それぞれの「8月15日」 | 紙風船

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中学校と高校で社会科を教えています(いました)。街探検や銭湯が大好き。ピクトグラムや珍しいものが好き。でも一番の生きがいは、子どもたちに「先生の授業、たのしい」と言ってもらえることです。

今日は8月15日。「終戦記念日」呼ばれています。

 

昨年のこの日,そして数日にわたり書いたブログがあります。
その頃はまだ,ボクのブログを読んでくれていた方が今よりもはるかに少なかったので笑い泣き,まとめて再掲します。

長文になりますが,最後までお付き合いいただけると幸いですニコニコ

(1)父の8月15日
 ボクの父はもう亡くなっている。1921年3月に東京・渋谷で生まれた。1945年8月15日,父は24歳。兵役につかず東京・狛江の軍関連の工場で働いていた。
 昼,従業員が呼び集められた。そこで聞かされたのが,いわゆる「玉音放送」だった。
ここからは晩年の父とのやり取り--
父「ラジオはピーピー言ってよく聞き取れなかった。でも,戦争に負けたということは分かった」
私「放送を聞き終わった後はどうしたの?」
父「別に,そのままみんな仕事に戻って,終わりまで働いたさ」
私「・・・」
--意外だった。もっとすごい心の動き(喜び?安堵?悲しみ?怒り?)が巻き起ったり,会社や世間は大騒ぎになっていたりしたのかと思っていた。

父「それで夜,家に帰ってな。飯食って,ふと思ったんだ」
「あぁ今日から電燈を明るくしたままいられるんだ」
(当時は米軍機の空襲を避けるために,民家の電燈は消灯させられたり,明かりが漏れぬように覆いをさせられていた)
父「あの時初めて“あぁ戦争が終わったんだ”と思ったよ」
私「・・・」
--ボクはもう言葉を継ぐことができませんでした。

 この世界の片隅に,東京の片隅に生きていた父,生き抜いた父の言葉。一人ひとりの「歴史の証言」。誰かが記憶して,誰かに伝えていく。「明るい夜」があたりまえの日々を,あたりまえに続けるために。




(2)韓国の8月15日①
 今からもう29年も昔のこと。高校時代の友人から久しぶりに電話が来た。
「夏休みに韓国へ行こう」という誘い。お隣の国なのになぜか機会がなかった。快諾し8月の盆休みに行くことにした。彼の会社に旅行を手配する部署があるというので任せた。
 数日後に電話が来た。
彼「日程を変えようぜ。8月15日に韓国にいるのはまずいらしい」
ボク「?」
彼「その日の前後は反日感情が高まるんで旅行はやめた方がいいってさ」

 8月15日は,日本では「終戦記念日」と称されているが,韓国では「光復節(こうふくせつ・クヮンボクチョル)」。大日本帝国が連合国軍に無条件降伏したことで,長きにわたる植民地支配から解放されたという記念日(祝日)なのだ。さすがに「社会科のセンセイ」だけに,そのことを知らないわけじゃない。でも,旅行の日取りを決める際に,まるで意識に上らなかった。恥ずかしい・・・。


 相談して7月末からにずらすことにして韓国へ向かった。
それがボクと韓国の縁の始まりだった。

(3)韓国の8月15日②
 この旅行で知り合った人とボクは結婚した。韓国人の女性だ。
結婚した年の8月15日。ボクたちは韓国にいた。
奥さん「行ってみようか」
ボク「どこへ?」
奥さん「光復節」


なんとソウル市庁前だったかで開かれる大規模な「光復節」を祝う集会を見に行こうというのだびっくり

 

「いいのか?」と一瞬ためらったが,好奇心の方がはるかに勝るのがボクの性分。会場が見えてきた・・・奥さんが,真顔になって声を潜める。
奥さん「絶対声を出しちゃだめよ」
ボク「なんで」
奥さん「日本人ってわかるでしょ!」
 

えぇ~そんなに心配するなら連れてこなかったらいいのに~ガーン

 大勢の人が詰めかけていたが,日本人はボク一人だけ?。息をひそめるどころか,息を止めるような気分で30分ほどで広場を後にした。

(4)韓国の8月15日③
昨日(2020年8月15日)の奥さんとの会話。


ボク「今日は8月15日だね。おめでとう」
奥さん「えっなんで?・・・お盆だから?」
ボク「クヮンボクチョル(光復節)」
奥さん「えっ・・・あぁ・・・いやだぁ忘れてた。もう日本に長く居すぎ~」

今日は8月15日。

日本でも,韓国でも,朝鮮でも,「1945年8月15日」を胸に抱いて,人々が集まる。


その思いは,きっと,一人ひとり,同じじゃない。

 一方で,「1945年8月15日」を忘れていく人,その日になんの感慨も持たない人々が増えていく。

「明るい夜」があたりまえの日々が,

あたりまえに続いていけばいくほど,

「1945年8月15日」は,

人々の心から遠ざかっていく。

 それは・・・どうなんだろう。良いことなんだろうか。それとも・・・。