居合いの極地「神速」とは?
こちらは柄にすら手を掛けず、しかも立たずに座ったまま。
おまけに“相手はとっくに刀を抜いて”今にも斬りかかる体勢を整え準備万端。
その状態で如何に相手に悟られず、相手より速く抜き附けられるか?
そんな究極の「絶対不利」を打破するにはどう“動く”といいのか?
・・を追求した武技。

それが“剣術の精髄”とも呼ばれる居合いである。

既に立って構えてる者と、座ったまま柄に触れてすらいない者。
普通に考えれば、立って構えてる者が圧倒的に有利である。
「普通に」考えれば・・だ。

その「普通(常識?)」と言う固定観念こそが、絶対不利を“逆転有利”に変える要因となる。
結論から言えば、真に神速を極めた剣(拳)士の前では、先に動こうと動くまいと、どちらにしても対手の方が「先に」ダメージを被ることになるのだ。

そしてそれは武器術のみならず「無手術」、即ち僕が主軸としている空手にもそのまま活かせるのである。

以下は常日頃僕が念頭に置き、到達(したいと願う)目標に掲げている某先生の語録です。

●現在、よく“正しい何々”と銘打って現代武道が盛んに行われているが、それらはまったくのスポーツ理論に基づいた運動法則ばかりである。我々日本人の祖先達が練磨したものとは似て非なるものどころか、武道の形態をしたまったく別種のスポーツ競技となってしまっている。例えば、剣道に於いて足捌きが大事と言い、“正しい足の踏み方”についての現代的定説がある。そして、それは往時の撞木足、一文字の足構えを強く否定するものである。しかし、古くは飯篠長威斎の香取神道流を始めとし、塚原卜伝の新当流(卜伝流)、上泉伊勢守の新陰流、宮本武蔵の二天一流などその他諸流を見渡しても、その現在否定された足構えを非常に多用している。というよりも、まずその足構えを出発点として我々の及びもつかない術の世界へ到達しているのである。その結果としての自然体、無構え、自然歩法の身体の捌きなのである。人の身体というものは意の如くにはとても働いてはくれぬものである。それをただ動くのではなく、精妙な“術”と呼べるほどのものとして動けるようにしてくれるものが、その足構えを基礎とした術理術法に則った型である。その型を修練する上で根底となる腰構え、足構えを否定してしまえば、古人の到達し得た単なる技術的な段階のものですら体得することは不可能である。

●“体育”として見た場合ですら、スポーツに変容した武道ではどうしても相手を投げたり、打ったり、突いたりの目先の結果ばかりを追い求め易くなる。その結果、粗暴な感覚での粗暴な技―“技”とは言えぬが―しか生まれてこない。(中略)相手を打つ、突く、倒す、投げるなどということはどういうことなのかということを、まず見直すべきであろう。(中略)例えば柔術に於いて人を投げたり捕まえたり、剣術や居合術で人を斬るなどという型は何を意味し、教えようとしているのであろうか。柔術に於いて人を崩し、投げ、倒すということは、その相手を崩し、倒すのでは無く、まさに自分自身の身体の高度な体捌きそのものによって、その結果として相手が崩れ、倒れあるいは投げられて飛んで行くということなのである。

●剣術も居合術も武器を使用するという点では柔術と異なっていても、“身体を捌く”と言う点に関しては全く同じである。したがって、例えば太刀で“袈裟に斬る”という動作を見ると、それと全く同じ体の捌き方によって、その結果として我が胸を掴んでいる相手を引き込むでも巻き込むでもなく投げることが可能となるのである。(中略)型が要求しているものは、こちらが相手をどうせよなどということではない。自分自身を深く見つめ、自分自身がどう働くべきかということのみであり、その体捌きを学ぶために“相手”が必要となるのである。

●(前略)型はその動作の順序を示すのみではないということである。しかも、その型は実戦を想定しているものでもない。(中略)型が要求するものは術理に従った体の捌き方であって、決してただ単に動いた結果がその形になればよいなどというものではない。正しく動けて初めて正しい形が出来上がるのである。その動きの経過こそが重要なのである。動きの経過、身体の働きこそが型であり、その動きの質的高低が技の高低となるものである。

●柔術に於いては投げ技、関節技、絞め技あるいは当て身技等々あるが、これらもすべて剣、居同様に体捌き、それも“斬りの体捌き”を学ぶのである。逆手にこだわり、投げや当てに心を捉われていては型という階段を登ることは出来ず、真の技の速さを身に付けることは不可能となる。

●(前略)一調子に動くからこそ太刀が消え、手や足があたかも消えたかの如く、その動作をひとつの連続した動作として目で捉えられなくなるのである。武術の世界においては、動体視力は役に立たない。どれほど速く動けたにしても、それは年齢や体力、素質などの制限があり、しかも一時的なものである。手や足が消え始める時の動きは、日常生活の速度の動きである。言い換えれば、手や足や太刀などを消すための毎日の過酷な訓練、特殊な練習など何も必要ではないということである。このような素晴らしい術技を、古人は型という伝達手段によって残してくれたのである。

●(前略)このように柔術においても投げ技、関節技などというものは、すべて体捌き―それも斬りの体捌き―そのものによって発現されるものであって、投げようとして投げ、捕ろうとして捕るものなどでは決してないのである。捕ろうとして捕り、投げようとして投げるほど遅く、間の抜けた技を型は要求していない。だからこそ“目に見えぬほど速い”技へとどんどん近づくことが出来るのである。

●(前略)腰を落とせば落とすほど(単にがっちり落とした居着いた形ではなく)、そこに潜む術技の存在を実感することになる。普通の足の速い人間が動いたのでは決して現れない速さが、それもあまり年齢に関係なく現出することになるのである。(中略)真の技の速さというものは、体捌きに基因するものであって、単純な体力や脚力による手足の速さではないということがわかる。手や足の気配、動きを消すためには体の中心軸(正中線)を確立させなければならない。そのことによってのみ斬りの体捌きが生まれてくるのである。日本の武術は、すべて斬りの体捌きを極意の裏付けとしている。

●正中線を崩さずに歩くということに体捌き足捌きの妙、難しさが潜んでいるのである。普通に歩けば、いや歩こうとしただけで左右の足へ重心が移動する。静かな摺り足にしたところで同様である。これでは武術としての歩く足捌きを身に付けることが出来ない。(中略)そして、その世界への第一歩が極意にまで通ずる腰構え、足捌きに関する教えなのである。(中略)すっと歩めば技になる、などといわれるが、それは正中線が微動もしないで動けるからに他ならない。

●(前略)柔術や空手においてすら“手を使わず、足も使わず”という。これは体捌きに先んじて手や足というものが我がままに動き易いことをいい表しているものである。これほどに手や足というものは、術技だった動きをしようとすると、その動きを阻害する一大要因となっているのである。

●(前略)即ち、自然本来の身体の働きを得るためには、自然本来の形態ではない形からの合理合法な手段によってこそ最短の修業過程によって、日常動作が術技化するのである。

●これら剣術や柔術、居合術などの型には、すべてに共通の一調子、あるいは無拍子の斬りの体捌きが、その根底に存在しているのである。流租も発祥も全く異なるそれら多種多様の武術が、ある一定の段階から上の高度な身体活動となる次元では、全く同じ“ひとつのもの”となっているのである。

俳優沙人(しゃと)の日記

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