相生鉄道公園について最近ちらほら書いていますが、このたび地元の津別新報社へメッセージを寄せることになりまして、とりあえず叩き台の原稿をつくりました。
記者さんからは「どれだけ相生線を愛していたかを書いてください」と言われたため、少年時代の私がいかに鉄チャンになったかから書き出していますが、暇つぶしにでも読んでください。



相生線の歴史遺産を守ろう
東達美  石田 哲也

 私は昨年の夏、28年ぶりに津別へと戻ってきました。私の少年時代、父方の祖父は竹内木材に、父は松浦木材に勤めており、当時は丸玉産業やそのほか多くの社宅が建ち並ぶ旭町に住んでいました。
 実家には車が無かったので、親戚の住む美幌や北見に出かけるときはもっぱらバスか列車での移動でしたが、バスに酔いやすい私にとっては列車ででかけるとなると嬉しくてたまらないものでした。
 北見に出かけるときは母方の祖父の家に用事があるときでしたが、こちらの祖父は国鉄に勤めており、買い物には北見駅裏にあった鉄道購買部へ行ったり、また何度かは祖父が仕事場に連れて行ってくれた記憶もあり、鉄道好きになる要素はまわりにたくさんあったのだと思います。

 そんな私が小学校高学年になる頃は、いくらかの小遣いをもち、友達を誘って相生線の列車に乗りに行くことが趣味になっていました。おぼろげな記憶ですが津別駅から小人料金で本岐駅まで60円、北見相生駅まで120円、美幌駅までは220円くらいではなかったかと思います。
 まず友達を誘いに行き、何人か集まると津別駅へ移動する。たいがいすぐに列車の便は無いので、駅舎内や駅前の日通あたりを見てまわったり、駅の売店のように隣接していた福岡商店に買い物に行ったりして時間をつぶしました。
 みんなの持つ小遣い次第で行き先を決めて切符を買う。福岡商店で買った500mlの瓶入りファンタあたりを持ち込み乗車すると、当時の列車には窓の下に栓抜きが付いていたのであとはそれを飲みながら乗務員室を眺めたり、ときには車掌さんが話し相手をしてくれたり、車窓の風景を楽しみながらその日その日の目的地へと到着しました。

 本岐駅までの日は駅で時間をもてあますことが多く、それでも駅前で営業している商店があったのでそのあたりをぶらぶらして過ごしました。北見相生駅までの日は終点で列車の折り返しまで時間が短く、営業していたかさだかではないですがやはり駅前に商店があって、いつも軒先のコインゲーム機で遊んだ記憶があります。まれにリッチなときには美幌駅までのコースで、そこには本物の売店がありました。瓶入りのラムネを買ってクッシーの像の前で飲み干し、いま思えばとんでもないことですがアスファルトで瓶を割ってビー玉を取り出したり、相生線で見ることも無い特急列車が見られることも楽しみでした。

 そんな通勤でも通学でもなくガキンチョどもが遊び場にしていた相生線ですが、全国の国鉄路線の中でも有数の赤字路線となっており、私が中学校へ進学した頃には廃止が決定され、2年生になる春の日、それまでの相生線ではありえない大編成のさよなら列車が運行されたのです。
 そしてその年の夏、まだ旧駅舎は残り、レールもほとんど剥がされていないうちに、私は家の事情で北見へと引っ越しました。高校時代は冬場の通学に北見駅から東相内駅を往復し、高校を卒業すると就職で北海道をあとにして全国各地で仕事をしたり旅行をしたりしてきました。

 長く地元を離れるうちに少年は青年に、そして中年になって戻ってきました。
 いつしか津別駅のあたりは住宅地となり、上美幌・活汲・本岐の各駅のあたりも面影が薄れ、高校前などもともと駅舎すら無かったところは乗降場がどこにあったのかすらわかりにくくなり、柏町と東達美の境にあった跨線橋も埋めたてられてしまいました。
 そして北見相生駅は、まさか道の駅の一区画・相生鉄道公園として駅舎、鉄道車両が保存されることになるとは思ってもみなかったことです。インターネットで調べていくうち、鉄道公園や少し阿寒寄りのシゲチャンランドが道内外からの個人観光客を集めるスポットとなっていることを知りました。

 いま残念なことに、鉄道公園の諸施設はしばらく整備されなくなりました。
 私は昨年引っ越してきた後、鉄道公園を管理する津別町の部署に、車両の塗装でも何でも整備する機会があればボランティアとして参加させてくださいとお願いにうかがいました。
 それが全く連絡も無いので先日あらためてお願いに行くと、津別町では来年度に鉄道車両の撤去も含め、鉄道公園の今後のありかたについて検討を始めることになりましたという話が返ってきました。
 駅舎でも車両でも、展示するとなれば外部の塗装、内部の清掃と費用がかかります。加えて最大のネックは国鉄時代の車両には、当時問題とされなかった、発癌性が指摘されるアスベストが使用されているという点にあるようです。

 アスベスト(石綿)というのは、かつて断熱・防音効果がある素材として広く使われていました。多くの人が触れた機会のある場所では理科実験の道具に使われていたり、家や学校、工場など建築物の素材として使われていました。
 鉄道車両ではパイプの断熱材や、エンジン取り付け部、内張りと外板の間、床と暖房機の間、あるいは暖房機と座席の間などに、また比較的新しい世代の車両ではブレーキシューとしても使われていたと元国鉄職員の方がブログで述べています。
 そして厚生労働省労働基準局より各都道府県労働局基準部あてに記された法令・通達では、アスベストを含有したままの鉄道車両スクラップを、鉄原料として販売するなどの譲渡または提供の禁止を徹底するようもとめています。
 つまり津別町があれらの鉄道車両を、そのままの形であれ鉄屑としてであれ他者に譲渡するためには、費用をかけて専門の解体業者にアスベストを除去させたうえでなければ不可能だということになります。

 それでは逆に歴史遺産として保存することはできないのでしょうか。
 網走管内では遠軽町丸瀬布の蒸気機関車、北海道内では三笠市や小樽市が旧国鉄のあらゆる鉄道車両を保存、展示しています。北海道外まで目を向ければ埼玉県や愛知県ではJR各社が鉄道資料館を運営しています。
 ブレーキシューに使われているとなれば、その車両を走行させる場合いくらか磨耗したアスベストの粉塵が巻き散らかされるのでしょうが、旧式車両の静態保存となれば保存、展示ができないわけではないと考えられるのです。

 北見市に、ふるさと銀河線沿線応援ネットワークという団体があります。以前はふるさと銀河線を残すことを目的に活動してきた団体ですが、現在は沿線市町村の振興と公共交通確保のための活動を継続されています。
 そしてこの団体は北見市に対し、オホーツク近代化歴史街区構想というものを提案しています。古く北光社移民団や屯田兵大隊、ハッカ記念館に玉ねぎ倉庫群、それにオホーツク開発の礎となった鉄道路線。それらの近代化遺産に目を向け、市民会館とハッカ記念館の間に建つ旧ふるさと銀河線の検修庫周辺をオホーツク近代化歴史街区として整備するとしています。

 鉄道歴史資料・博物館を設置し、国鉄OBや林野OBの支援を受け網走管内にあったあらゆる鉄道の歴史を網羅する。鉄道というテーマから近代化の歴史を伝えるとともに、管内各所の鉄道遺産を結びつける拠点となり、資料・博物館に足を運ぶことによって、目で見たものを知識化し体系化できる施設にする。
 またオホーツク体験観光情報プラザを設置し、こちらは廃線鉄路や産業遺産、自然環境、農業体験、食体験などさまざまなテーマに応じた旅行プランの企画提案や受け入れ先手配などのサービスを提供するとしています。

 この団体の取り組みを説明したいのは、北海道民の多くが隣の県、隣の管内、隣の町について知らないことが多すぎるという実感からです。
 津別町だけでは限界がありますが、周辺自治体とこうしたネットワークを構築し、その一員となることで町の魅力はどんどん膨らむと思っています。