歴史 

4万~3万3000年前 

柳沢舘遺跡(奥州市)

金取遺跡(遠野市)

斜軸尖頭器




などが存在した。


5世紀後半-6世紀初

角塚古墳(つのづかこふん)奥州市

ヤマト王権の影響力が及ぶ北の端




北上川流域で蝦夷(えみし)の日高見国(ひたかみのくに)が存在。

蝦夷は朝廷側の敵だった。


789年(平安時代)

蝦夷の軍事指導者アテルイ(阿弖流爲)は胆沢に侵攻してきた朝廷軍を撃退。


38年戦争 でアテルイ、モレと征夷大将軍 坂上田村麻呂 が戦った。 






802年

アテルイと坂上田村麻呂は講和し、アテルイを無罪とする代わりに朝廷へ同行するよう呼び掛けた。

アテルイはそれに応じたが、坂上田村麻呂からの要望を朝廷の貴族は聞き入れずアテルイを処刑。

その後北上川流域は朝廷が掌握し、蝦夷の多くが全国に強制移住させられた。

残った蝦夷は、俘囚(ふしゅう 捕虜みたいなもの)として支配体制に組み込まれ、同時に胆沢には関東地方から柵戸(さくこ 城柵の周辺に防衛や修理にあたる人々)として入植者が入った。



11世紀まで安倍氏が支配(安倍総理の祖先)

安倍氏は奥六郡おくろくぐん(現在の岩手県内陸部)を拠点に糠部(現在の青森県東部)、亘理・伊具(現在の宮城県南部)を支配。







前九年の役 (奥州十二年合戦) 1051~1062年 平安後期

安倍頼時、安倍貞任(さだとう) 対 源頼義、清原武則


安倍氏が朝廷に貢租(こうそ 年貢を納めること)を怠る。

陸奥守・藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みる。秋田城介の平繁成も国司軍に加勢

結果は安倍氏の圧勝。

朝廷は河内源氏の源頼義を陸奥守とし、事態の収拾を図る。

頼義が陸奥に赴任した翌1052年(永承7年)、上東門院(藤原道長息女中宮藤原彰子)の病気快癒祈願の為に大赦(たいしゃ 許すこと)を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。

安倍頼良は源頼義を饗応(きょうおう 食事を出してもてなす)し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。

安倍頼良→安倍頼時

安倍頼時と源頼義は和解。







1056年(天喜4年)2月、阿久利川事件が起こる。

源頼義の部下 藤原光貞が「阿久利川の河畔で夜討ちにあって人馬に損害が出た。」と伝える。

光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断った。だから今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と語った。

怒った源頼義が貞任を呼び出し、頼時は貞任の出頭を拒否

再び安倍氏と朝廷は戦いに突入。

頼時の女婿(じょせい 娘の夫) 平永衡と藤原経清(亘理権大夫)は源頼義に従い配下の将となっていたが

源頼義は永衡を粛清(しゅくせい)した。

経清は安倍軍に帰属した。裏切り

源頼義は安倍富忠(安倍頼時の従兄弟)ら津軽の俘囚を調略(敵方の人材の引き抜き)

安倍頼時は慌てて安倍富忠に思いとどまるよう津軽へ向かうが、途中で富忠の伏兵に攻撃を受けて死ぬ。

安倍貞任が跡を継ぐ。

黄海の戦いがおこる 

源頼義2000名 対 安倍貞任4000名

頼義軍は遠征で補給が乏しく大敗

安倍氏は勢力を衣川(ころもがわ 奥州市) の南まで拡大。兵力の増強。

苦戦を強いられていた源頼義は中立の出羽国仙北(秋田県)の俘囚の豪族清原氏の族長清原光頼に参戦を依頼した。清原氏参戦

これで一気に形勢逆転し、朝廷有利となった。

安倍氏の拠点である厨川柵、嫗戸柵(うばとのさく 盛岡市安倍館町)が陥落。

安倍貞任と藤原経清は死に安倍氏は滅亡した。清原参戦1カ月後のことだった。

清原武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任されて奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。


藤原経清の妻(頼時の息女)は敵の武貞の妻となり、藤原経清の遺児(亘理権太郎。後の藤原清衡。奥州藤原氏の祖)共々清原氏に引き取られたが、このことが、後の後三年の役の伏線となる。



前九年の役 まとめ


安倍氏が納税せず

    ↓

陸奥守・藤原登任が安倍氏を懲らしめにいく

    ↓

安倍氏が圧勝

    ↓

陸奥守を源頼義に交代

    ↓

上東門院が病気なので安倍氏が許される

    ↓

安倍頼良と源頼義メシを食う

    ↓

仲良くなる

    ↓

安倍氏が源頼義と同じ呼び名なので気を使い名前を変える(頼良→頼時)

    ↓

安倍貞任が藤原光貞(源頼義の部下)の娘に求婚するが、賤しい一族には妹はやらんと断る

    ↓

安倍氏キレて夜討ち、人馬を殺す(阿久利川事件)

    ↓

源頼義もキレて安倍貞任を呼び出し

    ↓

頼時が貞任に行かなくていい、と出頭を拒否

    ↓

安倍頼時と源頼義 また仲が悪くなり、再度戦闘に突入

    ↓
平永衡(安倍頼時の女婿で源頼義の部下)を粛清

    ↓

藤原経清(源頼義の部下)は朝廷側から安倍軍に帰属

    ↓

源頼義が安倍氏の従兄弟の安倍富忠を味方につける

    ↓

安倍頼時は慌てて説得に向かうが途中で殺される

    ↓

安倍貞任が跡を継ぐ

    ↓

黄海の戦い  源頼義2000名 対 安倍貞任4000名

    ↓

源頼義が大敗

    ↓

安倍氏 勢力拡大(奥州市の南まで)

    ↓

源頼義が清原光頼に助けを求め、清原氏参戦

    ↓

源頼義、清原光頼 勝利

    ↓
安倍貞任と藤原経清は殺される

    ↓

清原武則は朝廷から奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者になる

    ↓

藤原経清の妻(頼時の息女)は敵の武貞の妻になる

    ↓

藤原経清の遺児 藤原清衡は清原氏に引き取られる




ここまでが前九年の役






後三年の役 1083~1087年 平安後期

源義家(源頼義の嫡男で成衡の妻の兄、源頼朝のヒイヒイじいさん)

藤原清衡(ふじわらの きよひら 藤原経清と頼時の息女の子) 



清原家衡(きよはらの いえひら 清原武貞と頼時の息女の子)

清原 武衡(きよはらの たけひら)










清原光頼から弟の武則。武則を経て武則の息子の武貞。その嫡子の真衡へと継承。

清原光頼→清原武則(弟)→清原武貞(息子)→清原真衡(嫡子 正室の生んだ年長男子)



清原真衡(さねひら)には男子が生まれなかったので、養子に迎えた。これが清原成衡。

真衡は源氏との縁戚関係(えんせき 親戚のこと)の構築を目論む。源頼義の娘を清原成衡の嫁にする。

清原氏と安倍氏の血を引く家衡(清原武貞と頼時の息女の子)は清原氏の嫡流(ちゃくりゅう 家督を受け伝える家柄)から外れる。

清原一族の長老である吉彦秀武が婚礼の祝いに訪れた。真衡は碁に夢中になっており、吉彦秀武を無視し続けた。吉彦秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。

真衡は吉彦秀武の行為を聞いて激怒し、直ちに秀武討伐の軍を起こした。

吉彦秀武は、真衡と不仲であった

家衡(清原武貞と頼時の息女の子)
藤原清衡(藤原経清と頼時の息女の子)

に密使を送って蜂起(ほうき いっせいに立ち上がる)を促した。


源義家(源頼義の嫡男で成衡の妻の兄)が陸奥守を拝命して陸奥国に入ったため、真衡は義家を三日間に渡って国府で歓待し、その後に出羽に出撃した。

清衡・家衡は大敗。

真衡は病で急死。

源義家は清衡・家衡に奥六郡を3郡ずつ分与。


清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡。

家衡に岩手郡、紫波郡、稗貫郡。確証は無い。


ところが家衡はこの裁定を不満とし、1086年(応徳3年)に清衡の館を攻撃した。

清衡の妻子一族はすべて殺されるも清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗した。

清衡と義家は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった家衡を攻撃した。








充分な攻城戦の用意が無かった清衡・義家連合軍は家衡に敗走。

清原武衡(武貞の弟)は家衡勝利の報を聞いて家衡に加勢。

清衡・義家連合軍は家衡・武衡に兵糧攻め。家衡・武衡軍は金沢柵(横手市)に火を付けて敗走。

家衡・武衡は捕まって殺される。



朝廷は、上記戦役を義家の私戦とし、これに対する勧賞はもとより戦費の支払いも拒否、陸奥守を解任。

戦役後、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなった。清衡は、実父である藤原経清の姓藤原に復し(奥州藤原氏)、清原氏の歴史は幕を閉じた。




後三年の役 まとめ (名前が似ててややこしい 注意)







清原氏の継承が何度も行われる、そして清原真衡(さねひら)の時代

    ↓

清原真衡(トップ)は源氏と縁戚関係の構築を目論む。源頼義の娘を清原成衡(真衡の養子)の嫁にする

    ↓

清原氏、源氏の縁戚関係ができ、

清原氏と安倍氏の血を引く清原家衡(清原武貞と頼時の息女の子)は清原氏の嫡流から外れる

    ↓

吉彦秀武(清原氏長老)が婚礼の祝いに訪れた際に、清原真衡(トップ)が無視。

吉彦秀武キレて砂金を庭にぶちまける

    ↓

それを知った清原真衡(トップ) 逆ギレ

    ↓

吉彦秀武討伐の軍を起こした

    ↓

吉彦秀武と

清原家衡(清原武貞と安倍頼時の息女の子 嫡流から外れた)

藤原清衡(藤原経清と安倍頼時の息女の子 ↑母親が同じ)

が手を組む

    ↓

源義家(源頼義の嫡男で清原成衡の妻の兄)が清原真衡(トップ)と組む

    ↓

藤原清衡(母同じ)、清原家衡(母同じ)は大敗

    ↓

清原真衡(トップ)は病で急死

    ↓

源義家は藤原清衡(母同じ)と清原家衡(母同じ)に奥六郡を3郡ずつ分与

    ↓

清原家衡(母同じ)はこの裁定を不満とし、1086年に藤原清衡(母同じ)の館を攻撃した

    ↓

藤原清衡(母同じ)の妻子一族はすべて殺されるも藤原清衡自身は生き延びて

源義家の助力を得て清原家衡(母同じ)に対抗した

    ↓

藤原清衡(母同じ)と源義家は沼柵(ぬまのさく 秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった清原家衡(母同じ)を攻撃

    ↓

清原家衡(母同じ)が勝ち、藤原清衡(母同じ)と源義家は負ける(準備不足)

    ↓

清原武衡(武貞の弟)は清原家衡(母同じ)と組む

    ↓

藤原清衡(母同じ)と源義家は

清原家衡(母同じ)、清原武衡(武貞の弟)に兵糧攻めを喰らわせ、金沢柵に火を付ける

    ↓

清原家衡(母同じ)、清原武衡(武貞の弟)は捕まって殺される

藤原清衡(母同じ)と源義家が勝利

    ↓

藤原清衡(母同じ)は清原氏の旧領すべてを手に入れ、奥州藤原氏となる








ここまでが後三年の役








奥州藤原氏

1087~1189年

清衡、基衡、秀衡、泰衡 4代の100年












清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。

朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認した。源氏と平氏の間で政争で奥州にかかわっている余裕が無かった。

奥州は朝廷における政争と無縁な地帯で政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立。









金戒光明寺 地獄極楽図





奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力も持っていた。(抑止力)

2代目 基衡は陸奥守の藤原基成と深く親交を結んだ。

基成と基衡が院へ強い運動を仕掛け国司の殆どが基成の近親者だった。

奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていた。

1117年に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。






1124年に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。

平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。半ば独立国であった。


源 義経は兄 頼朝に追われ奥州へ逃げる。





奥州は平治の乱で敗れた時に義経が幼少期に過ごした地だった。(秀衡が匿った)

秀衡は再び頼朝から義経を匿った。

頼朝からの引渡要求を拒んできた秀衡が死す。

息子の泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡す事で頼朝との和平を模索した。

しかし、関東の後背に独自の政権があることを恐れた源頼朝は同年7月、義経を長らく匿っていた事を罪として奥州に出兵。

贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。











鎌倉時代

甲斐源氏の南部氏が八戸周辺に移住し、今の青森県から岩手県北及び秋田県鹿角地方にまで勢力を伸ばした。


南部氏は頼義の嫡子の子孫で甲斐源氏と称され、その系統のひとつが南部氏。


沿岸部では閉伊氏

県央部では斯波氏、稗貫氏、阿曽沼氏、和賀氏

県南部は葛西氏、留守氏


が支配していた。


福島県伊達郡に根城を置く伊達氏が勢力を伸ばす。

室町時代には葛西氏、留守氏は伊達の馬打ちとして事実上支配下に置かれた。

伊達政宗の仙台移封を機会に葛西氏は滅亡、留守氏は伊達氏の一族として組み込まれた。






安倍氏の末裔である一方井氏を母に持つ七戸南部氏の南部信直が勢力を拡大し、南部所属の頭領として振舞うようになる。







1591年 安土桃山時代  これを認めない九戸南部氏の九戸政実と争い、豊臣秀吉の知遇を得た信直は秀吉軍を招きいれて政実を滅ぼした(九戸政実の乱)。

大浦氏以外の南部氏諸家を統一した信直は盛岡に拠点を移し、勢力を確立した。

1598年 盛岡城の築城













江戸時代

県南 仙台藩伊達氏に62万石。

一関藩は田村氏、水沢には伊達氏城代が置かれた。

北部 盛岡藩南部氏によって20万石統治された。




幕末に東北諸藩が奥羽越列藩同盟(北部政府)を編成。

現在の岩手県を支配していた仙台藩・南部藩はその中心となるが、結局敗れて明治政府によって占領された。



明治時代

1870年(明治3年)

莫大な御用金を課せられたり、旧藩を分断する県域を設定され弱体化を図られるなど敗戦の屈辱を味わう。

課せられた70万両の納付は減免、1843年までは破棄。

1844年以降の物は明治政府が国債3000万円を起債し肩代わり。




盛岡藩は財政難により廃藩置県に先立って廃藩を申し出、旧領には明治政府により盛岡県が設置。

管轄地域は陸中国岩手郡、稗貫郡および紫波郡、和賀郡の一部のみで、新政府に敗れる前の盛岡藩より大幅に縮小された。




原敬が内閣総理大臣に就任するなど、近代日本国家建設に多くの功があった。

人材の輩出を行う一方で山田線、後藤新平と鈴木商店など金権政治の時代を先駆けた政治的犯罪も伴った。


1871年(明治4年)の第1次府県統合ではほとんど変わらず

1872年(明治5年) 盛岡県から岩手県に改称。

第2次府県統合で磐井県から胆沢郡・江刺郡・磐井郡を、青森県から二戸郡を編入したが、前者はおおむね旧仙台藩領であり、旧藩が分断された状態は是正されなかった。



1874年(明治7年)には藩政の象徴であった城郭も取り壊される。現在は岩手公園(盛岡城跡公園)




1876年(明治9年)最初の県議会が開かれる。

1889年(明治22年)南岩手郡盛岡が岩手県下で初めて市制施行し、盛岡市となる。

1937年(昭和12年)製鉄業によって発展した上閉伊郡(かみへいぐん)釜石町が市制施行して釜石市となる。

1941年(昭和16年)下閉伊郡(しもへいぐん)宮古町・山口村・千徳村・磯鶏村が合併・市制施行して宮古市となり、戦前までに3市が誕生した。


1950~1960 自ら「日本のチベット」と呼び、政府の振興策を求めたこともあった。

山岳地帯のため交通の便が悪い

主な産業が富士製鐵(現、新日鐵住金)の釜石製鐵所位しかなく、所得水準が全国でも低い

1964年(昭和39年)花巻空港が開港。

1982年(昭和57年)東北新幹線の大宮 - 盛岡間が開業。首都圏からは約3時間、仙台からも1時間圏内(当時)となった。

これに伴って、安価で広大な土地や豊富な水などを背景に、北上市、金ケ崎町周辺を中心として工場の進出が急激に進展。

関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)などの自動車産業

東芝や富士通などの半導体工場

塩野義製薬

など大企業の工場の進出が進み、製造品出荷額が大きな伸びを見せた。



1995年(平成7年)から2年間 細川内閣(当時)打ち出した大規模景気対策に乗って公共投資を拡大させる。

当時県知事を務めていた増田寛也は、退任後の取材に「国の財政的限界で、いずれ予算が回らなくなるのは分かっていた

東北新幹線や花巻空港、釜石自動車道など(骨格的な事業)は、先にやってしまおうと思った」と答えている。

釜石自動車道は2002年に花巻と開通。


かつては、産業がほとんどない事を自称していたが、東北新幹線や東北縦貫自動車道などの整備に伴って、企業の誘致が進んでいる。

トヨタ自動車系の生産工場

東芝のフラッシュメモリ工場

富士通

などを誘致した。県は法人税減免や低利融資を行っている。

県民所得は47都道府県中 40位台後半から、38位にまで改善。


2001年(平成13年)小泉内閣 公共投資予算は年10%以上の割合で急速に縮減され、財政再建に大きく舵を切った。



2008年(平成20年)6月14日に岩手・宮城内陸地震(最大震度6強)。

2011年(平成23年)3月11日 国内観測史上最大の超巨大地震となるマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震(最大震度7)が発生




近年は国際リニアコライダーを軸とした国際学術研究都市構想を表明している。



貯蓄率が極めて高い

保有する金融資産は4兆円以上に達する。

県民の貯蓄率は39%で、東北地方平均の25%、全国平均の16.5%を大きく上回り、東北では宮城県に次いで2位、全国でも9位の高率を保つ。




















stay gold









岩手の由来

1.

むかしむかし、鬼を懲らしめる為に人々は三ツ石様と呼ばれる大岩にお願いをした。

三ツ石様が二度とこの地を荒らさないように、鬼に手形を残させた。

岩に手形を残した → 岩手

現在でも三ツ石神社にある岩に手形のようなものが残っている。

2.

大和物語に出てくる鷹の名前が岩手


3.

その大和物語に出てくる鷹(岩手)の飼い主の帝が大納言に岩手を預けた。

その時に岩手を取り逃がしてしまう。

帝は岩手を失った悲しみを歌に綴る。

「いはでおもふぞいふにまされる」

訳「言わないことが言うことより気持ちが勝る」


言はで→岩手


県の木


アカマツ



県の花

キリ

初夏の頃に円錐花序に淡い紫色の筒状の花をつける。

木材として重宝されており、下駄や箪笥(たんす)、箏(こと)、神楽面の材料となる。

木材としては最も軽い。また、湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴があり、高級木材として重宝されてきた。

かつて日本では女の子が生まれるとキリを植え、結婚する際にはそのキリで箪笥(キリタンスは高級家具)を作り嫁入り道具にするという風習もあった。
キリは成長が早いためこのようなことが可能なのである。







県の鳥

キジ




県の魚

ナンブサケ














気候

内陸部は内陸性気候(夏は暑く、冬は寒い)

沿岸部は海洋性気候(夏は涼しく、冬は暖かい、一日の気温差が小さい、降水量多い、風が強い、)


盛岡の藪川では冬季に-30℃近く冷え込む(本州最寒地)

県内全域 豪雪地帯

西和賀町、八幡平 特別豪雪地帯(奥羽山脈にぶつかって雪が降る)


沿岸部は積雪が少なく、ボタ雪


北上盆地では奥羽山脈(脊梁山脈セキリョウサンミャク=ある地域を分断してる山脈)が壁になり晴天が多い、冬季には放射冷却が見られる

放射冷却(雲がないと地上の熱が空に逃げて冷却される。雲があると熱の反射があるので、熱が逃げない)

放射冷却の影響で本州一寒い県庁所在地となる



北上高地と奥羽山脈に挟まれている北上盆地の地形



北上盆地の冬 盛岡、花巻、北上、奥州で冬季に-15℃まで下がる



北上盆地の夏 フェーン現象、ヒートアイランド現象が起こる


フェーン現象とは 気流が山にぶつかり上昇し、暖かく乾いた気流が下降。これで気温が上がる。

山を上昇するときは100mで0.6℃下がるけど下降するときは100mで1℃も上がる。




ヒートアイランド現象とは

都市部の気温がその周辺の郊外部に比べて高温を示す現象。

発見は1850年代 ロンドン 産業革命により著しく気温が上昇し、郊外より気温が高くなったことによる。

1970年代に大きく報道されヒートアイランドという言葉が一般的になった。

原因は 

1.地表の被覆の人工物化 アスファルトやコンクリート

土、植物は日射による加熱を抑える働きがある。アスファルト、コンクリにはない。

アスファルト、コンクリは赤外線を放射(輻射熱)して大気を暖める。これが人にあたると実際の気温より暑く感じる。


2.人口排熱

自動車、空調機器、照明器具、情報機器

省エネルギー化により個々の排熱量は削減される傾向にある一方、人口増加、産業の発展、機器の普及が全体の排熱量を押し上げているという問題がある。


3.都市の高密度

高層ビルにより、地上から空を見上げた時の空の割合(天空率)が低下。夜間の放射冷却が弱まって気温低下の妨げになる。=夜も暑い

高層建築物が地上付近の風通しを阻害して、熱の拡散や建物内の換気を弱める場合があると考えられている。=風の働きによる暖められた大気の運搬ができない


ちなみに皇居は周辺より2℃低い







地域


面積は日本で2番目

面積ランキング

1位 北海道

2位 岩手

3位 福島

4位 長野

5位 新潟





可住地面積割合 24.3% 40位(総面積から林野面積、湖沼面積を差し引いた面積)




人口約130万 


内訳100万人 70%は内陸 東北新幹線、東北自動車道などの交通インフラ整備によるもの

利便性の優劣により内陸部の人口は多く、沿岸部の人口が少ない という現象が起こる。

沿岸部への移動は車で国道、県道の峠道を走る、在来線(新幹線以外の鉄道)での移動となる。

県庁に用事があるときに長時間かかってしまうため、県内各所に地方振興局を設置。(盛岡、県南、沿岸、県北)

救急医療ではヘリコプター輸送が使われる(これは沖縄の離島と類似)





所得格差

H24 平均所得


県平均 255万円

県央  285万円 第三次産業が発達

県南  244万円 第二次産業が発達

沿岸  234万円

県北  217万円


県北、沿岸では経済発展が遅れているため、県北、沿岸振興本部を設置したが、格差の拡大は変わらず。



交通

東北新幹線




1982年(昭和57年) - 東北新幹線 大宮 - 盛岡駅間開業

1985年(昭和60年) - 東北新幹線 大宮 - 上野駅間開業

1991年(平成3年) - 東北新幹線 上野 - 東京駅間開業

1997年(平成9年) - 秋田新幹線開業、秋田道により秋田港と直結される

2002年(平成14年) - 東北新幹線 盛岡 - 八戸駅間開業

2010年(平成22年) - 東北新幹線 八戸 - 新青森駅間開業



IGRいわて銀河鉄道

2001年(平成13年)にJR東日本から岩手県が引き継いだ。第三セクター方式

盛岡-八戸 のうち盛岡-目時で運営している。

余談

第一セクター 公共目的のために行う 行政(国、県、市、地方自治体)

第二セクター 営利目的の私的団体(営利企業)、民間企業

第三セクター 公共目的のために市民レベルで行う 行政+民間が共同出資して設立した法人

第四セクター 行政+市民の連合体(NPO、市民団体など)







2004年まで赤字だったが、2005年から黒字。

新駅(青山駅・巣子駅)設置により利用者の減少に歯止めが掛かっている。

コスト削減などによる営業損失の縮小。

通学定期運賃の激変緩和措置などによる補助金収入(特別利益)が増大。

2010年度決算は東日本大震災の影響もあり赤字に転落するが2012年に黒字に回復。

2013年ダイヤ改正、定期券値下げ、普通運賃値下げ。

2015年 青山駅南口新駅舎及び連絡通路を供用開始し、同駅南口新駅舎2・3階へIGR本社移転する予定。


今後は

ダイヤ見直し

折り返す列車の増便

普通運賃値下げ区間拡大

老朽駅舎の建て替えによるバリアフリー対応(厨川・渋民・岩手川口の各駅)

玉山区中心部へのアクセス改善策

乗降客の多い駅への自動改札機導入

などが検討されている。




三陸鉄道(三鉄)

1981年(昭和56年)に岩手県と沿線市町村が設立。第三セクター

北リアス線、南リアス線を運営している。




1896年三陸地震の際、急峻(きゅうしゅん 坂が急でけわしいこと)な地形が「陸の孤島」と評され支援輸送を阻んだ。

その復興策として鉄道の建設が考えられた「三陸縦貫鉄道構想」。

1933年三陸地震。

国鉄の財政悪化により建設が凍結された。

1981年11月10日に第三セクター「三陸鉄道株式会社」を設立。

開業初年度からの約10年間は黒字。その後の第三セクター鉄道の誕生を強く後押しした。

輸送人員は1992年から減少の一途をたどり、1994年からは赤字経営に転落。

岩手県の運営助成基金に手をつける。

2006年 こたつ列車運行。(北リアス線)




2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)

駅舎や路盤が流出し、車両も3両が使用不能。

地震発生からわずか5日後の3月16日には久慈駅 - 陸中野田駅で運行を再開。

被害が小さな他の区間についても3月末までに運転再開し、被災者を勇気づけた。

県や国土交通省の補正予算での復旧により、2014年4月6日に全線が復旧し運転再開に至る。



震災学習列車(南北のリアス線)では三陸鉄道社員や沿線住民が被災の状況を説明しながら1時間前後の運行。

学習ポイントでは一時停止や徐行などがされ、参加団体によっては車内での黙祷も行われる。






その他の路線

JR田沢湖線 盛岡駅-大曲駅 1921年開業 (秋田新幹線並走)

JR北上線 北上駅-横手駅 1920年開業 東北新幹線開業前は、仙台 - 秋田間の最短ルート。現在ワンマン運転。

JR八戸線 八戸駅-久慈駅 1894年開業 八戸駅 - 鮫駅間は、「うみねこレール八戸市内線」

JR花輪線 好摩駅-大館駅 1914年開業 「十和田八幡平四季彩ライン」が愛称。好摩駅でIGR乗り換え可

JR釜石線 花巻駅-釜石駅 1913年開業 「銀河ドリームライン釜石線」が愛称。『銀河鉄道の夜』のモデル。ワンマン。

JR岩泉線 茂市駅-岩泉駅 1942年開業 第二次世界大戦中に耐火煉瓦の原料となる耐火粘土の輸送のために建設された。

JR山田線 盛岡駅-宮古駅-釜石駅 1923年開業 気仙沼線・大船渡線・三陸鉄道などとともに「三陸縦貫鉄道」を構成する。

JR大船渡線 一ノ関駅-気仙沼駅-陸前高田駅-盛駅(大船渡市) 1925年開業 「ドラゴンレール大船渡線」愛称




路線バス

沿岸部と内陸部(特に対北部)を結ぶ鉄道のダイヤが極端に少ないため、公共交通による県域横断の手段としては長距離バスが主力になっている。


自動車交通


道路の舗装率も低く全国最下位。

盛岡市内は道路が入り組んでいることと外環状バイパス道路の整備が不十分であることから、特に朝夕の混雑が激しい。


ご当地ナンバー

(盛岡市、八幡平市、滝沢市、紫波町、矢巾町)において「盛岡」

(一関市、奥州市、金ケ崎町、平泉町)において「平泉」


東北自動車道






1977年(昭和52年)東北自動車道一関ICから盛岡南ICまでが開通

1978年(昭和53年)築館IC-一関IC間開通。

1994年(平成6年)秋田自動車道北上JCTから北上西ICまで開通

2002年(平成14年)花巻JCT開通により釜石自動車道と接続




2005年(平成17年)日本道路公団民営化に伴い、東日本高速道路株式会社の管轄となる。


空港

1964年(昭和39年) 花巻空港が開港

利用客数は減少傾向。 

2010年 28.4万人  日本航空撤退により、名古屋線が運休。

2011年 29.0万人

FDA(フジドリームエアライン)の就航(はじめて航路につくこと)により名古屋線の運航再開となり、37万人まで回復する。


2014年 チャイナエアラインによる(花巻-台北)が就航。


県南部の住人は仙台空港を利用している。

仙台空港のアクセス改善により、今後花巻空港がより厳しくなっていくという声もある。


かつて就航していた定期運航路線

東京国際空港(羽田空港)・新潟空港・中部国際空港セントレア(愛知県常滑)・関西国際空港・那覇空港







産業



農業産出額は2,544億円。食料自給率は106%。穀物、畜産業などが伝統的に盛ん。

畜産業とは

家畜の繁殖、育成、肥育、乳や卵など畜産物の生産を目的とした事業



林業は、県が木質バイオマス事業などの自然エネルギー活用に熱心なこともあって、生産高188億円(2005年(平成17年))と、

全国5位の数字を出している。


バイオマスとは

再生可能な、生物由来の有機性資源で化石資源を除いたもの。

木材からなるバイオマスのことを「木質バイオマス」と呼ぶ。

木質バイオマスからエネルギーを得るには燃やすしかない。燃やせばCO2が発生する。

木質バイオマスを燃やすことで発生するCO2は、光合成のために植物が大気から吸収したもの。

いずれCO2は森林が吸収して光合成する。

燃やさずに放置しておいて、腐敗と分解を進ませてもいずれCO2を放出する。

木質バイオマスは燃焼させてCO2を排出しても、地球全体のCO2濃度には影響を与えない。地球上の炭素の自然な循環の中に入っているということ。

まとめ

燃やしても、放置して腐敗させてもCO2は出る。なので燃やしてエネルギーを得ても環境問題に影響は与えない。

木を燃やしたco2は森林が吸収して循環されるので、プラマイゼロ

家を解体したときにでる廃材の木材を燃やしてエネルギーを作るので、ゴミが減る








水産業では、三陸海岸周辺が、黒潮による豊かな漁場として知られている。

リアス式海岸の岩礁は、ワカメや海苔といった海藻類の養殖にも適している。

ワカメとあわびの養殖で、生産高全国1位の規模を持つ。











商工業

新日本製鐵(現、新日鐵住金)


釜石製鉄所

明治13年 1880年 日本最古の製鉄所(八幡製鉄所より早い)

戦時中に釜石艦砲射撃で壊滅するが戦後に復活

平成元年 1989年 高炉を休止

現在は線材が中心。ばねやケーブルの線材、ボルトの線材など(導線の周りを包んでるやつ)

その他 独立発電事業で火力発電を設置し、東北電力に電力を供給している


釜石艦砲射撃

1945年7月14日 一回目 アメリカ海軍が釜石製鉄所を駆逐艦から砲撃。一般市民423人死亡

1945年8月9日 二回目 アメリカ・イギリス合同部隊の軽巡洋艦、駆逐艦からの砲撃と戦闘機からの機銃攻撃。一般市民271人死亡


独立発電事業

公益事業に分類されない。電気を売るための発電設備を保有してる事業者のこと。













太平洋セメント大船渡工場(大船渡市)




長らく主要な産業が新日本製鐵(現、新日鐵住金)の釜石製鐵所、太平洋セメント大船渡工場(大船渡市)

ほどしかなく、政府の救済策を求めたこともあった。

1982年(昭和57年)に東北新幹線大宮・盛岡間が開業すると、企業誘致が徐々に進展した

1993年(平成5年)に関東自動車工業(金ケ崎町)(現・トヨタ自動車東日本岩手工場)が進出。

県南には富士通や塩野義製薬、東芝などの工場が立地する。

2008年(平成20年)2月に決定された東芝・フラッシュメモリ工場の北上市への建設は、波及効果を合わせると1兆円程度の経済効果。

東芝が「行政からの融資措置だけでなく、質の高い人材の確保が容易なことが決め手になった」とし、「金のかからない新しい産業誘致モデル」として注目

製鉄業が隆盛を極めていた時代の釜石市に変わり、北上市が「不交付団体」への昇格を果たすことになった。

不交付団体とは自前の財政が豊かで国から交付税を受けない自治体。

交付税には2種類ある

普通交付税 道路、施設の整備、行政サービス

特別交付税 災害



トヨタ自動車が、東北地方を新たな生産拠点とする意向により

10万台増の25万台生産規模まで拡大されることが決まっている





県は法人税減免や低利融資などを通じて、これを後押しするとしている。








教育




高校進学率98.92% 


2012年

1位 新潟

10位 宮城

12位 岩手 

25位 東京

36位 大阪

41位 福岡

45位 愛知

47位 沖縄


大学進学率 40.4%

2013年

1位 東京

6位 愛知

8位 大阪

19位 福岡

45位 岩手

47位 沖縄


2005年から県費で主要進学校に予備校講師を招く対策をとっている。

主要進学校以外への対策も必要だという意見もある。


大学


国公立


岩手大学 1876年創立 1949年設置 通称 岩大

戦前は盛岡高等農林学校で宮沢賢治が卒業している



人文社会科学部

教育学部

工学部

農学部(獣医師養成など)





岩手県立大学 1998年設立 滝沢市巣子 通称 県立大・県大、IPU 


看護学部

社会福祉学部

ソフトウェア情報学部

総合政策学部

盛岡短期大学部 1946創立 1951年設置 同じ場所 盛岡短大 詳しくは下記参照

宮古短期大学部 1990年設置 宮古市 通称 宮古短大





私立

盛岡大学 1950年創立 名前を変えながら1981年に盛岡大学設置となる。滝沢市砂込(県立大の少し北に位置する) 通称 盛大


文学部

英語文化学科

日本文学科

社会文化学科

児童教育学科

栄養科学部

栄養科学科

盛岡大学短期大学部





富士大学 1965年創立 花巻市 通称 富士大

単科大学(小規模で単一の学問領域、総合大学の逆)

経済学部

経済学科

経営法学科

経営情報学科





岩手医科大学 1897年創立から名前を変えて1947年設置  東北地方で唯一の私立医学部

大学附属病院として、

盛岡市にある岩手医科大学附属病院(1,166床)

附属PET・リニアック先端医療センター

花巻市に附属花巻温泉病院(150床)がある。

医学部の推薦入試では、岩手県内の高校出身者に対して募集人数の面での優遇処置がある。

医学部 医学科

歯学部 歯学科

薬学部 薬学科





校舎を矢巾に移転





北里大学海洋生命科学部 1962年設置 通称 北里(きたさと) 

東日本大震災の被災のため、相模原キャンパスに移転

三陸臨海教育研究センター(大船渡市)

本部 白金キャンパス(東京都港区白金)

相模原キャンパス、十和田キャンパスもある







短期大学



公立




岩手県立大学 盛岡短期大学部 1946創立 1951年設置 滝沢市巣子 盛岡短大

かつては盛岡市住吉町にキャンパスが置かれていたが、滝沢にある県立大学に併設された

旧キャンパス跡地は現在岩手県林業公社が利用している

客室乗務員内定実績が高い

生活科学科

生活科学専攻

食物栄養学専攻

国際文化学科(英語、中国語、ハングル語、ロシア語)





岩手県立大学 宮古短期大学部 1990年設置 宮古市 通称 宮古短大

経営情報学科






私立




盛岡大学短期大学部 1950年創立 1964設置 滝沢市砂込 通称 盛短

キリスト教の思想に基づいた教育が行われている

かつては盛岡市みたけにあったが、移転して付設短大となった

幼児教育科(幼児英語など)

資格取得は保育士資格、幼稚園教諭二種免許状

就職は幼稚園や保育園への就職者が多い





修紅短期大学(しゅうこう) 1899年創立 1953年設置 一関  

命名は裁縫女学校が起源である裁縫「修紅」学校に因んでいる

幼児教育学科

食物栄養学科






新聞


岩手日報(盛岡市)シェア1位 八戸市(青森県)や気仙沼市(宮城県)周辺も守備範囲

店頭売価は110円から130円

IBC岩手放送は同社創立時から強力なパートナーシップを築いている(他局との結び付きもあるが)

番組欄の一番左端がIBC

2010年に夕刊の休刊をした(インターネットや携帯の普及による発行部数が落ち込みで配送・販売・配達コスト削減)




盛岡タイムス(同)

胆江日日新聞(奥州市)

奥州平泉観光新聞

岩手日日(一関市)

岩手日日たんこう

岩手日日きたかみ

岩手日日はなまき

岩手東海新聞(休刊中、釜石市)

東海新報(大船渡市)

デーリー東北(支局)


TV局

IBC岩手放送:IBC

テレビ岩手:テレビ岩手

岩手めんこいテレビ:岩手めんこい(番組紹介欄では「めんこい」)

岩手朝日テレビ:岩手朝日


方言

4つの地域に分類される

北部方言地域 洋野町から西和賀町まで秋田・青森県に隣接する帯状

沿岸方言地域 久慈市沿岸から大船渡市北部まで

中部方言地方 盛岡を中心に遠野市中部・北上市北部まで

南部方言地方 金ヶ崎町から釜石市まで


特産品



前沢牛 

奥州市前沢区で肥育された黒毛和種の和牛

岩手県では古くから農業の労働力を補う牛の飼育が盛んであった

1970年代から徐々に肉牛としての生産が活発化

1980年代には全国肉用牛枝肉共励会にて名誉賞を獲得






江刺りんご

奥州市江刺区のリンゴ

江刺りんごは販売ブランドであり、品種ではない。

江刺は昼夜の気温差が大きい、石灰とリン酸が多い土壌でこれが適し、ほどよい甘酸っぱさでコクのあるリンゴが生産が可能。

品種はジョナゴールド、サンふじ、シナノゴールド、紅ロマン(2010から) 等

江刺りんごの等級は5つあり、「特選→特秀→秀→○秀→特」

特選は全収穫高の1% 1箱(10kg。28個入り)で100万円以上

正規品は「JA江刺」と印字されている(色・大きさ・形・糖度などを一定の基準で選果したもの)

江刺でとれたりんご=江刺りんご ではない






三陸わかめ

沿岸漁業の養殖漁業では、ウニ、ワカメ(全国収穫量の約7割を占める)、

その他 カキ、ホタテ、ホヤなどが主要産物


三陸沿岸は、わかめが育つ好条件がそろう漁場

1.リアス式の海岸が深く切り立っていて潮の流れが良い

2.また親潮と黒潮が交わる海の栄養が豊富

3.沿岸の森林からの森の栄養が流れ込む


切れこみが深く、肉厚で弾力があり、風味豊か







白金豚

花巻市の養豚メーカーである高源精麦株式会社が、 飼育配合から出荷まで一貫体制で生産している豚肉

奥羽山脈・北上山系の地下水を利用したミネラル水を与えて育てている

プラチナポークとも呼ばれる



レストラン専用の肉であり、小売店での販売は原則として行われておらず、内臓肉の販売も行われていない

宮沢賢治が『フランドン農学校の豚』にて豚を白金と同等のものだと例えたことに由来する

きめこまやかな肉質と、柔らかくしっとりとした舌触り、脂身の甘みが特徴





いわて短角牛

南部藩の時代に南部牛は物資輸送として使われていた。

明治時代にショートホーン種という牛が輸入され、南部牛と交配、品種改良が行われる。

昭和32年にいわて短角牛が誕生。

黒毛和牛と違い赤茶色をしていたので、「赤べこ」とも呼ばれる。


脂肪分が少ないヘルシーな赤身肉、かみしめる食感と肉の旨さを味わう牛肉








南部せんべい

旧八戸藩地域に伝承の焼成煎餅

南部藩の領域で主に生産されてきたものであるが、旧仙台藩にあたる岩手県南部でも生産・消費されている

天皇はその風味を非常に好んで度々、赤松助左衛門に作らせ、天皇は煎餅に赤松氏の家紋「三階松」と南朝の忠臣、楠木正成の家紋「菊水」の印を焼きいれることを許したという説。

秋田戦争で八戸軍兵士たちが戦場でそば粉に胡麻と塩を混ぜ鉄兜で焼いて食べたという説


キリストがゴルゴタの丘で処刑を逃れシベリアから日本に渡来して、パンとして作ったという説


など

色んな説がある

昭和20年代初頭に、八戸煎餅組合によって「南部せんべい」の創始起源の再整理が行われた際、長慶天皇創始説を中心に整理された


元々は八戸藩で作られた非常食

小麦粉を水で練って円形の型に入れて堅く焼いて作る(日本の古い煎餅作りの方法)

ゴマ、クルミ、落花生、イカ、カボチャ、リンゴ、ココアなどバリエーションが豊富


白せんべいはそのまま食べる他に、水飴や赤飯を挟んで食すこともある


せんべいのみみ  せんべいを丸く仕上げる過程で、型からはみ出してしまった部分は切り落とされる(地元で人気)

せんべい汁  青森の南部地方と岩手の県北地方の周辺でおつゆに入れて食される。すいとんなどに似た味わい





ゆべし

源平の時代に生まれたと伝えられる

東北・北関東近辺のゆべしは、クルミの餅菓子

西日本で主流とされる柚子の菓子


柚子の産地から距離があり材料として使われにくかったため、材料として入手しやすかったクルミを入れる


全国的に様々な種類がある







まめぶ汁 

久慈市、九戸の郷土料理

クルミや黒砂糖を包んだ団子を、野菜、焼き豆腐、油揚げ、かんぴょう等と共に昆布と煮干しの出汁で煮込んだ料理


冠婚葬祭時のハレ食として作られる料理

慶事には団子を大きく、凶事には団子を小さく、出汁を昆布のみの精進料理にすることで区別している

2011年東日本大震災以降、炊き出しとともに広まる

ドラマ『あまちゃん』内で紹介される

B-1グランプリ 2013年大会は過去最高の5位




















stay gold