道元著 正法眼蔵 現代語超意訳
第一巻
第一話
弁道話
仏道を体得した諸先輩が、誰しも、釈迦の教えを体験するための手段として
実践したことがある。それは自由自在の境涯とか至福の境地とか言われるもので
あるが、元来言葉で表現できないものである。それゆえ自律神経のバランスを体得
するということであり、その実践行為が座禅である。
自立神経のバランスは本来、生まれたときの赤ん坊のときから、人に備わった
ものであるが、成長するにつれ、失うものだから、成長につれて敢えて実践
しなければ取り戻すことのできないものである。
自分(道元)は釈迦から伝わる伝承を、その系譜である天童如浄禅師から伝授された。
この自由自在の境涯といいい、至福の境地の体得という本来の仏道を、日本の求道者
に教えることが、自分の本来の面目ではなかろうか。
釈迦からの伝承とは、二代目迦葉、・・・・・達磨、・・・・・天童如浄禅師、道元
につながる伝授のことである。
この系譜に伝わる教えは、香を焚いたり、礼拝したり、念仏を唱えることは
いっさい必要ない。自律神経のバランスを体得するために座禅することだけである。
自由自在の境涯といいい、至福の境地といわれる自立神経のバランスを獲得することは
たいへん難しいし、その認識も言葉では表現できないものである。しかし、実践すれば
人は自ずから体得するものである。つまり知識や思惟を超えて、背筋を伸ばし、座禅を
実践すれば良い。ひとたび座禅してみれば、交感神経、副交感神経のバランスを獲得し、
草木、土塀、石、瓦などいっさいが一体化し、思惟を超越した世界に到達する。
しかるに人はひとたび座禅を離れ、一歩歩けば自律神経のバランスを崩すものである。
しかし一生に一度でも座禅し、森羅万象と一体化した世界を味わえば、その効果を
忘れることはない。
釈迦が、この真理(言葉では表現できないところの自律神経のバランスは至福の
境涯である)を後継者として迦葉に伝えたエピソードがある。それは、釈迦が、
仏道とは何かと弟子たちに質問したときに、一人迦葉だけが言葉を用いずに、無言
の微笑みを返して答えたことによる。
なぜ座禅を真理体得(微笑みで表現される心身のバランスの体得)の手段として
強調するのかといえば、最も誰にでもできうる行為だからである。
背筋を伸ばして座るというのは、あの人もこの人も、横丁の熊さんも八つあんでも
できる基本的な行為である。
したがって熊さんも八つあんも、仏道の大先輩も、その境地に区別はない。どの人の
座禅も行為をしている間(自律神経のバランスを保っている間)というのは同じ
境地である。
さらに言えば、大先輩も、座禅を怠れば、その境地を失うのである。だから求道者
は、座禅を欠かしてはならないのである。
それゆえ、行為する肉体と精神とは一体のものであり、切り離してはいけない。
求道者たるものは、肉体による体験である座禅というものを実践しなければ
(自律神経のバランスという)至福の境涯を保持することはできない。
求道者が肉体により行為している間の生は至福の境涯であり、死は突然
やってくるものだから、それは生と一体であり、だから生死は至福の境涯であると
理解するべきなのである。
草の葉に門出せる身の木部山 雲に丘ある心地こそすれ 道元
第一巻
第一話
弁道話
仏道を体得した諸先輩が、誰しも、釈迦の教えを体験するための手段として
実践したことがある。それは自由自在の境涯とか至福の境地とか言われるもので
あるが、元来言葉で表現できないものである。それゆえ自律神経のバランスを体得
するということであり、その実践行為が座禅である。
自立神経のバランスは本来、生まれたときの赤ん坊のときから、人に備わった
ものであるが、成長するにつれ、失うものだから、成長につれて敢えて実践
しなければ取り戻すことのできないものである。
自分(道元)は釈迦から伝わる伝承を、その系譜である天童如浄禅師から伝授された。
この自由自在の境涯といいい、至福の境地の体得という本来の仏道を、日本の求道者
に教えることが、自分の本来の面目ではなかろうか。
釈迦からの伝承とは、二代目迦葉、・・・・・達磨、・・・・・天童如浄禅師、道元
につながる伝授のことである。
この系譜に伝わる教えは、香を焚いたり、礼拝したり、念仏を唱えることは
いっさい必要ない。自律神経のバランスを体得するために座禅することだけである。
自由自在の境涯といいい、至福の境地といわれる自立神経のバランスを獲得することは
たいへん難しいし、その認識も言葉では表現できないものである。しかし、実践すれば
人は自ずから体得するものである。つまり知識や思惟を超えて、背筋を伸ばし、座禅を
実践すれば良い。ひとたび座禅してみれば、交感神経、副交感神経のバランスを獲得し、
草木、土塀、石、瓦などいっさいが一体化し、思惟を超越した世界に到達する。
しかるに人はひとたび座禅を離れ、一歩歩けば自律神経のバランスを崩すものである。
しかし一生に一度でも座禅し、森羅万象と一体化した世界を味わえば、その効果を
忘れることはない。
釈迦が、この真理(言葉では表現できないところの自律神経のバランスは至福の
境涯である)を後継者として迦葉に伝えたエピソードがある。それは、釈迦が、
仏道とは何かと弟子たちに質問したときに、一人迦葉だけが言葉を用いずに、無言
の微笑みを返して答えたことによる。
なぜ座禅を真理体得(微笑みで表現される心身のバランスの体得)の手段として
強調するのかといえば、最も誰にでもできうる行為だからである。
背筋を伸ばして座るというのは、あの人もこの人も、横丁の熊さんも八つあんでも
できる基本的な行為である。
したがって熊さんも八つあんも、仏道の大先輩も、その境地に区別はない。どの人の
座禅も行為をしている間(自律神経のバランスを保っている間)というのは同じ
境地である。
さらに言えば、大先輩も、座禅を怠れば、その境地を失うのである。だから求道者
は、座禅を欠かしてはならないのである。
それゆえ、行為する肉体と精神とは一体のものであり、切り離してはいけない。
求道者たるものは、肉体による体験である座禅というものを実践しなければ
(自律神経のバランスという)至福の境涯を保持することはできない。
求道者が肉体により行為している間の生は至福の境涯であり、死は突然
やってくるものだから、それは生と一体であり、だから生死は至福の境涯であると
理解するべきなのである。
草の葉に門出せる身の木部山 雲に丘ある心地こそすれ 道元