「土曜学校」の他にもう一つ
Davisが独自に行っている「日曜教会」

これは、「教会」と名のつく通り、宗教に関するものです。
一番最初にDavisの紹介でも触れましたが、
彼は自身の職業を「Pastor」と名乗っており
これは日本語にすると「牧師」となり
キリスト教プロテスタント派の教職者を指します。

彼がどこまで厳密に「牧師」なのかはわかりませんが
日曜日には自分の家を教会に見立て
キリスト教徒を招いて説教をしています。

具体的には、聖書をテキストとしてその解釈を教えたり(これをBible Studyと呼んでいた)
また宗教的な歌(正式にはなんと言うのかわかりません,,)を歌ったりしています。




Davisは普段は小汚い格好ですが
この教会の時間ばかりは
白のポロシャツに黒のスラックスと
少しきれいな格好をします。

手に持っているのはもちろん「聖書」です。

 


この人は、キリスト教系のNGOを介して
フィリピンにボランティアに来ているスイス人のAstridです。
彼女は23歳。
大学で社会学部を卒業してここセブに来ているとのことでした。
Davisの話を聞きながら、真剣に聖書を読んでます。



暗くて見えにくいのですが、画像中央でカメラに向かってほほ笑みかけてるのが
スイス人の彼女と同じNGO経由できたドイツ人のジュリアです。
彼女は確か20歳。すごい気さくな子で、精神年齢的には中学生くらいかも知れません(笑)





こちらは一緒にショッピングに出かけた時の写真。
彼女も同団体経由、スウェーデン人のTess、19歳です。
彼女もDavisの日曜教会に二週とも来てました。
自分が見た限りだと、海外からのボランティアメンバーのなかでは
この子が一番信心深いです。
そして、この子が一番かわいいです(笑)
性格的にはとてもシャイなんですが、自分に会うと積極的に笑顔で声かけてくれます。
ボディタッチもいい感じに多いです。彼氏はいないとのことです。
しかし残念ながら、自分の英語力は女の子を落とせるレベルにまで達していませんでした,,,,
ちくしょう。笑



この子も同じくスウェーデン人、19歳のイダ。
この子はTessとは反対で、すごいさっぱりした子でした。
そして、教会には二回ともきませんでした。
理由は「眠かったから」だそうで(笑)
多分彼女のような教会にも行かないキリスト教徒が
欧米でもかなり多いのではないでしょうか。

 

さてこちらの二人は共にフィリピン人。
名前も年齢も忘れてしまいましたが、とてもいいやつらでした。
彼らはもともと昔のDavisのようにギャング団に入り、薬物の売買などにかかわっていましたが
ある時Davisの教会に参加したことをきっかけに心を改めギャング団から抜け
今はクリスチャンとして聖書の勉強をしています。


 
みにくいですが
これは教会で歌を歌っているとき。
上の写真で左の彼はギター、右の彼はドラムを担当しています。

歌は、内容まではさすがに覚えていませんが
基本的に神に関するものが多かったです。

そして最後にはみなで神へのお祈りをしました。



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さて、特にキリスト教への信仰もない自分が
なぜこのような宗教儀礼に参加したのでしょうか?

それはもちろんHOPEのパートナーがDavisで
そのDavisが行っているから。
もっといえば、自分はDavisとずっとともに行動しており
その中で宗教に関することだけ全く関わらないという態度は、
彼の信頼を失うだけでなく、フィリピンの宗教、ひいてはフィリピンの文化を
否定してしまうことになってしまうのではないか?
それは望ましいことではない、と考えたからです。
実際に、フィリピン国民の90パーセント以上がキリスト教徒なのです。


一般的な日本人の価値観としては「宗教=悪」というイメージが強く
(自分たちの天皇崇拝の歴史とその帰趨を知ってか知らずか)
「無宗教こそが正義」だと思っている人が多いような気がします。

しかし、実は世界的には宗教のない国というのは非常に少なく
信仰の深さに差はあれ、ほとんどの人が何かしらの信仰があります。

逆に、外国人からすると、誇らしげに無宗教を語る日本人は
とても奇妙で理解しがたいらしいです。

特に有名なのが年末年始の日本人の一週間
クリスマス(キリスト教)に始まり除夜の鐘(仏教)、神社への初詣(神道)
そしてお年玉(儒教)とまさに世界横断の勢いです(笑)
しかしながら、このむちゃくちゃな一週間こそが、日本人の宗教観をよく表している
とも言えなくはないのですが。


かくいう自分もその一般人の一人で
海外で宗教について聞かれると「Nothing」とか答えてた自称無宗教です。

そして、やはり「宗教=洗脳、異常」という勝手な先入観がありました。

そのため、今回Davisと二週間寝食行動を共にする中で
かなり精神的につらい部分もありました。
「日曜教会」の時も、Davisの家で行われるので参加しないという選択肢はなく
とりあえず聖書を読んでいるふりをしていました。
みなが神にお祈りをささげている時も
自分も目をつむってお祈りをするふりをしていました。
罪悪感と無力感などがごちゃ混ぜになって
一刻も早くその場から逃げだしたいと思いましたが
そんなことをするのはあまりにも失礼すぎると思い
結局最後まで教会には参加しました。

このような体験は、おそらく自分がこのLoregaに
二週間「住んだ」からできたものなのだと思います。
観光やスタディーツアー、ボランティアツアーなどでは
決して見ることも感じることもできない部分なのだと思います。


ではHOPEの活動にもキリスト教的な要素を取り入れるのか?
もはや、牧師のDavisが中心となって活動する団体であるから
キリスト教の団体として、理念から何から考えた方がいいのか?
そお一方で、自分たち日本人はキリスト教徒ではない。
キリスト教的な価値観に基づいてスラムの開発を行うわけではありません。

そこの折り合いをどうつけていくのか,,,
というのが非常に重要な問題になってきます。
途上国の「開発」において、現地の「宗教」とどう付き合っていくべきなのか,,,?

日本人の「途上国=貧困=未熟」「宗教=非科学的=野蛮」
的な価値観を当たり前のものとして
勝手に「貧困国を経済的に豊かにしよう」「宗教は野蛮だからやめさせよう」
という目的で発展途上国の開発を推し進めていいのか?
そもそも「途上国=developing countries」「先進国=develpoed countries」とは言うが
何をもってして「develop」なのか?
相手の固有の文化、伝統的なコミュニティを破壊することが正しいことだと言えるのか?

このことについて、私たちはもう一度よく考えなくてはなりません。

私の出した答えは
「自分たちの文化・思想、相手の文化・思想を共に尊重し、どちらが正しいのか、という極論を持ちだすのではなく
お互いの文化・思想における共通点を見出し、それをもとに協力関係を築いていけばいい」
というもの。
アマルティア・センの言う「アイデンティティは重層的でありうる」という立場からの考えです。

自分は「日本人」であって「慶應生」であって「埼玉県庄和町出身」であって「サッカーが大好き」です
「慶應生」であることと「埼玉県庄和町出身」であることは同じではありませんが
しかし「埼玉県出身庄和町出身の慶應生」であることは何も矛盾はありません。
さらに、「サッカーが好きだ」ということですが、これはじゃあ「サッカーが大好き」だから
他のスポーツ「野球が大好きだ」という人仲良くできない、ということは全くありません。
「どっちも楽しいスポーツだから好き」(これは日本人の宗教観に近いかもしれない)
という人もいると思います。

もちろん、この理論は完ぺきではありません。

そもそもこの理論は「互いに宗教的に寛容である」ということを大前提としています。
もし一方の宗教の信者が他の宗教を一切認めない立場をとっていた場合は
これは一気に非現実的な理論となってしまいます。
宗教の例をあげると、みなさんもよくご存じの「イスラーム教」は、思想だけでなく生活様式から何から
規定してしまう宗教です。
さらに、イスラーム教徒の教典「コーラン」には、異教徒との戦いは「ジハード(聖なる戦い)」
であると書かれています。
これに従って中世にはキリスト教圏との宗教戦争を頻繁に行っていた
という歴史的事実は、世界史を習ったものならだれでも知っているでしょう。


しかし、結局このような宗教対立も「無理解」「無関心」が原因なのだと思います。

確かに、相手の宗教を理解しようと相手の生活などに近接することは
自分のアイデンティティが危機にさらされるという恐怖があります。
そのことは今回自分は本当によく感じました。
このままキリスト教に改修しなければ、日本に帰してくれないのではないか,,,
などとも思いました。

しかし、ある日Davisの友人にキリスト教への改宗を強く迫られた時は
自分の立場をはっきりしなければ相手にも失礼だし自分の立場も危ないと思い
「自分はDavisと共にスラムの恵まれない貧しい人々を助けるという目的を持ってきたのであって、そのことは自分がキリスト教にならなくとも変わらない。確かに、自分が出会ったキリスト教徒のみんなはとてもいい人で大好きだし、キリスト教自体は本当に尊重しているけど、それと自分がクリスチャンになることは別。自分にも21年間慣れ親しんできた文化というものがる。
将来改宗することはあるかもしれないが、今はその時ではないと思う。」
と断りました。(心臓バクバクでしたが)

これが今回の「開発」と「宗教」に関する自分なりの答えだと思います。

確かに文化や思想といった点では、自分とDavisには相違はあるかもしれない。
しかし、「絶望の街Loregaに希望を与えたい」という点では全く一致しています。
このことを目的にNGO「HOPE」で互いに活動していくことで
「HOPEの一員である」という新たな共通なアイデンティティがお互いに生まれ
もはや宗教間でのアイデンティティの対立はさほど必要なくなり
お互いに自分を守りながら、相手の宗教を尊重できるようになる。
しかしながら、このような共通のアイデンティティを確立するまでは
相手の文化を恐れずに理解しようと全誠意をもって努め
協同の基盤となる信頼関係を築きあげておくことが重要なのである。

そういうことです。

もちろん自分の答えがすべてだとは思っていませんし
これを実践に移すことは容易なことではありません。

それでも、「開発」と「宗教」について考えることは
このNGOをやっていくうえでは決してさけられる問題ではないと思ったため
今回このように長々と書きました。
「開発」に携わる、興味のあるすべての方々に
一緒に考えていただけたらな、と思います。