それから、一週間ほど過ぎた頃、それは突然目の前に現れた。
 いつものように夕暮れの帰路を歩く綺の前に立ちふさがったのは、見知らぬ女性だった。長いストレートの髪。高い背。憎悪に近い怒りの表情で綺を見下ろす燃える瞳。
「あんたね。拓哉の妹ってやつは」
 顔は知らない。だが、それがあの時拓哉といた女性じゃないかという結論に達するのにさほど時間はかからなかった。
 なぜ綺を知っているのか。それは問うだけ無駄だ。だから訊かない。おおかた、数日喫茶店の前で張っていたのではないだろうか。そうすれば、毎日そこへ帰る綺の存在に嫌でも気がつくはず。
「血が繋がってないくせに、なにが妹なの? そんな甘えたこと言って拓哉に取り入ってなに狙ってるのかしら?」
 遥かな高みから綺を見下ろすように吐き出される高い声は、怒りのためなのかいっそ艶めいて聞こえるほど冷たい。
 身体が冷える。一切付け入ることを拒絶している声だ。おそらく、彼女に聞く耳はないだろう。
(取り入ってなんか……)
 違う。そう言いたくても口は動かない。
 拓哉は、兄になるかもしれない人で。保護者代わりの博の親友で。
(駄目だ……)
 そう言ったところで通用しない。きっと、逆上させるだけだ。
「ちょっと調べてみたら、あんた、拓哉の父親の不倫相手の娘なんですって? それで妹気取りってどういう神経の持ち主なの?」
 そう言って、彼女は軽く鼻で嗤う。
「汚らしい、親子揃いも揃って、汚い売女なのね? あぁ、可哀想な拓哉! こんな売女に騙されてるとも思わずに優しくするなんて」
 聞くな。まともに聞いちゃ駄目だ。そう思うほどに綺の耳は彼女の鼓動に引き込まれていく。
 売女。その罵り文句は3年前にも聞いた。それは、拓哉の母親からの罵声だった。
 違う。違う、そんなのじゃないのに。わたしも、お母さんも!
 俯き、力を込めて目を閉じる。
「そろそろ、拓哉騙すのやめてくんない? あんたみたいな売女にお似合いの男ならごろごろ居るでしょ? それは拓哉じゃないわ」
 なにを言っているのだろう。なにを勘違いしているのだろう。なぜそんなことまで言われねばならないのだろう。
 いつもそうだ。綺の母にしても、拓哉にしても。自分の預かり知らないところで事は起きて、その矛先はこちらへ来るのだ。
 憎悪に満ちた拓哉の母親の顔が浮かぶ。あの時も。今も。
「ちょっと、なにか言いなさいよ!」
 一段と高くなった鋭い声が飛び、肩を押されよろめく。瞼にオレンジの洪水。
「あんたさえ居なきゃ、わたしたちは上手く行ったはずだわ!」
 ほとんど怒鳴るように叩き付けられたその言葉でやっとわかる。
 彼女は、拓哉が本当に好きなのだ。上手く行かなかった理由を綺になすりつけて攻撃せねばならないほどに好きで。好きで、好きで。
 綺を攻撃したところでもう取り返しがつかないことは彼女自身もわかっているはずだ。だから、これはただの八つ当たりだ。
 綺の存在のせいで上手く行かなかった。そう思えば小さなプライドを守れる。胸をえぐる傷が小さくて済む。綺はその為の、生け贄なのだ。
(本当に好きだったんだ……でも……)
 もう、要らない。誰かの生け贄にされるのなんてもう嫌だ。
 自分の知らないところで起きた事を押し付けないで。勝手にわたしを傷つけるだけ傷つけてすっきりしないで。わたしは掃き溜めじゃない。
 ゆっくりと顔を上げる。まっすぐに彼女を見た。
「それは、わたしに言う事じゃないわ」
 喉の奥から絞り出すように発した声はかすれている。
 言ってしまえば、彼女も、そして自分自身も傷つく言葉だった。しかし、他人に土足で踏み荒らされるくらいなら、自分の言葉で傷つく方がずっといい。
「それは、拓哉に直接言って。あの売女に騙されているって。直接そう言って」
 声が震える。
(今泣いちゃ駄目だ……)
 ぐっと奥歯を噛み締める。あと少し、我慢して。あと少し。
「拓哉が可哀想と思うなら、直接言ってよ! わたし、拓哉を騙してるなんて、そんなこと彼に言わないわ! あなたが拓哉を助けてあげればいいじゃない!」
 目の前の顔は凍り付いていた。それはとどめだった。
 彼女のプライドは壊れただろう。彼女が直接拓哉にそれを言わないのは、綺が原因でないことを知っているからだ。それを拓哉に言えないことを知っているからだ。
 ただ、彼女は拓哉が好きで好きで好きで。ただそれだけだった。その心を綺は壊したのだ。
 彼女は表情のない顔で綺を見下ろし、手を振り上げた。ぶたれる、そうわかっていて避けなかった。乾いた音がして、頬に痛みが走る。
 それと同時に、彼女の瞳から涙があふれた。そのまま綺の横をすり抜けオレンジの中へととけ込むように消えた。
 頬が痛い。それ以上に……。

 夕暮れが過ぎ、空が紫に変わりかけた頃、拓哉はやって来た。
 あの後、不思議と涙はこぼれず、しかしまっすぐ帰ることも出来ず、帰路の途中の公園のベンチで休みそのまま動けなくなってしまった。
 あんな風に人を傷つけたのは初めてだった。その事に自分自身予想以上に傷ついていた。
 迎えに来て。短いメールを拓哉に送った。一人で帰れそうになかった。
「綺。どうしたんだ、気分が悪いのか?」
 綺の様子が違うことはすぐにわかったようだ。すぐに駆けつけてくる。
「どうした? 立てるか?」
 そう言って隣に座り綺の顔を覗き込んだ拓哉の顔が微かに歪む。頬が腫れているのに気がついたのだろう。
「綺、なにがあった?」
 そう訊く声は強ばっている。その声に首を微かに横に振る。
 もう十分、先ほどの彼女を貶めた。これ以上はもう出来ない。彼女はただ拓哉が好きだっただけなのだから。
 拓哉の顔を見上る。綺を心配する顔。
 息が詰まった。先ほどは吐き出せなかったたくさんのものが、一気に喉元を駆け上がり目頭が熱くなる。視界が歪んだ。
 押しつぶされたような音が喉からもれ、涙があふれる。
「我慢するな」
 拓哉の腕が綺を包み込む。そのまま、綺の顔を肩へと導く。
「なにがあったか知らないけど、我慢するな。泣きたいときは泣いたらいい」
 耳元で聞こえるその優しさに、一気になにもかもが壊れた。子どものように、声を上げて拓哉の肩にすがりつく。
 拓哉は何も悪くない。しかし、拓哉が蒔いた種が綺に飛んで来たのは事実だ。だから、ここでこうして甘えるくらい許して欲しい。
 これも、都合のいい、自分のプライドを守るための言い訳かもしれなかったが。それでも。拓哉はそれを許してくれるだろうから。
 綺も、綺を傷つけた女も、同じだ。同じだからお互いに傷ついた。
 拓哉の手が綺の頭をなでる。優しく。
「よく頑張ったな」
 それは、普段の綺を知る拓哉だからこその言葉。
 普段はちょっとのことで泣いたりなどしない綺が泣く時は、我慢に我慢を重ねた後のこと。もうどうしようもなくなって、心が折れそうな時。拓哉はそれを知っている。
 声が出せず、小さく頷くと、ぽんぽんと背中をあやすように叩かれた。
 優しく、ただ優しく。
 それは、夕暮れのような優しさに綺には思われた。

 もう少し、甘えていてもいいだろうか。許されるだろうか。
 せめて、大人になるまでは。
 それまでは、どうか……。

END