「すべてを癒す道」   藤原敏之

5章 地上天国建設の基礎

 ・人生の目的(生活)と宗教とが別々のものであっては真の宗教とは言えません。単なる物語にすぎません。全ての争いや苦しみの根源は価値観の間違いから起こるのです。物を基準にして値打ちを決める価値観、形に現れた条件を比べてみて値打ちを決める相対価値だけを元に繁栄や幸福を求めて努力するのが今の世の中であります。ところがこの考え方が根本的な間違いでありますから、努力すればするほど逆の結果が生まれているのです。このことに気付かれたのがお釈迦様であり、キリストであり、谷口雅春先生です。

 ・病気になったり、事故や災難にあったり、困ったり、心配なできごとがどうして起こるのか?幸福を願いながら不幸になるのはどうしてか?運が悪いとか、相手が悪いとか、神罰であるとか、と考えるのは全くの間違いであります。本当の事を知らず真理(法則)を識らないために現れたものであると覚らなければなりません。この根本問題が解決しない限り真の平和も幸福も断じて来ないのであります。

 ・比較の有る限り、本当の満足は生まれません。満足のないところに幸福はありません。
 ・全てが神であり、神以外の物や人間がある限り絶対ではなく、相対でありますから、苦しみが生まれるのであります。神を肯定し、神の実在を信じるにはどうすればいいか?方法はただ一つ、神以外の物をことごとく否定することであります。その第一が自己を否定することから出発するのであります。谷口先生は自己否定の極致が神であると教えて下さいました。すなわち、自分が無いのが神であり、神でありながら神が現れていないのは、神で有ると気付かないからです。神の子だと気付かなければ、ただの人間として病気もある、貧乏もあると思い違いし、勝手に苦しんでいるのです。

・神の子だと自覚するには、まず、神によって生かされている事実に目覚めることであります。息さえも自分でしていない事実に目覚めることであります。丸々生かされているのです。このことに気付けば、救われるも救われないも有りません。一切の都合も条件もない世界になります。絶対善であり、絶対他力となるのであります。

・本当の信仰生活とは、生かされている、丸儲けの人生でありますから、何が起こっても「有り難う」善くても悪くても「有り難う」とただ、感謝の生活になります。感謝の心には不足はなく、満足だけとなり、安心と喜びだけとなります。悩みや苦しみなどありようがないのであります。悩みや苦しみがあるのは、自我があり、都合があるからであります。神に全託ではなく、自力を頼みにし、自分で生きていると思い違いしているのです。一切合財、神にお返ししないで自分のものにしたり、自分の都合ばかり考えて捧げる生活でなく、奪う生活を送って、要求ばかりしているところに、悩みや苦しみが起こるのです。

・信仰とは、潜在意識を浄めることであり、根こそぎ変えることであります。これには、祈る以外には無いのであります。祈りとは嫌な物を無いと強く否定し、自分に言い聞かせることです。完全円満な実相を想念することです。悪や不完全は無いとし、実相の完全さにお礼を言うことであり、感謝することであります。なるべく言葉に出して感謝することです。これが、神想観です。

・生長の家は絶対他力であり、自我的努力を必要としないのであります。他力行とは、感謝一点張りであり、全て感謝から出発するのであります。自分でやる行ではなく、させて頂く行であります。生活全体が感謝となるのであります。生活でも二通りあり、一つは奪う生活であります。「給料取り」「いくら取れた?」など。ひどいのになると「してやっとるのに・・」と。他人のお世話をすることは誠に尊いことであり、善行であるのに、まだ獲っている人がおります。信仰生活は全て頂く生活になります。このように感謝から生まれた行は、すべて頂く行であります。「させて頂く」となれば、心が高ぶらず、常に謙虚となり不平や不満がなく、明るい心で行動ができ、楽しい行動が出来るのです。自力の行には、苦痛が伴い、他力の行には、苦痛が伴わず、善行となります。