ここは貝塚市、泉南イオンへと繋がる道路上でエンジンを吹かす。
今日は久々の休日だ。こういう日には美味しいものを食べると決めている。
それも外食ではなく手作りだ。
僕は僕の作る唐辛子入りペペロンチーノ、スパイスの種類を絞った辛口カレー、
タバスコをふんだんに垂らしたピザ、山椒の効いた麻婆豆腐。
刺激的な美味を味わった後、熱々のコーヒーが喉を潤いと火傷のはざまへと導く。
こういう一日が、僕にとっては生きている事を感じられる唯一の方法だった。


―――そう。あの瞬間、僕はこんな事を走馬灯めいて回想したんだったか。
僕は瞼を開ける。

網膜から脳が目前に広がる情報を認識する。
白ずくめの清潔な天井、部屋、そしてベッド。
小難しく言い換えるまでもない。ここは―――病室か。

ナースコールを押すが、声が出せない。
通話機の向こうの看護師を困らせてしまうかと思っていたが、
何も言えなくてもすぐに察したのか医者が飛んできた。

それも当然か。
現在の僕には、口が無かったのだから。

 ■ ■ ■ ■

正確には、鼻と唇、顎、舌にかけての部位が引き千切られていた。
「"君達"は交通事故を起こしたんだよ。スクーターと、自動車でね。」
主治医の一言が芋づるのように僕の記憶を掘り出した。
そういえば僕は買い出しを行う為にイオンへ向かっていた。それが最後の記憶。
そこからの記憶がないという事は、そこで災難に遭った事に他ならない。

何でも向こう側のドライバーが運転中にてんかんの発作を起こしたらしく、
そのまま対向車線から突っ込んできたとの事だ。
おまけに無免許だという。
代わりに『湾岸ミッドナイト』というゲームに使うらしいカードを所持していたそうだ。
あちら側がかなりのスピードを出していたせいか両車は廃車級の損傷を受け、相手側は頭を強く打ち死亡。
こんな身体ではあるが、破片に顎を持っていかれただけに過ぎない僕は比較的幸運という事みたいだ。

自分の息子を喪ったにも関わらず、向こう側のドライバーの父親―――濱崎辰水さんは僕に何度も頭を下げた。
その奥さんの態度も例外ではなかった。

てんかん持ちの上にゲームのカードを免許と思い込むとは、さぞや異常な息子だったのだろう。
もしかして肩の荷が下りて感謝しているのでは無いか―――いや、我が子を喪って悲しまぬ親などいない。
僕には見舞いに来る親などもう居ないが、それだけは分かる。
特に辰水さんは本当に優しい方なのが伝わってくる。ここで邪推するなど、唾棄すべき行為だ。
「こちらこそすみませんでした」と何度も言いたかったが、口がないので筆談で詫びた。

 ■ ■ ■ ■

さて、スクーターはともかく顔の大部分を失ったのはつらい。
つらいというか、食事は僕にとって唯一無二の生きがいだ。
でも僕は息子を失った遺族を起訴したり、何かを請求する気にはなれなかった。
生きがいを失ったのは僕だけじゃない。
これからどう生活するかを一考していた矢先、辰水さんから予想外の申し出を受けた。

「順平の身体を使って下さい。」

僕に顎があったら口をぽかんと開けていたところだ。
順平、とは事故で死亡した相手側のドライバーの名前だが、顔部分の損傷はかなり少ない死体だと謂う。
彼の鼻を、口を、歯を、顎を、舌を、僕に移植しようというのか?

「―――私は順平に、困っている誰かを助けられる様な人間になって欲しかった。
こうなってしまったのも順平を育ててきた…私達の失態と言い換えるべきです。
だからこそ……今こそ……順平が誰かの役に立つ最後の機会です。私が順平に人助けをさせてやれる最後の好機です。
せめて最後に一つだけ貴方へ力添えをさせて頂きたい!お願いします!」


 ■ ■ ■ ■


僕はそれを承諾した。
そして、その手術は驚くほどすんなりと上手くいった。
それはもう何事もなく僕の鼻と口は、順平のものになった。
費用は折半にしたかったが、辰水さんが全て負担したいと強く断ったので僕が折れた。

そして退院の日、辰水さんが僕を見送ってくれた。

「辰水さんにはお世話になりました。貴方の……いえ、貴方と順平さんのおかげで私は元の生活に戻れそうです。」
「ははは、礼には及びませんよ。」
辰水さんは事もなげに笑っていた。
―――そうだ。僕は元の生活に戻れたとしても、辰水さん達の生活は二度と元には戻らないんだ。

「最後に、これを受け取ってくれませんか。事故で眼鏡が壊れたそうですね?」
辰水さんが渡してくれた2つの小さなケース。その中身は、新品の眼鏡と……サングラス?だった。

「順平がつけていた物と同じ種類の眼鏡です。
こちらも順平が愛用していた…オーバーグラスと言いまして、眼鏡の上から着用するサングラスです。どうぞ。」
僕は流石に困惑したのだが、辰水さんがまた笑って諭すので、その場で着けてみた。

「―――私はこれで満足ですよ。今の貴方の顔は、本当に順平を思い出させてくれます。
まるで、順平がまた歩き出したかのような…そんな気分です。貴方のこれからのご多幸を強く願います。」
辰水さんの申し出には、こういった意図もあったのだと思い返す。
少しだけ涙ぐんだのを堪えて、とうとう別れた。

 ■ ■ ■ ■

家に帰って鏡を改めて見てみると……正直、あまり"着け心地"のいい身体では無かった。
鼻はニンニクを思わせる大きさ。唇の上にはヘルペスがついているのか、薄汚く荒れている。
口は―――別の身体の部位をふいに連想したが、下品だったので言及はやめておく。

とはいえ別に問題ではない。そう、命さえあれば無問題なのだ。
肝心なのは、その命でどう楽しむか―――僕はもちろん料理があればそれでいい。
帰宅前に購入しておいた食材を調理する。
今日は豪華に作ろう。ペペロンチーノも、カレーも、ピザも、麻婆豆腐も。
もちろん食べ切れる量に調整した。瑞々しい野菜もたっぷり加えてヘルシーにした、僕だけのフルコース。

――――おかしい。
長期間の入院生活で食欲が失せたのだろうか。調理中にスパイスが、鼻腔をくすぐらない。むしろ不快感さえ覚えた。
だが手の動きはいつもと同じ。手順さえ機械的にこなせば、眼の前には慣れ親しんだ料理の完成だ。
僕はそれを舌に運んだ。
……順平の身体は歯並びが悪いのか、つい一気に吸い込んでしまった。

「ン”ン”ッ」
少し汚いが、気管に詰まってしまったカレーライスをコーヒーで流し込む。


「オ”エ”エ”エ”エ”ッ!!」

生まれて初めて味覚で嘔吐した。

これは、なんだ?
コーヒーが、まずい。おそらく僕はこの時に排泄物の味を覚えた。
すかさずスパイスの爽快感で紛らわそうとペペロンチーノを口に運ぶ。麺は何故か上手く啜れない。

「ン”ン”ッ…オ”ッ…オ”エエッ!」

刺激に耐えられない。舌が熱々のウニを転がしている。
麻婆豆腐を食べる。

「バァ”ッ……ン”ゥオ”ェッ……」

ワサビと塩酸を混ぜたような風が鼻孔を通る
胃袋からかろうじて入ったカレーつきの米と胃酸だけが流れてくる。
僕は唇からピリピリする液体を垂れ流しながら冷蔵庫へと駆け込む。何が食べたいかは分かっていた。
中に入っているデザート用のプリンを素手で貪った。

「ハァ…ハァ…!甘い…!あま………うま…。」

臓器移植すると、ドナーの嗜好や性格が伝染するという現象については知っていた。
原因は明らかになっておらず、フィクションと一蹴する研究者も居るという。
だが、これに関しては考察の余地はない。疑う理由もない。

順平の味覚は、甘いものしか食べられないんだ。
そんな舌になった僕は一生スパイスに価値を見出すことは許されず、
自分が自分である理由も掴めない、
僕が生きる意味を感じる事は、最早出来ないのだ。

―――いや、違う。その答えは、目の前にあるじゃないか。
強引に啜り食らったプリンが床にこぼれている。僕はそれを掃除するかのように舐め取った。
これからの僕の生きる理由は、甘味なんだ。

『 まるで、順平がまた歩き出したかのような…そんな気分です。 』

僕はもう、順平だ。