結婚制度について気になっていたことがあります。ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話3』(サンマーク出版、1999年)によると、高度に進化した社会では結婚という制度はないといいます。

 

一方、わたしたちが生きるこの社会では結婚が制度として存在しています。そして、結婚によって生涯のパートナーになることを約束しようとしました。しかし、「無制限」で「自由」な愛の創出にはあまり役立たなかったといいます。なぜなら、それは取引だからと。

 

あなたがこれをくれれば、わたしはこれをあげる。まるでビジネスです。契約を交わすには履行を強制する力が必要だから、神との「神聖な盟約」だということにしました。破ったら罰を受けるわけです。そして、それでもうまくいかなくなったので、人間がつくった法で強制することになりました。ところが、それもうまくいかなくなっています。

 

この考えが頭の片隅に残り、どうも気になっていました。ところが最近、インドの哲学者のオショー・ラジニーシの次の言葉に接する機会がありました。

 

「結婚とは作りだされた制度で、自然ではない。」
「しかし人びとは、恋人同士の間にある種の法的な契約を持つ必要性を見つけた。なぜなら愛自体は夢のようなもので、確実ではないからだ。それはこの瞬間には存在しても次の瞬間には消えている、というように。」

「人間も何千年もの間、結婚なしに生きていた。でも、それは個人財産の存在しない時代だった。それは、狩猟の時代であり、人間は狩人だった。」
「そこには蓄えるものは何もなかったから、結婚という問題はなかった。人びとは共同体で、部族で生活していた。人びとは愛し合い、子孫を残した。」

 

なるほど。たとえば、日本の縄文時代には結婚制度はなかったことでしょう。相続する財産もなかったのだから。いわゆる、現代人が普通に考える「愛」についても直感で、永遠ではないことも知っていたのかもしれませんね。そもそもわたしたちが通常使用する「愛」という言葉は、本来「愛」が持っている意味とは違うのでしょう。

 

これから文明の転換が起こり、女性性の時代、母性の時代、右脳の時代になると、結婚という制度も崩壊するのかもしれないと思いました。わたしの子どもの世代、孫の世代、あるいはその次の世代かもしれませんが。

 

結婚とは人間が、あるいは宗教が作り出した不自然な制度なのかもしれませんね。かといって、この人生で自分が結婚を解消する予定はありません。次に生まれ変わったときはじっくり考えてみようと思います。