岡山観光その6 倉敷散策 | にちにち散歩

にちにち散歩

オタクな二人暮らし主婦のどうでもいい日々。着物のお直しやベランダガーデニング。あとオタ趣味や散歩したことなどを綴ります。筑前国審神者。

 

岡山観光その6 倉敷散策

 

6月が終わりそうなのに、GWの旅行の投稿が終わりません笑

 

でも気にせず、続けるで~ニヤニヤ

 

 

旅行三日目は倉敷へ。

 

連泊しているザ・ワンファイブ岡山ある岡電の城下からJRに乗り換えて45分くらいです。

 

 

 

 大原美術館

 

 
まずは倉敷観光で絶対に外せない、大原美術館へ。
 
大原美術館は日本で始めて西洋美術品を展示した美術館
 
設立者は、倉敷を拠点にした大原財閥の当主大原孫三郎
大原家は代々倉敷の大地主であり、親の代から倉敷紡績(クラボウ)を経営。
中国銀行や中国電気の前身になる会社の社長もしており、とんでもないお金持ちです。
 
自身も骨董品に目がない孫三郎は、芸術家たちと深く交わり、パトロンとして支援していました。
その中のひとりである岡山出身の西洋画家児島虎次郎に、西洋美術やエジプト、中国、アラブなどの世界各国の美術品を大量に集めさせ、その美術品を展示するために作られたのが、大原美術館です。
 
入館料2000円……お高い~笑い泣き
 
巨匠たちのすんごい作品がいっぱいあります。
モネの『睡蓮』が有名ですが、ゴーギャン、セザンヌ、モディリアーニなど見たことのある作品が、まぁ~ごろごろと!!
 
恐るべし、大原孫三郎のマネーパワーポーン
 

あ、大事なことを!

音声ガイドを利用するには、自分のイヤホンが必要なようです。

 

 

 
 
ロダンカレーの市民-ジャン=デール
 
 
 
この日はめっちゃいい天気でした。
 
 

確か東洋館の入り口。

 

 美観地区

 

 
 
かつて幕府直轄地だった、倉敷。
倉敷川の両岸には、当時の面影を残す白壁の屋敷が立ち並んでいます。
 
 

ちょうど観光川船が出ていました。

調べたら、ワンコインで乗れるそうです。(2023年6月)

 

 

 

 

 

蔦の絡まる素敵な建物。

明治22年に建てられた倉敷紡績(クラボウ)の本社工場を再開発した宿泊施設を擁した観光複合施設。

 

経済産業省により「近代化産業遺産」、文化庁より「日本遺産」に認定されています。

 

この場所、江戸時代には代官所がありました。

幕末の『倉敷浅尾騒動』で、第二奇兵隊の脱走兵に焼き払われた倉敷代官所はここです。

 

 

代官所の井戸跡がひっそりと残っています。

 

 お昼はうなぎ

 

 

GW真っ只中ということもあり、お昼の美観地区はえらい混雑。

裏通りにあった居酒屋さんでうなぎを頂きました。

 

 

 防火水槽跡

 

 

倉敷公民館にある、防火水槽跡。

美観地区は空襲にあっていませんが、沿岸部の軍用工場のある地帯は被害を受けています。

 

 観龍寺

 


 

 

平安時代に開かれた真言宗御室派の寺院です。

本尊は大日如来。

 

元々線路の北にある、西岡という地にあった大きなお寺の塔頭の一つでした。

室町時代に、美観地区のすぐ側の鶴形山の麓に移転してきます。

 

元々この地には藤で名高い阿智神社が、当時は『妙見宮』という名で鎮座していました。

 

戦国時代に妙見宮は山頂へ。

江戸時代初期になってから、今度は観龍寺が妙見宮の別当として跡地へ移ります。

 

別当というのは、神社付随の寺である「神宮寺」の寺務を司る者のこと。

 

つまり観龍寺は阿智神社の前身である、妙見宮の神宮寺となったわけです。

 

明治の神仏分離令で妙見宮は分離され、阿智神社へ改称します。

 

 

 
なかなか広いお寺です。
 

 

 倉敷浅尾騒動

 

慶應二年。

第二次長州征討直前の四月。

 

周防大島で生まれた諸隊、真武隊を中心に再編成された第二奇兵隊大きな事件を起こします。

幹部だった立石孫一郎兵の大半である100名を率いて、脱藩したのです。

 

当時長州藩は、藩主親子を引き渡せという幕府の命令に対して、のらりくらりと交渉を重ねながら、裏で薩長同盟を結びます。

しかし諸隊の隊士にまで、その内実は伝わるべくもなく。

 

藩の対応に不満を募らせた者たちが暴発したのです。

 

第二奇兵隊は士分の者とそうではない者の間で、軋轢が生じていたことも大きな要因でした。

 

彼らは船に乗って瀬戸内を進み、倉敷の代官所を襲撃。

その時、浪士達が立てこもったのが、このお寺です。

 
上差し
 
山門の左側の鴨居に槍跡が残っていました。
ちゃんと写真残しておけばよかったー笑い泣き
 
 
 
景色いいですねえ~。
正面の白い建物は公民館です。
奥の洋館は旧倉敷銀行かな。
今は児島虎次郎記念館になっています。
建物が高いので見えませんが、当時は正面奥に代官所が見えたことでしょう。
 
さてどうして彼らは倉敷の代官所を攻めたのでしょうか?
実は立石孫一郎の正体は、播磨の大庄屋大谷家の息子で、倉敷にある大商人大橋家の養子「大橋敬之助」。
 
んん、大橋?真顔
 
聞いたことありませんか?
そう美観地区に残る、重要文化財の邸宅です。

 

 

大原財閥を築いた大原家と並ぶ、倉敷きっての豪商でした。

倉敷で大商人として活躍していた孫一郎こと敬之助ですが、とある事件を起こし、倉敷から逃亡する羽目になります。

それは不正を行った下津井屋を、仲間と一緒に訴えたこと。

 

ところが役人と通じていた下津井屋は無罪放免に。

後日、敬之助の攘夷思想についての悪い噂が出回ります。

身の危険を感じた敬之助が逃亡した直後、下津井屋親子の首が川に浮かびました。

 

代官所襲撃の時、下津井屋の罪を裁かなかった代官は偶然広島へ出張中で難を逃れたそうです。

 

観龍寺で食料と軍資金を接収した第二奇兵隊。

立石孫一郎がかつての大橋敬之助だと知った商人仲間達は、快く献金してくれたようです。

 

 

 
孫一郎たちは、翌日総社市にある浅尾藩陣屋へ向かいます。
浅尾藩は蛤御門の変長州藩と戦いました。
 
その恨みでしょうね……滝汗
 
その後、幕府の命を受けた広島藩に追われ、浪士たちは国へと逃げ帰ります。
しかし藩による処罰で、孫一郎を含め80名を超える脱走兵が捕縛処刑されました。
 
 
 
阿智神社に通じる参道。
 

 

西大橋家