高校生の頃、何気なく捲った漢文の教科書に
「燕雀安知鴻鵠之志哉」
の語句を見つけた時、体中痺れたような衝撃が走った。
別の頁には、
「天道是邪非邪」
の文字。
あの時の衝撃が、私を漢文好きにしたんだろうと思う。
それまではどちらかといえば日本の古典の方が好きだった。
なんとなく、漢文は教訓めいていて堅苦しく、それよりもずっと「花は盛りを、月は隈なきをのみみるものかは」や「いずれの御時にか~」といった優美な世界を描いた古典の方がいいと思っていたものだ。
けれど、である。
史記の簡潔にして高雅で力強い文章は、小娘だった私を打ちのめした。
こんな世界があるのか、と眼前に新しい世界が広がった。
それ以来、私の理想の文章は史記になった。
そのおかげか、私の書く文章は堅苦しく古臭いらしい。
けれど、それでもいい。
司馬遷の足元にもよれない非才浅学の身ではあるけれど、少しでも彼に近づきたい。
せめて、遠くにかすかな影を見つけられるくらいになれれば、と願う。