夏の尾瀬紀行    昭和43年の夏

 真夏の太陽のもとに黄金色を波打たせながら、あの広大な湿原一面を彩る絵葉書。昨年の夏、友より送られてきたニッコウキスゲの鮮やかな印象が忘れられず、盆休みに学生時代の親しき友4人と尾瀬を訪れることになった。

 名古屋を夜9時の新幹線に乗り、東京に零時に着く。上野発長岡行に乗り込む。夜汽車は帰省客に混じり、谷川岳にでも登るのか、色とりどり服装の若者で一杯。通路に新聞紙を敷き横になる。汽車の揺れとともに神秘な尾瀬への期待で寝付かれぬ時間を過ごす。

 朝の5時頃に沼田に着く。暫く待って丸沼行きのバスに乗り込む。朝霧に包まれる小さな沼田の街を抜け、利根川に沿ってバスは進む。夜汽車の疲れかいつしか深い眠りに落ち込んでいると「おい、着いたぞ」の声で丸沼に着いたことを知る。

 霧雨にくすぶる丸沼の姿がうつろげに望まれる。水際の赤土の肌がやたらに目に付き、観光湖第一位に選ばれた沼には見えない。それにつれても、学生時代に行った摩周湖。霧の合間に見えた湖水。引き釣り込まれるばかりのあの濃きコバルト色の水面が思い出されてきた。

 湖畔で昼食のおにぎりをほほばりながら暫し憩う。さあ、いよいよ後は歩くだけ。四郎峠を登り根名草沢を下り日光沢に向かう。

 宿では、硫黄の鼻を突く湯に浸りながら、小雨時雨れる峠越えのことや明日からの山歩きのことなど語りながら疲れをほぐす。

 翌朝5時起床、6時に鬼怒沼へと出発。原生林の中、荒れ果てた急坂の山道を歩くこと2時間。やっとのことで、鬼怒沼に着く。生憎の小雨に30メートル先も見えない。しかし後から来る友の姿が霧の中から浮かび出る様子は神秘そのもの。天井の楽園にでも足を踏み入れたのかとさえ思われてくる。この山深い山頂にこんな湿原が存在することすら不思議に思えてくる。踏み荒らされもせず、色とりどりに咲き乱れる名も知らぬ花の群れを後にして黒岩岳へと向かう。

 かっては樵が通ったであろうか、今では廃道そのもの、風雪に倒れた大きな木が至る所で道を塞いでいる。稜線では、背丈を越える熊笹で剥き出しの肌に欠き傷が、峠からはなだらかな下り道。尾根伝いの道からは小雨も上がり、青空が見えてくる。 目をどちらに向けても樹海の海。行き交う人とてないこの山道。一人ではとても無理であろう。

 3時頃,樹海とも別れ、名も無き湿原に出る。地図で見るとこの湿原を小一時間下れば尾瀬沼。朝の6時からの山歩きに、この楽園でしばし憩う。この湿原には丸太の道も無く、思いっきり飛び跳ねる。幼い頃、麦畑で鬼ごっこをして麦を踏み荒らした、あの心地よさを再び味わうことができた。
 
 長蔵小屋の部屋に入るとすぐに大の字になってしまう。食事はご飯は何杯でもお代わりができるがおかずは少ない。体力のことも考えて4杯も頂いてしまった。

 8時から、福島大生による尾瀬のスライドショー。
 早春の雪解けから始まり、岩魚の群れ、雪深き湿原から生命の息吹、枯れ草の間から顔を出す水芭蕉、名も無き草花の群れ、ニッコウキスゲの絨毯、その上を群れて飛ぶトンボ、山々が真っ赤に染まる秋の尾瀬、三条の滝の豪快な水しぶき、湿原を雪の下に閉じ込める豪雪。この大自然の尾瀬も幾千年の後に生まれたとのこと。

 翌日は、昨日とは打って変わった青空。今日はゆっくりと尾瀬が原の散策。鶯の鳴き渡る木立を抜けると色取り取りの服装のハイカーの姿がニッコウキスゲの原に見え隠れ、行き交う人の明るい「こんにちは」、皆この尾瀬を満喫しているよう。東京よりわずか7,8時間でこんな秘境に来れるなんて。電源開発の波に乗り、いつかは水の底に沈むという風の便り。ここだけはこのまま残して欲しきもの。

 途中の休憩所で写真を撮ろうとしていたら、座っていた老夫妻が気を利かせて立とうとしたので「枯れ木も山の賑わいですから」と軽口をたたくと、その女の人の怒ること。あわててお詫びするも許してもらえず。このひととはこの原っぱでその後、2度も会い、その都度、叱られた。

 温泉小屋では何年ぶりかの温泉に入る。
 朝3時起床。3時半には御池へと出発。月も無く、空には輝くばかりの星、星、星。暗闇の中を前を行く友の白きシャツを目印に進む。途中、木の根に何回もつまずく。懐中電灯のなきことが悔やまれる。

 5時頃になって、やっと帳が開けてくる。小鳥のさえずり、朝の冷気、木々より差し込む暖かな日差し、朝陽を浴びて輝く木の葉。6時頃にやっと御池に。バスが出るまで時間もあるので、御池ロッジの中でおにぎりを食べていると、ロッジの人が暖かな味噌汁を振舞ってくれる。

 7時のバスで東山へ。バスの中は、地元の人2人、ハイカーの人3人と私たち4人。
 しばらくするうちに、友が歌いだす。私たちも歌っているとハイカーの人も歌いだす。いつしか混声2部合唱となり、田島まで続く。田島で乗り換え、会津へと。これまた、バスはコーラスの渦と化す。

 この旅、最後の夜は東山温泉で。今日は温泉祭りでかなり込んでいたが、美人の案内嬢の世話で宿を取ることができた。酒を飲みながらこの旅のことを振り返りながら過ごしていた。外の川べりの広場では温泉祭りの笛、太鼓の音、そのうちに人のざわめきが聞こえてくる。私たちも最後の夜とばかりに踊りの輪の中に。2,3周しているうちに私の横に可憐な娘さんが洋服のまま踊っている。なんていうか、からかいたくなる風情。話ながら踊る。宿はどこ?と聞いても笑って教えてくれない。しかたなく、明日は10時のバスに乗って福島に抜けるとだけ伝えて別れる。11時ごろ引き上げると友は皆床の中。

 翌朝、バス停でひよっとしたらの期待も空しく彼女はいなかった。仕方なくバスに乗り込む。エンジンの音がかかった時、お姉さんと二人でバスの下に。あわてて窓を開け、暫し語らう。彼女の振る手に答えながらバスは出る。