火付盗賊改方の長官、長谷川平蔵は、青春時代を過ごした本所の見まわりをしていました。
そこには、若き日、剣の修行をしていた道場がありましたが、今は荒れ果てていました。
道場の隣に、立派な桜の老木があるお屋敷がありました。その当時「桜屋敷」と呼ばれていました。
お屋敷の主人の孫娘「おふさ」は、稽古をしている平蔵達に、蕎麦や冷酒を差し入れていました。
剣友の左馬之助と平蔵は、当時19歳の純真なおふさに恋心を抱いていましが、おふさは豪商の近江屋へ嫁いでいきました。
しかし、その後のおふさの人生は、悲惨そのものでした。近江屋の主で、おふさの夫が暴れ馬に蹴られ、あっけなく死んでしまったのです。
おふさは、家督相続に巻き込まれ、ついに、家を追い出されてしまいました。
その後は、本所をうろついていましたが、評判の悪い御家人服部角之助の「おんな」となってしまいました。
盗賊の捜査していた平蔵は、ひょんなことから服部角之助が盗賊と関わっている事実を突き止めました。そして、服部宅を取り囲み、踏み込みました。
後日取り調べの時、平蔵と左馬之助は白洲の見える小さな小部屋で、おふさの様子をじいと見ていました。
「あれが・・・」左馬之助は顔面蒼白になりました。左馬之助が見たのは、自分の心の中に大切にしまい込んでいたおふさではなく、見違えるほど痩せこけて、目だけは鋭く光っている、女の姿でした。
おふさは、盗賊の梅吉をたらしこみ、
「近江屋へ押し込め」とそそのかしたのでした。
平蔵と左馬之助がたまらず、白洲から連れていかれるおふさの前に出ていきました。
しかしながら、おふさは二人の顔を見ても表情一つ変えませんでした。
おふさにとって、平蔵と左馬之助は、他の道場の門人同様、たいした関心が無かったのでした。平蔵が左馬之助の方を見ると、目には涙があふれていました。
役宅を出ていく左馬之助に平蔵が声を掛けました。
「また来てくれるだろうな?」
左馬之助は、こう返しました。
「おふささんを失った代わりに、おりゃ、お前さんをまた得たもんな」
その後、左馬之助は平蔵のよき理解者となり、力を貸すことを惜しみませんでした。
*「鬼平犯科帳 1・本所桜屋敷」 池波正太郎 文春文庫より