューリヒト盤だったと思うが(評論家U氏の影響だろう)、あまりにも飄々としていて捉えどころがない感じがしていた(同曲異演盤を聞き続けてその印象は変わるが)。その後に聞いたジュリーニ/VPO盤で親しみが持てたのが正直なところだ。

レコード・アカデミー賞にも選ばれたヴァント/BPO盤は図書館から借りて聞いたことがあるが、数あるNDR盤での演奏よりもまろやかな印象を持った。ただ、どちらかというとオケの存在感が最も強かった気がしている。シノーポリ盤は所々神経質でシャープな解釈が聞かれるが、ドレスデンの豊穣な響きが作用してか、ふさわしいスケール感があり、なかなか魅力的だった。フルトヴェングラー/BPO盤は録音の悪さを超えて怒涛の情感が迫ってくる―。スケルツォなどは迫力が凄い。モノラル録音がその傾向を助長(増幅)しているようにも感じられる。

ここ数年前まで所有していたチェリビダッケ/MPO盤(EMIのBOX盤)は極大なスケール感だが、大きすぎて俯瞰できない印象―。(ラインハルト曰く)「宇宙を手に入れる」と見えてくるのかもしれないが、僕の手はそこまで長くも大きくもない―。両端楽章がそれぞれ30分を優に超える最長演奏時間を誇るが、特に第3楽章は美しさを極める―。彼がもしマーラー/第9番のアダージョを演奏したらこんな風になるかもしれない。その後に収録されてるリハーサルも面白かった。決してこれを「第4楽章」には据えられないだろうけど―。

このように、ずっと「3楽章版」で聞いてきたせいか、あまりにも第3楽章に「告別」の響きを聞き取ってしまってるせいなのかどうかは知らないが、僕的に「シンパシー」を感じるブル9の姿というのは、やはり「未完成」の姿なのである。

 

 

 

 

 

それでも、補筆完成版で興味深かった演奏は、意外にも(失礼)NAXOS盤のこのCDである。

 

 

当時としての最新の改訂版を用いたこの演奏は、なかなかに聞きものであった。この作品を「全4楽章」と据えた場合、各楽章間のバランスが気になるが、このヴィルトナー盤ではフィナーレと第1楽章とのバランスを保つように全体を設計しているのが演奏タイムでわかる。

(取り上げる指揮者は大概そのような傾向を示すことが多いようだ)

 

フル音源。82分。なかなかの名演―。第4楽章での、高らかに響くコラール

は印象的。何気に「フリードリヒ」の絵画をジャケットにするセンスも良い。

 

 

現在補筆完成されたフィナーレは少なくとも7種類ある。マーラー10番より多い数だ。

ちなみに、上記のヴァージョン「SMPC完成版」 (1996)をさらに改訂した「コールス完成版」(2011)がラトル/BPOによって演奏&録音されている。最新の調査によって復元されたフーガ箇所が加えられ、コーダも修正がなされている、とのこと。「SMPCチーム」(サマーレ、マッツーカ、フィリップス、コールスの頭文字)によると、このような補筆&復元作業を形成外科や法医学、病理学、美術の分野における再現&復元作業と同列のものにみなしているとコメントしている。それはそれで興味深い視点だと思う―。

 

今回のアルバムでライナーノーツを執筆しているヴァルター・ヴァイトリンガーによると、フィナーレの作曲は思ったより進んでおり、172小節が完全に作曲され、200小節以上にオーケストレーションが施され、スケッチは500小節以上存在しているという状況。そして厄介なことに完成されたスコアが遺品として30以上に分割されてしまったため、現在においても行方知れずの断片があるそうだ。この事実は確かに「補筆完成」の意欲を掻き立てるものになるかもしれない、と思うし、その素材を博物館送りにするのは惜しい、何とかして音化したいという気持ちも分からないではない。ただ、リスナーとして自然とあの第3楽章の後続の楽章として据えられる時が果たして来るのだろうか―と思うと、なかなか難しいのでは、と思ってしまう。

 

アイネム/「ブルックナー・ダイアローグ」Op.39。こちらはフィナーレの素材

を用いたオーケストラ作品。これはこれで興味深いアプローチだと思う。

ブルックナーで名演を残したマタチッチ/VSOによるライヴ盤。

 

 

 

 

さて、この佐渡裕による演奏はどうか―。前述の3つの選択のうちの、2番目の選択をしたことになるが、その選曲が素晴らしいのだ―。なんとブルックナー(1824-96)とおよそ100年の隔たりのある日本の現代作曲家武満徹(1930-96)の作品を持ってきたのだ―。西洋の「オルガン的」な響きを彷彿とさせるブルックナー作品に対して、雅楽の伝統楽器「笙」をソロ楽器としてフィーチャーした武満作品を持ってくるセンスが素晴らしすぎる。これがこのCDを購入した理由である―。「笙」の響きは独特で、唯一無二だ。確かに「オルガン的」といえなくはないが、あのまばゆい強烈な色彩感とは異なり、穏やかで淡い神秘性を孕み、いにしえの世界へといざなってくれるイメージが強い。ある意味、神的かつ儀礼的だ―「東洋的」な視点で。故に「西洋的」なブルックナーと反転する世界観となる。そのギャップが面白い。

 

その形を、翼を立てて休んでいる「鳳凰」(「霊鳥」の類いで「フェニックス」とは異なるという)に見立てられ、「鳳笙」(ほうしょう)とも呼ばれることもあるこの楽器、音の発生原理がパイプオルガンとほぼ同じらしく(そういえば先端が似てるような)、どうりで似たような響きだな、と思っていたが、この摩訶不思議な音色に惹かれた海外の現代作曲家も多く、ジョン・ケージをはじめとして数々の作品が作曲されている。

下記のリンクはヘルムート・ラッヘンマン/オペラ「マッチ売りの少女」(1997)からのハイライト。全編特殊奏法で満ちている音楽だが、終焉の場面では何と「笙」が用いられる。少女が昇天してゆくシーンだ。初演には宮田まゆみが演奏したという(ここでもかな?)。

 

 

 

お笑い芸人ながら笙も演奏できるカニササレアヤコが「ナウシカ」に挑戦。

 

イギリスの草原にて―。馬はピュアで正直である。

 

 

細川敏夫/「ランドスケープ」Ⅴ(1993)。笙+SQの編成。静寂が際立つ。

 

 

同じような例としては、以前YouTubeで観たライヴで、クルレンツィス/SWRがブル9と連続して、リゲティ/「ロンターノ」を演奏していたのを思い出した―。とても不思議な感覚だったのを覚えている。

 

動画内のリンクでプログラム全曲が視聴できる。

 

 

 

 

佐渡裕によるこのブルックナーは全体のバランスが良いと思う―。

演奏タイムは24分/11分/24分。情感豊かだが、溺れることがない。

歩みはスムーズでスマート。加減速の塩梅が巧みだ。スケール感にも不足しない。

人知を超えるような感覚を与える演奏ではないが、そういう意味でも現実的でバランス感覚の優れた演奏なのだ。オーストリアの実力あるオケの強みもあるだろう。

VPOのような個性は求められないが、要所要所でコクのある響きを聞かせる。

ロケーションの場所の素晴らしさは言うまでもない。

 

「宇宙の創世」のような第1楽章が始まって1つの頂点に達した後、しばらくすると歌謡的なテーマが奏でられる。この部分が僕は好きなのだが、気持ちがこもっていても重くならない。

何度か現れるたびに陶然とさせられる―。言葉に形容できない優しさ、慈しみ深さがある。

後半の終わり、苦みを伴うクライマックスの後から、コーダに突入するまでのフレーズも好きだ。高揚感が断ち切られ、静寂に包まれる。木管が慎ましく歌い、金管がコラールを奏でる。まさに「神聖」な時間だ―。コーダの激しさにも胸を打たれる。

 

第2楽章は巨人の歩みのような強引な迫力感に、時には恐怖感を感じるほどの異常ともいえる音楽。ブルックナーの書いたスケルツォの中でも異様な部類に入るだろう―インパクトは満点だが。打って変わって中間部のトリオ(嬰ヘ長調)はメンデルスゾーンをかくやと思わせるような゙天衣無縫な音楽。このコントラストも不思議だ。

 

シノーポリ/シュターツカペレ・ドレスデンによる第2楽章。あらゆる声部が

クローズアップされて聞こえる気がする。彼による解剖所見は如何に。

 

 

第3楽章「アダージョ」(ホ長調)は「終末―達成」のような印象の音楽―。うねるように上昇するフレーズに心を持っていかれてしまう。所々コラールを思わせる、透明感のあるフレーズが頻出する。第3楽章全体がこの世ならざる気配で満ち満ちている。展開部での低弦セクションや金管の深いえぐり、高弦セクションでのハイポジションのフレージングなど、意味深く、慰安にあふれている。それと相反するような苦痛や苦悩が徐々に姿を現し、飲み込まれるほど増幅された瞬間、絶頂に達する箇所は実に壮絶だ―。まるでマーラー/第10番のクライマックスの先駆的フレーズともいえよう。

 

マーラー/交響曲第10番~「アダージョ」。バーンスタイン/VPOのライヴ。

彼を意識して録音を躊躇していたブーレーズが彼の死後DGに残した全集

でも第10番はアダージョのみであったのが興味深い。例の「カタストロフィ」

は18分以降に訪れるが、レニーにしては意外とあっさりしている。70年代

の録音であることも関係しているのかもしれない。

 

 

この楽章では特に「神の平安」と「神の不在」が入れ替わり立ち代わりしている感があって、演奏家もリスナーも翻弄されることとなる。いや、評論家や音楽学者も、というべきか―。

音楽学者ハンス・フェルディナント・レートリヒが「神の存在を体験しつつも、永遠なる神の世界の深淵を見下ろしている魂の苦悩。神の存在を間近で感じて得られる恍惚とむき出しの恐怖。疑いという葛藤の中で人間の心情が口を開けている空虚。これらが、ブルックナーの最後の作品の音楽における原初的な要素である」と詩的に表現した内容が当てはまる気がする。

幸いなことに、コーダは安らぎに満ちている。過去の自作品の引用が聞かれ、人生の総決算が平安のうちになされてゆく感じがする―。金管のビロードのような柔らかなフレーズで幕を閉じるのも印象的だ―それも束の間、「異質」の音が響いてくる。聴きようによっては「ノイジー」にも響くが、体全体が包み込まれる感覚があり、染み渡る感じもある。「笙」の音の凄さだ―。

 

 

その武満徹/「セレモニアル」は「笙」の響きで始まり―「笙」の響きで終わる。「晩秋」を思わせるオケの響きが途中から加わる。意外なほど官能的な響きだ―この時期の武満作品の特徴といえるかもしれない。

 

「ア・ストリング・アラウンド・オータム」(1989)。大岡信の英詩集「秋をたたむ紐」

がタイトルの由来だそうだ。「セレモニアル」に通じる官能性を感じる―。

ちなみにその詩は次の通り―。「Be simple: A String Around Autumn 

沈め 詠うな ただ黙して 秋景色をたたむ 紐となれ

 

 

艶やかな弦、たなびくハープ。「笙」の音を模倣するような木管。うねるような旋律も聞かれ、実に魅力的な作品だ―。「私が目指すのは、自分の力で響きをある目的に沿って動かしてやることではない。むしろ、もし可能ならば支配などせず、響きを自由にしておきたい。響きを自分の周りに集め、穏やかに漂わせておくだけでよい。車を運転するように、響きをあちこちに動かすのは人間が音によってできることの中でも、もっともひどいものである。」という作曲者の言葉は、この作品にも当てはまるように感じられる―。

 

色々な意味で「懐かしい」映像―。宮田まゆみ(笙)は客席通路から登場する。

小澤征爾/サイトウ・キネンO。初演時のライヴの可能性が高い。

 

 

佐渡裕がBPOに初登場した際のライヴ。オケの方が一枚上手な感あり。

 

佐渡裕というと僕はこの「シエナ」の印象が強い。甲子園を思い出してしまう。

 

2016年の「1万人の第九」のライヴ・ドキュメンタリー。この規模であれば

演奏の精度は論外になるような気がする。果たしてこれから同様のイベント

は可能なのだろうか―。「第九」の演奏意義も合わせて考えていきたい。

 

 

佐渡裕の師であるバーンスタインのブル9。レニーにとってブルックナーは

「鬼門」であったともいわれる。録音も僅かしか残されていない。

 

 

 

 

ブルックナーの「西洋」と武満徹の「東洋」との融和―。

プレーヤーのリピート機能を使えば、「セレモニアル」の「笙」の響きが終わった途端、ベートーヴェンの「第九」のオマージュのような、あの茫漠とした冒頭が再び聞こえてくる―。

「永遠回帰」ではないが、似たような音感覚に浸るのも一興かもしれない。

 

 

アルバムのブックレットにはこう記されている―。

 

いつの世も変わらないのは、人は皆その才能や資質如何によらず、死ぬ運命にあるということです。事実、死の前では私たちの誰もが平等です」 ― Yutaka Sado