去年12月23日に御逝去されていたことを、
今頃知った愚か者です・・。
 
監督のブログにコメントしたことを切っ掛けに、監督主宰の時代劇WSへお誘いいただき、2010年3月に参加させていただいたのを皮切りに、ほぼ月イチ開催の同WSで通算3年間(~2014年2月。途中の1年は中国での俳優活動の為休止)参加し、時代劇を軸とした映像演劇を学ばせていただきました。
 
その御縁での実践現場も経験。

 

●アトリエ公演『月の城』(2011)

  侍大将-袋井軍兵衛(月組)

  鉄砲組組頭-乾又八郎(城組)※二役

●TBS『水戸黄門』 43部20話 日光編(2011)

  十郎太

●舞台『大奥春秋』(2012年)

  妙厳寺住職-日旬

 
無茶苦茶遅ればせながら、訃報に触れたことで判明したこのブログの監督関連の記事ざっと60件
WSや撮影現場での学びや、別のWSや現場での言葉や感情のリンク、日常での「あ、この言葉(考え方)って監督の受け売りだったんだ」的な気付き等に再会し、改めて学ばせていただいた気がします。
 
と言うことで、以下、
監督から直接いただいた言葉をメインにした、
僕なりの追悼をさせていただきます。

 

私自身、何が本格的なのか説明出来ません。
リアリズムを追及した時代劇でもなく、反対に様式美を大事にした時代劇をやろうと言う気もありません。
江戸という時代、支配、搾取、抑圧、差別の封建社会。その重圧の中で人々が苦痛に喘いで暮らしていたかというと、自分の幸せだけに留まらない心の豊かさを持ち合わせた人間がいたことは事実です。
それを伝えていくために時代劇をやるのだと思っています。

「形(所作)では無く中身(心)」
心の動きを伴わない所作(形)が、如何にチグハグで滑稽なものか。特に映像だとそれが顕著。

現代劇・時代劇問わず、全てのお芝居に共通する“そこに生きてる生の人間(の感情や生理)を素直に演じる(表現する)”と言う「本筋」をきちんと理解し、身に付けた上での「個性」。

「(余計なことは)何もするな」

「(君は)目が優しいんや。もう一皮向ける、もう一段階上のレベルに行くには”それ”やぞ」

「観客を納得させる芝居(動き、表情、間等)をしなさい」

「段取りじゃなく”気持ち”で動け(動かせ)」

「思わず感動したよ」
※一度も台詞トチらなかったし詰まらなかったことにw
「それを財産にしろ」

音楽の世界も、絵画の世界も、まずは先人のコピーから始まると思っています。自分流を築く前に、まず完全コピーも自分の持つ個性を出す引き金になります。言葉遣い、身のこなし、目配り一つに至るまで、コピーしてみる。

「ブログの背景を黒から白に変えなさい。その方が絶対いいよ」

「まず拠点を確保。疲れを癒す場所から次の飛躍へ臨んでください。」

※ネット難民時代にいただいた言葉

「芝居とは優しさであり愛」
芝居で言うそれは“相手の芝居を邪魔しない”と言うこと。台詞をトチったからと言ってすぐそれを顔に出すと、その瞬間に芝居の“流れ”が止まってしまうし、それによって相手の創りあげる役としての感情も切れてしまう。

自分では無く“相手がやりやすい様にする”事が、お芝居をする上で必要な「愛」であり「優しさ」なんだと言うこと。その為に最低限守るべきマナーが「台詞は完璧に覚えておくこと。これは役者としては至極当たり前のこと。それはただ単に暗記出来ていると言うレベルでは無く、“現場でどんな不測の事態が起ころうとも”のレベル。


大勢の前でお芝居すると言う事での「緊張」もそうだし、実際に相手役を立ててやりとりをする中での「感情の変化」もそうだし、手足や身体の動きが付いたり、その動きが途中で変わったり、或いは小道具を使ったりと言う「状況の変化」、人や動物を含めた“動くもの”を相手にした時の想定外の動きへの「心の動揺」に際しても、決して揺るがないレベルで叩き込まれていなければ、それ以外がどんなに上手くてもお話になりませんよと言う事。

「(自分の都合で)勝手に芝居を止めるな!」

「何も無い稽古場では決して生まれない、体感することの出来ない、いろんな意味の“リアル”を与えて(教えて)くれるのが生の現場。」

「現役の監督がやってるWSと言うことをもっと真剣に受け止めなさい」

「お芝居を学ぶ場ではあるけれども、或る意味オーディションでもあるのだから、もっと本気をぶつけて来い!」

「こうして自然の中で演技すると、作られた表情とか声とか動きとかが、如何に不自然に映るのかがわかるだろ?風、緑、地面、雑音、光、影、空気、匂い・・そこにいるだけで声も表情も動きも変わってくる。それが映像演技と言うヤツだ」

「映像(フレーム)の中での「約束事」は最低限キッチリ守る事。」
映画、テレビ含めて、演技を行う為の空間は四角く区切られ、演劇舞台よりも遙かに「小さな世界」です。
その小さな世界で生身の人間を演じるためには、その基本となる互いの立ち位置や歩く方向が、計算されて決められます。
 

これを「段取り」とひと言で片付ける事は容易いですが、その段取りの中で決してそう(段取りに)はなっちゃいけないものがひとつ。(基本以外は或る意味「自由」)それが「感情」


「感情とは(内側から自然に)湧き上がるもの」

つまり、台詞がそうなってるからと、“らしく”や“つもり”で外側から作ったものじゃ無く、相手の言葉や感情、状況、空気に「反応」して、身体の内側から沸き出る役としての感情で動くこと。
それが出来れば、例え動きそのものはあくまで段取り(約束事)だとしても、その動きに本物の感情と言うきちんとした「意味(理由/必然性)」が見ている人にも裏付けされるから、そこにリアリティが出て「生きた言葉と動き」となる。

「自分がやりたい事をやる=アマチュア(趣味)
役がやるべき事をやる=プロ」

「何故こう言うのか」「何故こう動くのか」「何故・・」
その役を演じる上で「やるべき事」は何かを考える(創意工夫)。
人の心は「技術」だけでは動かない。
「自己」と言うモノが確立されている事。
言葉とは「心の響き」であり、テクニックでは決して無い。
 

究極の演技とは、それが演技には見えない演技。
その技術が自然に見えるようにするのが稽古の目的。

「下手な俳優ほど(だけが)、テキストに感情の解説を書込む。」

「下手なオーディションよりよっぽどチャンスのあるWSなのに、そこら辺の熱意がちっとも伝わってこない。そんなんで“いつかチャンスが”なんて掴めるはずが無いだろ?」

「(他人が演じる)映画を見に行くよりも、“生身の人間をもっと愛しなさい”」
僕ら俳優の仕事とは、生身の人間(他人)を生身の自分が演じる事。その演じるべき人間そのものをまずは理解する事が先決。
 

その為には、もっと周りの人間を観察し、触れ合うことでの感情の変化なり、仕草と言った動きなりを生で体感して、それを演技素材?感覚?として日々蓄えるプロセスが大切。


それは自分独りの頭の中だけの想像では決して出来ない事だから、だからもっと周りの人を愛して(心を開いて)積極的に触れ合いなさい。その中で演技(表現)者としての自分の感覚、感性を養いなさい。

演技とは表面上「言葉と言葉」のやり取りだけど、その実は、日常とまったく同じ「心と心」のやりとりである。
大声を出して叫ぶ、優しく小声で囁く、そこにどう言った感情(想い)がこもっているかで、同じセリフなのに聞こえ方(届き方)がまるで違うし、そこに想いが無いと、最早それは言葉では無くただの活字か、極端に言うなら、機械音声の様な、感情の琴線に触れないただの音だけの存在と化してしまう。

「たったひと言でも人格は表現出来る」

 

最後に・・、

打ち上げで御一緒したカラオケで、「大好きな曲」と嗚咽混じりに歌われていた、オフ・コースの『言葉にできない』の一節を贈らせてください。

 

あなたに会えて

ほんとうによかった

嬉しくて 嬉しくて

言葉にできない

 


 

ありがとうございました!

 

お願い