2024年4月29日(月)、愛知ウォーキング城巡りクラブ GW番外編史跡散策会、「堀川七橋めぐり」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、7回にわたって紹介しています。
今回の結論は、次の動画に象徴されています。堀川の視点でご覧ください。
ただし、尾頭橋は新橋と表記されています。
アーカイブス 江戸時代の名古屋CG(古地図と尾張名所図会)
第3回は日置橋 周辺です。
日置橋です。旧の橋が自動車専用で、歩行者用の橋で挟んでいます。
橋から北側を見た景色です。
市民の休息場所にもなっています。
橋桁には歴史を感じます。角は算木積み。
日置橋が崩し文字で書かれています。
反対側は
そう、橋の名は、片方がひらがな、片方が漢字で書かれています。なぜ?
次のサイトをご覧ください。

https://zatsugaku-company.com/bridge-entrance-exit/
- 橋の名前が漢字:入口
- 橋の名前がひらがな:出口
漢字で書かれた橋名板は道路起点側から見て左側に設置し、逆にひらがなで書かれた橋名板は道路終点側から見て左側に設置するルールになっている。
古さがわかります。
明治14年9月の文字が
堀川通絵図
日置橋周辺の絵図です。
堀川の堤防の斜面(のり面)や中州の利用権者が図示されています。堀川は、場所によって管轄する役所が異なっていました。
江戸時代 名護屋城管理事務所蔵
松原緑地(日置城址)です。
説明です。
アップしてみましょう。
何と、歴史上超ビッグな、弘法大師(空海)と織田信長に関係する木でした。
そう思うと、すごいところです。
ここは、江戸時代の『名古屋府城志』に次のように記録されている。
「日置城在日置村、織田掃部忠寛居之。其地有古楠樹一株、今在山澄氏別業中」
日置村には日置城があった。織田忠寛(ただひろ)の居城だった。そこには一株の古い楠の木があり、今は山澄氏の別荘(下屋敷)になっている。

「日置村絵図」
織田忠寛って?
Wikipediaより
織田 忠寛(おだ ただひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。津田一安、または官途名の掃部助から、織田掃部(おだ かもん)と称された(丹波守とも)。法号は一安。子の名は不詳だが、文献には忠遼・信昌の名が記されている。尾張国日置城主。
この後にもいろいろ書かれているので、ぜひググってみてください。
忠寛は、楽田(現:犬山市)城主の織田寛貞の子で信長に仕えています。Wikiによれば、武田氏との交渉役を務めたり、伊勢侵攻や長篠の戦いに参加したりと活躍しています。
また、山澄氏は4千石の俸禄を受ける尾張徳川藩の重臣です。
付家老の竹腰邸の南側(山澄右近)に上屋敷を構えているので、重臣に属するのではないでしょうか? 今の愛知県警本部の辺りです。
さらに北上しましょう。
岩井橋です。
でかい!
北を見ると洲崎橋が見えます。
水主(かこ)町を歩きました。
といっても、地名には「水主町」はありません。旧名です。
しかし、その名を守っています。
地面には・・・
バス停も
洲崎橋です。
この公園には、その名についてわかる案内がありました。
水主町から、名駅3丁目になったことがわかります。
う~ん、味気ない。
公園には罪はありませんが・・・・
そもそも水主(かこ)とは?
水手も含めて世界大百科事典(旧版)内の水主の説明です。
一般には梶取,船頭などの上級船員に対して,その配下の下級船員を指すことが多いが,古くは船員の総称として用いられることもあった。〈水主〉とも書く。律令制下で国家貢納物の輸送には,海人・漁民などを徭役あるいは雇用して水手(かこ)とした。
堀川の水運に携わる人の居住地が水主町なのです。
次の記述もあります。
朝鮮出兵を命じられた諸大名は,それぞれの地域の条件に従って水軍を編成したが,これが海賊衆の組織化につながったと思われる。たとえば讃岐塩飽(しわく)島の海賊衆に対しては,水主(かこ)650人・船32艘をもって伊予・今治城主である福島正則につくべきことが秀吉より命じられている。
当時は「水運に携わる人」=「水軍」でもあったのです。
新州崎橋
その北東にあるのが
洲崎神社です。ここは、堀川を考えるためにはとても重要です。
いえ、江戸時代、洲崎の天王祭は名古屋東照宮の時代祭と並ぶ二大祭でした。
説明を見てみましょう。
その横には・・・
広井城跡
ここをご覧ください。
https://shiro200303.sakura.ne.jp/Hiroi-jo.html
御船方屋敷跡
以前は ・築城時期 天文年間(1532~1555) ・築城者 中村氏 の舘でした。
その後は、
文字起こししてみましょう。
御船手役所跡
この地は、かつて尾張藩の御船手役所が置かれたところで、尾張藩海軍の根拠地というべき所であった。
弘化四年(一八四七)の記録によれば奉行の配下は船軍者一名、船手改役三名、船手方五名、大船頭八名、船頭十名、船大工三名、水主(かこ)一二三名、合計一五三名とある。
代々千賀氏が船奉行として藩の艦船を掌握し、尾張、三河、伊勢、志摩の海岸の防御に当たっていた。
そう、あの千賀氏です。
https://shiro200303.sakura.ne.jp/Senga-yasiki.html
この辺りに、奉行所があったと思われます。
そしてもう一つ。
堀川の掘削は、ここから南北に掘り始めたのです。
動画です。
【名古屋市:洲崎神社】 名古屋屈指の運気爆上昇スポット パワースポット
明日に続きます。明日は納屋橋周辺です。
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