久しぶりの更新です。
泊まりの出張やら、何やらが重なりまして…。
浪人の思い出も今回が最終回です、多分。
…二浪した結果、私が得たものは
自分における傾向と対策がわかったこと
その後の人生の転換ポイント
だと先日までに書きました。
その他としては、自分の生き方…って言えば大袈裟ですけど、なんかそんな感じの考え方、ですかね。
というのも、私は一浪が決まったとき、母にこう言われたんです。
「浪人したって言わないで。○○大学に行ったって他所では言いなさい。」
それは親戚や近所だけでなく、あまり訪れることのない美容室とか、そういう所でまで含まれました。
なんで?
一浪の時は、違和感を感じながらもスルーしていたことが、二浪ではスルーせずに気に留まりました。
「お母さんは、私が浪人したこと、恥ずかしいんだ」
そう思いました。「恥ずかしい」?
大学行かれんかったことが?
浪人したことが?
浪人した「私」が………?
「確かに二浪したことは、私が勉強できんとか、努力が足りんとか思われるもとかもしれないけど、でも、恥ずかしいんか? 他所の人に隠さなきゃいけないような、こそこそしなくちゃいけないようなことなのか…?」
「でも、二浪した事実は、今後一生消えることはないんよね。就職でも結婚でも必ずついてくる。その時も私はこれを隠すの? 恥ずかしい過去として隠すんか?」
「お母さんはともかく、自分で自分の人生を隠すようなことはイヤだ。私は大学受験を二回も失敗したアホかもしれんけど、でも、まるで犯罪でも犯したかのように隠すのはおかしいと思う…」
そんなことを考えてました。
そして、幸せって何だろうって。
浪人した私は、やっぱり現役合格した人がうらやましい。
…でも。
現役合格したすべての人が幸せかって言ったら、それは違う気がする。
第一志望じゃなくて、渋々選んだ大学…って人もゼロではないだろう。
第一志望だったとしても、思っていたような内容じゃなくてガッカリする人もいるかもしれない。
だとしたら。
浪人の今をどうするのかは、自分にかかっているのではないのか?
他人に隠すような過去では、「幸せ」ととらえることはできないのでは?
…などと考えてました。
だから、娘の浪人も、私は隠すまいと思っています。たとえ不合格でも、大学受験を闘った結果として、答えるのが大切ではないかと思っています。
私は現在、わざわざひけらかしはしませんが、経歴を答えるべき時には「二浪したんです」と返事しています。
いつか、この浪人の1年が娘にとって、よい意味を持つものとなり、かくさなくてもよいように…なってほしいです?