「全てを癒す道」     藤原敏之

2章 信こそすべて

 ・人間は神の子だ、その他のなにものでもない。肉体は道具であり、容れ物だ、その肉体さえも造り、肉体を使って生きている生命こそは本物の人gんであり、その生命が宇宙さえも造り、かくあらしめ  ている不可思議霊妙なる神の生命そのものであり、人間の本体は神そのものであると教えられたとき  の驚き。全く驚天動地というのはこのことであろうかと思います。

 ・それ以外何が起こっても困ると言うことのない自分にならせて頂きました。一切合切は神からの賜り物であり、神からの賜りもの以外は無かったと気づかせて頂いたのですから、有り難く無いものなど  あるはずがありません。あるのは喜びであり、感謝であり、満足以外なくなったのであります。

 ・谷口雅春先生は、「神において能わざるないし」と教えて頂きました。これはちょっと難しであろ 等と思う時には既に神を離れ、神を忘れて自分の考えや常識に照らして見ている時です。

 ・信とは絶対であり、自分の都合が皆無になることであります。これを無我全託と言います。また帰命とも言います。自分の生命が無くなり、神の生命のみがあると自覚する時、全部神からの賜りものと  なるから、善も悪いも無い絶対善の世界を発見します。ですから一切都合が無くなる。都合が無くな  れば困ることもない。不足も無い。不足が無いことを満足と言います。満足の世界を天国極楽という  のです。このような世界に住む人を自由人といいます。
 
 ・人生の目的は、あらゆる人間を苦しみや悩みから完全に解放して、完全自由を与えることにあるのです。悪い条件を善い条件に変えて都合の良い生活をさせるためにあるのではありません。やがて失う  ような一時的な幸福を与えることでなく、永遠に変わることのない幸福(満足)を与え、悩みや苦し  みの根元を断つことにあるのです。

3章 人生は神生なり

 ・子供は創る物ではなく、授かるものです。もし子供が親の都合や好みに合わせて出来るのであれば子供で苦労などしないはずです。思う通りに作れるはずです。欲しくても出来ない等、これは人間力で  はない証拠です。人間以外の何者かの力によって生まれくるのです。子供が生まれるのは全くの神意  であります。全て神意で始まった人生です。

 ・人生が神意に始まり、神意によってのみ存在し、神意によって終わると言うことが明らかになれば、救われるも救われないもないのです。神以外のものも有るという間違った観念が人間に不安を感じさ  せ、救われておりながら救われていないような感覚に陥らせるのであります。

4章   自我の否定・神の肯定
 
 ・宗教の救いとは、悪いことがあるので善くすると言うことではなく、悪いことや困った事件はないと悟ることです。有ると認めていて、なくしようというのは、大根の種を蒔きながら、菜っ葉を願うよ  うなものです。これくらい愚かなことはありません。

 ・現象界というのは、映った世界、または、現れている世界という意味であります。つまり映った世界であり、影の世界であります。

 ・相談に来られる人の多くは、この影を本物だと思い違いして、実在だと見ているのです。テレビと う道具は電波を形にし、肉眼で見られるように翻訳して見せてくれる道具であります。放送局は影を  放送しているのではなく、電波を放送しているのです。この電波を捉えて目に見える姿に翻訳してい  るのです。五官と言う道具は全部影を一定の形に現して見せてくれる道具であります。

 ・一番大切なことは、どんなに現れ、あるように見えていても「無いものは無い」と心に堅く決定することです。有ると思うから不安になり、恐怖心が湧くのです。ありもしない影に怯えて逃げることば  かり考え、逃げだそうと焦るのであります。逃れたのを解決だと思うのも大変な間違いであります。

 ・学問や技術を身に付けていても、頭が良くても神との一体感を把握せず、信仰を確立していない人には本当の自信も安心も得られません。信仰とは自我の滅却であり、自己否定にあります。一切が神で  あり、神以外からくるものは何一つ無いと悟れば、不足などなく、ただ、感謝だけになります。救い  の根本は実にこの無条件に感謝することであります。神以外のものや神以外の人間を見ている限り本  当の生長の家ではありません。

 ・生長の家は唯神実相論であり、神一元、善一元に徹した教えであります。二元的人生観には、救いは断じて有りません。

 ・この世界は認めた通り、信じた通りになる世界でありますから、信が確立した時、救いは成就しま す。信とは絶対であり、神以外のものが一切否定された心境であります。そのままであり、何もない  そのままであります。無条件であります。条件の無いのが満足であり、絶対安心であります。救われ  る必要さえなくなるのであります。救われたいと思うのは、神以外の自分を認めている証拠であり、  救われていない自分があるからであります。自我の否定とは、自分が無くなることであります。

 ・「神こそ全ての全て、神は絶対なるが故に神の外に有る物無し、神は実在のすべてを覆う、実在するものにして、神によって造られざる物無し」このこと一つが魂の底から納得され、自覚できれば万事  解決するのです。

 ・雅春先生は、神とは自己否定の極致であり、実相とは現象否定の極致であるとお説き下さいました。

 ・宗教は覚える事でも無く、識ることでもありません。信じることです。生活することです。宗教の根本は信であり、信とは実感であります。自ら体験する以外に方法はありません。身体で行じ、実践す  る以外はありません。真理は表現出来ないから、教えることもできません。結局は自得する以外にあ  りません。

 ・求道において最も大切なことは、礼拝行であり、拝みきることであります。神に見えるまで拝みきる行であります。生長の家は只合掌し、ただ、感謝する教えであります。拝まなければならないのでは  なく、拝まなければいられなくなる教えであります。それは人間の正体が明らかになり、本当の自分  を発見するからであります。まことの我を発見し、自覚する時、拝まずにはいられなくなり、腹の底  から満足感が湧き、喜びが生まれるのです。そこが天国であり、極楽であります。救われるという願  いさえなくなるのです。

 ・感謝以外の努力は救いにつながれない。徹頭徹尾自己の否定であり、感謝以外にはなのです。祈りも感謝、愛行も感謝、神想観も感謝でありあます。

 ・「感謝するようなことがありませんが・・」と言われる方がありますが、そのような方は決まって、現象を対象にしておられる方々であります。信じる対処はあくまで神様であり、現象でなく、実相で  あります。また、感謝でも、現象や条件を対象にするのではなく、実相に感謝するのであります。

 ・現象界に形となって現れることは、病気でも運命でも全て我が心の影であると教えて頂きました。
とかく、人間は相手が悪いと思いがちであり、相手を変える事ばかり考え、思うようにならないと憎  んだりしますが、これは大きな間違いであります。

 ・心配や恐れる心が不幸の生みの親であり、不幸の正体であります。反対に感謝と喜びが神であり、癒す力であります。