第Ⅰ部 1章 9.エジプト新王朝 シリア進出と信仰改革
では、第15回。
古代エジプト、新王朝のお話です。
こっからのエジプトはね、
「あー、そんなのいたねぇ・・・」なんて、
脳をくすぐるようなファラオが出てきます。
新王朝のポイントは3つ。
領土がシリアまで拡大したこと、
アマルナに一次遷都されたこと、
「海の民」の襲来で弱体化していったこと。
以上ですね。
先に言ってしまうのですけど、
新王朝のラメス2世というファラオは、
小アジアに興った民族ヒッタイトと
「世界最初の条約」といわれるカデシュ条約を結んだりしていまして、
(これ教科書に載ってないけどさ)
だーんだん、世界史っぽくなってきます。
まぁ、20世紀の世界大戦あたりになると、
もう条約やら協商やらがどっさりでうんざりなんだけどね(笑)
というわけで、それだけ国家も規模が大きくなって、
人々の文化レベルもあがってきた時代だったということなんでしょうか、
この新王朝。
<今日のまとめ>
約30もの数で興亡を繰り返した古代エジプト王朝。
そのうちの、第18~20王朝を新王国(前1567~前1085 都:テーベ、一時アマルナに)
としています。
新王朝は領土をシリアまで拡大、
ユーフラテス川中流域にも攻めこんで、
ミタンニ、カッシート、ヒッタイトなどの民族と戦いました。
エジプトは太陽神ラー、テーベの守護神アモンを中心とした神々を信奉する多神教たっだのですが、
前14世紀のアメンホテプ4世(イクナートン)は神官たちの台頭を嫌い、
思い切って首都をテーベからテル=エル=アマルナ(アマルナ)に移します。
そしてさらに従来の神々を否定し、
アトン(アテン)神を唯一神として崇拝するように強制したのでした。
こうしたファラオ・アメンホテプ4世による宗教改革は、
王権の強化が目的だった思われているんだけど、
結局は彼の死後にまたもとの体制へ逆戻り。
失敗だったと言ってしまう教科書もあるけどね、
彼による信仰の変革は、アマルナ美術と言われる写実的な美術を遺したのでした。
これは当時のエジプトからすれば特殊な美術。
だってあのみんなが横向いてる様式的な絵ばっか描いてたエジプト人が、
いきなり立体的な像(有名なのはアメンホテプ4世の王妃ネフェルティティの像)を作りはじめたわけだからね。
そんなこんながあった新王朝。
前13世紀にはラメス2世による隆盛期を迎えるんだけど、
民族系統不明「海の民」の攻撃によって弱体化の道を歩んでいきました。
ミタンニ、カッシート、ヒッタイトについては、
次回以降にまとめます。
アメンホテプ4世の別名、イクナートンは
アルファベットで書くと
Ikhn-aton
で、彼の崇拝したアトン神の名前が入ってる。
気づいてた?
世界史Bでは
p.38 l.8
「アトンにとって有用なる者の意」
と説明されてます。
そんなアメンホテプ4世の改革ですが、
詳説世界史(新)、詳説世界史(旧)、新世界史では
「一時的」「されたときをのぞいて」「王の死によっておわった」
と表現されているのに対し、
詳解世界史Bと世界史Bは、
「改革は挫折」「これは失敗し」
なーんて、きつい表現(笑)が用いているんですよねー。
そうそう。
新王朝も最期は謎の民族「海の民」に弱められてしまった、
という教科書が多いのですが、
世界史Bは
p.38 l.10-11
「オリエント全域が鉄器時代に入ると、
鉄資源不足のためエジプトは衰退していった。」
※強調部は筆者注釈
なんて記述を載せており、大変興味深いです。
では、次回はそんなこんなの古代エジプトの文化について。
さらりといきましょー。