文さんの被災体験記(1) | 紙風船

紙風船

中学校と高校で社会科を教えています(いました)。街探検や銭湯が大好き。ピクトグラムや珍しいものが好き。でも一番の生きがいは、子どもたちに「先生の授業、たのしい」と言ってもらえることです。

昨日1月17日は阪神淡路大震災から19年目の日でした。

能登半島地震から2週間以上が過ぎました。

ボクの知り合いで被災体験をした人の体験記を2回に分けてお届けします。

 

文さん(仮名)はボクのT中学校時代の同僚です。

若い保健室の先生でしたが,中学生に心から優しく,また愛情たっぷりにキビシク,とても慕われていた人です。

 

郷里の石川県に戻り高校勤務になりました。

ご結婚されて,双子のママとなった今も勤務を続けています。

ボクとは時々メールでやりとりしています。

 

その文さんが能登半島地震で被災してしまいました。

 

幸いご無事でしたが,大変怖くツライ体験をされています。

今回ボクの願いをうけて体験をいろいろと教えてくださいました。被災地のリアルな状況や被災者の心理を知ることは,

今,私たちが被災者の皆さんに何ができるのかを考える基本になります。

被災者ではない私たちだからこそ,政治を動かす世論をつくることができるかもしれません。

そして,東京に住むボクとしては,いずれは襲来する首都圏の大災害に対して,個人的にどのような備えをしておく必要があるのか,政治をどのように動かしておかなくては(自分の命が危ない)いけないのか考えるきっかけになると思うのです。

 

文さんのお許しをいただいて,一部プライバシーに配慮した以外は,ほぼ原文のままお伝えします。

 

ボク→文さん(1月13日 6:48)

文さんへ,Nです。

おはようございます!

お元気ですか?

 

1日の大地震以来,ずっと気になっていましたが安否確認などはご迷惑かと思い控えていました。すでに3学期が始まっていると思いますが,文さんの地域や学校などは通常に活動できているのでしょうか。

もしお時間があれば状況を教えていただき,ボクができることがあれば教えてください。

 

文さん→ボク(1月13日8:37)

おはようございます。

お気遣いありがとうございます。

また時期をみてご連絡くださり,感謝いたします。

無事元気に生きています!

 

A市(ボクたちの勤務校があった)も揺れたと聞いていますが,東京も揺れたのでしょうか。

私は,1月1日に主人の実家である能登町におり被災しました。家族・親戚は皆無事でしたが,義実家はすぐに住める状況ではなくなったので,近くの小学校に3日まで避難所生活をしておりました。1日,地震の後すぐに金沢に帰ろうとしたのですが,道の亀裂で車のタイヤはパンクし,土砂崩れで道が通れなかったため,能登町に留まるしかありませんでした。

 

3日金沢に帰ると一部被害はあるものの,ほぼ通常運転で,勤めている高校の他,金沢市にある高校はほぼ予定通り9日(火)に始業式を行うことができています。

 

能登から命かながら帰ってきた人にとっては,加賀(金沢)の通常モードにギャップというか違和感というか。

能登は戦場と化しているのに,金沢はなぜこんなに普通なの?

普通に過ごして申し訳ないという気持ちになります

N先生にお電話しようと思ったのですが,子どもが寝ているのでメールさせていただきました。

 

地震のあった当日のことをお話しさせてください。(私も話すことで自分の気持ちを落ちつかせているところがあるのでお付き合いください)

 

能登町は奥能登であり,珠洲市の手間に位置します。

能登町といえど主人の実家は旧Y村の山間部になります。

被害の大きかった珠洲市や輪島市に隣接しますが比較的被害が少なかった町です。

 

地震があったお正月の午後4時頃は,金沢からY村に到着したばかりでした。

ダイドコ(村の言葉で茶の間をさします)で義両親・義祖母・主人・双子の子ども・私の家族の計7名で団欒しておりました。

そこへ1回目の揺れがきました。テレビをつけると震源は珠洲沖。M5.5最大震度5強(Yは体感で震度4くらい?)

奥能登の人にしてみれば,2023年5月5日の珠洲地震(M6.5最大震度6強)以来,余震が続いており,「またか…」という感覚です。

義両親は「まぁ,大丈夫でしょう。近くの温泉でも行ってくれば?」といいました。

でも,熊本地震は2回目の揺れの方が強かった(N先生から習ったと思う)ので,少し様子をみようとしばらくテレビをつけていたら,今まで経験したことのない激しい横揺れがきました。2回目はM7.6最大震度7(能登町は6弱)

 

私はとっさに子どもの頭と義祖母の頭をコタツの下に入れ,自分も同じく頭を隠しました。しかし,揺れはなかなかおさまらず,家がギシギシと音を出しました。壁が剥がれる音やガラスが割れる音がして「あぁ,これ以上揺れが続くと家が潰れる…潰れたら死ぬな。とにかく子どもだけは助かって欲しいな」などと冷静に考えておりました。揺れが長すぎて,子どもが怖がっているだろうと思い「早く終われ‼︎もう大丈夫,大丈夫,もうすぐ終わるから大丈夫,大丈夫」と声をかけていました。東日本大震災のときに中学校で経験した揺れよりも,はるかに激しく長い揺れでした。

 

ようやく地震がおさまり,家の倒壊は免れ,一安心。コタツから顔をだすと,変わり果てた茶の間の様子に,家族みな驚き,私は「命だけでも助かって良かった」と言ってしまいましたが,家に命をかけている義実家は我が家の変わり果てた姿にショックを受けている様子でした。

 

すぐに余震がきたので,一旦崩れかけの家から外に出ようと外にでると,ご近所の人が皆外にでておりました。電信柱が傾き,瓦やガラスの破片が道に落ち,外に出ても安全な場所を探すのが難しいくらいでした。

余震が何度もあり,やはり家は危ないと,近くの小学校に避難することになりました。

 

あ,N先生,メールの最中ですが,子どもが起きて泣き始めたので,避難生活メールまたします。

本当にメッセージありがとうございました。

 

ボク→文さん(1月13日11:14)

文さんへ,Nです。

返信ありがとうございました。

まずはご家族が無事で何よりです。

しかし,能登半島にいて被災されていたとは思いもよりませんでした。生々しい体験と,金沢に戻られてからのギャップが特に印象的です。

 

時間をおいて構わないので,ぜひ続きをお聞かせください。

 

 

文さん→ボク(1月15日 0:24)

こんばんは。

長いメールを読んでくださり,ありがとうございました。

14日(日)は,Y村に置き去りになっているパンクした私の車を取りに行こうと予定しておりましたが,前日の降雪と道の凍結で断念しました。

N先生のブログに書いてあった通り,石川県は今後しばらく雪が降り,何事も思い通りには行かなくなります。

 

集団疎開の発想,いいですよね。

ケアが必要な人をまず被災地から安全な場所に移動させる。

でないと,言い方は悪いですが,

手がかかる人が被災地に沢山いるのでは前には進まない。

関連死が増えるだけです。過去の大きな地震からも明らかです。

 

話は避難所生活になりますが,

1月1日の地震直後に近くの小学校に避難しました。

元旦なので,当然学校職員はおらず,玄関の鍵も空かない,役場の人もきていない状態でした。

私たち家族は車中泊をしました。暗い中,Yの人が次々と小学校に避難してきて,車がいっぱいになりました。電気・水道・ガス・ネット環境が断たれておりました。トイレも人目のない所で済ませるしかありませんでした。

 

情報は唯一,車のエンジンをかけた時につくラジオのみ。ラジオでは津波のことばかりアナウンスしておりました。果たして震源はどこなのか,能登町は震度何くらいだったのか,自分たちが置かれた状況が全くわかりませんでした。

 

ガソリンがもったいないので,エンジンをつけたり消したり。

余震と寒さで,今後どうなるのか不安すぎて全く眠れない夜でした。唯一助かったのは4歳の双子がグーグー眠ってくれていたことでした。

 

1月2日朝,体育館がようやく避難所らしくなり,役場の人も数人集まってお世話をしてくださるようになりました。

2日は午前10時に,朝と昼を兼ねて備蓄してあったα米が配られました。停電と断水でうまくお湯が沸かせなかったのか,ぬるま湯で戻したα米はパリパリで4歳の子どもが可愛そうでした。しかし,お腹が空いていたのか美味しそうに食べてくれました。(そういえば1日夜は何も食べていなかった)

 

体育館には100名ほどの避難者が集まっていました。昨年5月の珠洲地震で備蓄してあったのか,皆に行き渡るほどα米がありました。当然,道が土砂崩れで外部から入れないため自衛隊は来ず,夜は備蓄のお菓子とお茶の配給しかありませんでした。何も持ち合わせていない旅行者さんはとても可哀想でした。

 

体育館の避難者の誰かがずっとつけてあるラジオでやっと,「珠洲と輪島がひどそうや,輪島は燃えとるらしい」という情報が入ってきました。また2日の夕方には,カイロが沢山届きました。自衛隊からではなく,どうも誰かが金沢から持ってきてくれたらしい…との

…ってことは金沢まで帰れるのかと期待しましたが,もう夕方。薄暗い中,亀裂が入りまくりの危険な道で帰るのは諦めました。電気がつきませんので,5時すぎには体育館は真っ暗で寝ました。能登で雪遊びをしようと子ども用のスキーウェアを持ってきていたので,何とか子どもたちは寒さをしのぐことができました。私は前の日に車で眠れなかったので,すぐに眠ってしまいましたが,余震がひどく,その度に起きていました。

 

役場の人は玄関で座ったまま寒い格好をしていました。避難者に布団や毛布を渡し,自分たちは金銀のレスキューシートで寒さをしのいでいました。役場の人は避難所のお世話で眠れてておらず,他の役場や外部と通信が取れない状況だったので,独自で避難所運営をしていたようです。

 

3日朝5時に金沢に向かいそうな人を探して,数組で一緒に帰る約束をしました。情報は人伝いに,なんとか珠洲道路が仮開通し,穴水までは行ける…迂回路をたどると金沢に帰れるらしい…ということしか分かりませんでした。また自分たちが道中で何かあった場合に救助し合わないといけなくなるかもしれませんでしたので,複数組で帰る必要がありました。

 

金沢への出発の前,避難所には高齢の義祖母84歳もいたので,義両親(65歳)に,私は言いました。

 

「自衛隊もまだきません。一度,一緒に金沢に来ませんか」

…義実家の人は金沢に行こうとはしませんでした。

 

37歳の私でも避難所生活はキツかったし,避難所に1人でも2人でも避難者が減ったほうがいいと思っていました。

しかし,Y村育ちの主人は「絶対こんよ。年寄りは違う所に行ったほうが調子が悪くなる。金沢いくんならここで死んだ方がマシやとおもっとる。お前は田舎のことが何も分かってない。婆ちゃんは若い頃から家と田んぼの往復しかしていない。他所で暮らせるわけない。じいちゃんが苦労して建てた家もあのまま放っておけない。しかも職場も家も村の人も置いて自分らだけ金沢に行けるはずないやろ

 

―― 私は一回金沢に行って,元気になったら戻ればいい,風呂だけでも入りに来たらいいと思っていましたが,そういう訳にもいかないよう。

 

結果的に私たち家族4人だけが金沢に帰り,義実家3人はY村に残り,避難所生活を6日まで続けることになります。

 

地元に愛着のあるお年寄りが「集団疎開案」を拒んでおり,説得するのに馳石川県知事も苦慮しているようです。

「また,元気になって能登に戻ってきて祭を復活させよう」と説得していると地元紙に載っていました。こんな非常事態でも,まだまだ危険がいっぱいで不便な能登半島でも,その土地でしか暮せない人が沢山いるようです。

 

ちなみに,Yのその後の状況は,小学校の避難所に給水車が来たのは5日,自衛隊がきたのは6日,電気がついて何とかバタバタの家に帰りスマホで連絡がとれるようになったのも6日,自衛隊のお風呂に入ったのは12日(1日からお風呂に入っていません)だそうです。断水は14日現在も続いており復旧のめどがたっていません。

 

長くなって申し訳ありません。

N先生の感想やお考えを聞きたいです。

 

 

ーーここまで。続きは明日お届けします。

 

あなたはここまで読んでどう思われましたか。