昨夜から音を立てて雨と風。
九州からの、つらい知らせがテレビやネットにあふれている。
ありふれた日常に漂いながら、被災者の悲しみと苦しみに同調する瞬間の、あの身震いする感覚。
5年前に聞いた言葉、サバイバーズ・ギルティ。
午前四時。
闇の中で目覚め、布団を抜け出し、扉を開けて、雨と風を確かめる。
天気の回復の兆しはあったが、数時間目までの、九州の人々の不安とおそれの気持ちが、ありありと感じられ、慌てて家の中に逃げ込んだ。

何をすればいいのだろうか。




ネットで情報を追いかけていたら、午前一時を過ぎてしまった。
熊本では雨が降っているのだろうか。
不安と疲れの中で暗い夜を耐えている人々のことを思う。
亡くなった人々のことを思う。

人を襲う災害の半分は自然の非情なな営みだが、残りの半分は人に由来する。
危うさに目をつぶり、目先の利害に目がくらんではいないのかと、いつも思ってしまう。

人の知恵はいつも、出来事の後を追うばかりだ。
しばらくご無沙汰だからと、日曜日に妻が娘に電話をした。
ただいま電話に出ることができません、という応答だったので、元気ですかとメールを書いた。

返事は来ず、子供のいない勤め先の昼休みに電話が来るだろうということで、その日は過ぎた。
翌日の、昨日月曜日も音沙汰がなかったら、今日の昼に電話があった。

家族みんな元気だが、休みの日は子供の世話などで、てんてこ舞いだという話だった。
夜、電話が鳴った。
娘が孫に、今日の昼おばあちゃんおじいちゃんと話したよ、と伝えたら、上の孫娘が、私も話したかったと泣いたので、電話しました、ということだった。

妻が少し話をして、私に受話器を渡した。
おじいさんですよというと、**ですと返事が返ってきた。いま何をしているのと聞いたら、おじいちゃんと電話で話しているという答えが返ってきた。
妻とも、同じ問答があったらしい。
保育園で何をしたの、と聞いたら、おままごとをしたというので、あなたはお母さんになったの、お客様になったの、と尋ねたら、お母さんという単語に反応して、、娘に受話器を渡した。代わってくれといわれたと思ったらしい。

わきで二つ下の男の子が騒いで、母親から受話器を受け取ったが、これはないやら会話にならなかった。

面倒なことが今身辺にあって、頭を悩ましているので、孫たちとの会話は、なんだかうれしかった。
孫三人が家の中を走り回る大晦日。
何人もの知人友人を見送った一年。

数年前に年賀状の交換はやめますと知らせがあったが、一方的に挨拶をさせていただいていた恩師に送った喪中欠礼のハガキが、受取人不在で戻ってきた。
何が起きたのかわからない。

関東に住んでいる古い友人が、奥さんの実家のある東北の町に移るという。
いつでも会えると思っていたけど、どうやらもう会えないのかもしれない。

別れることに明け暮れた一年だった。

新しい出会いはあまり期待できないが、くる年は、せめて今あるつながりを少しでも長く大切にしていきたい。

皆様良いお年を。

今夜22時を過ぎたあたりで、携帯が震えた。
最近ではないことだといぶかしがりながら画面を見ると、大学時代から友人Kの名前がディスプレイに浮かんでいた。

Kは難しい病気ですでに意識も混濁しているはずなので、この電話をかけてくるのは夫人と決まっていた。
知らせは予期した通りに、Kの訃報だった。

一週間前に彼を見舞った。
彼はすでに声を出せなっかた、まだ目には力があり、私の声は聞こえていると感じた。
夫人が、「壬生さんだよ」と何度か声をかけた。
30分ほど枕元にいたが、彼が目を閉じたのを潮時として、奥さんに別れを告げた。
彼へのいつもの決まり言葉、「また来るからね」は言わなかった。

浮草のように頼りない気分で大学に入ったその日、最初に声をかけてくれたのがKだった。
下宿暮らしで年中金欠乏だった私を、東京都北区の家に呼んで、家族ぐるみで時には何泊も止まらせご飯を食べさせてくれたのも彼だった。
お互いの結婚式の司会をして、遠く離れた場所で仕事についてからは何年かに一度しか会わなかったのに、会えばしたたかに飲んで、ただただ学生時代のことを思い出して笑いあった。
だから、30歳から後のお互いの生活は、お互いにほとんどわからない。

Kの葬儀は、私の知らない40年の彼の生活の世界が仕立てるだろう。
私はその場所で、片隅から彼を見送るために、出かけようと思う。


数年前から我が家の柿の木の調子がおかしい。
夏過ぎまで枝についていた実が、赤みを増すころから、十分に膨らまぬまま落ちてしまう。
以前はカラスなどの被害に悩んだが、今年もカラスがつつく前にほとんど実がなくなっていた。
店に柿が出回ようになってから、物置の陰の柿の木を観に行ったら、晩秋の景色のように実が三つだけ残っていたので高枝ばさみで切り取った。
食べてみたら十分に甘い立派な柿だった。

数回、スーパーで柿を買って食べて過ごしていたら、月に一二度我が家でおしゃべりをする友人たちの一人が、10月初めの集まりに柿を持ち込んだ。参加者の数だけレジ袋にわけて仕立ててきたが、五人いたうちの二人は、うちにもあるからと断った。我が家にたくさん柿が残った。
前後して、所用で立ち寄った知人宅で、今年は柿の当たり年だから、と自宅の木からもいだものを5・6個くれた。
東京に暮らす古い友人から段ボール箱に入った柿が届いた。彼女の家の庭にある何本もの柿の木から採って送ってくれるのが、数年来の習わしになっていて、今年も期待していた。
そのうち、ちょっとした相談のついでに、町内会長が柿を持ってきた。
今年は柿の当たり年で自宅の柿の実がなりすぎて食べきれないから、とどこかで聞いた話と同じことを口にした。彼はその後、数度の会合で、柿を参加者に配っていた。
10月下旬になって、里山の裾に住む兼業農家を尋ねたら、奥さんが枝切狭を取り出し、庭の柿の実を自分で採って持って行ってよと言った。
梢から目の高さまで、びっしりと柿がなっていた。手渡された大きなレジ袋にいっぱい柿を入れて、その家を辞した。
東北の郷里に帰って親を見取り、百姓仕事と渓流釣りをして暮らしているいる元同僚が、40年近く住んだ当地に遺してある家を開けるためと、こちらで育ち就職して結婚もした娘の生んだ孫に会いに、やってきた。
年に数度、彼が数日滞在している間に、都合が合えば一晩一緒に酒を飲むのが通例になっている。
その元同僚が、郷里の家に生っているのを持ってきたと、柿をくれた。
いつもは二人で飲むのだけれど、今回は、共通の友人を誘って三人で飲んだ。その席で、その友人が私に、柿は好きかと聞いた。夫婦で好んで食べていると答えたら、元同僚が「今日やったばかりだ」と言った。「うちの柿がたくさんなったのでもらってくれ」とその友人が言い、したたか飲んだその翌朝に我が家まで届けてくれた。

こんな風に、今年は次々と柿が舞い込んでくる。
東京の知人が送ってくれたあたりから妻は、柿がやってくるたびに、「うちは柿大尽ね」と言って喜んでいる。

一年以上前のこと。
妻が以前使っていたワープロ専用機を物置から取り出した。AC電源を入れたら、ちゃんと画面が開いた。
妻は捨ててくれと言ったが、市内のリサイクルショップを二軒回った。どちらも引き取ってくれなかった。
電気店に有料で引き取ってもらうことを考えたが、なんだか踏み切れずに部屋の片隅に置いておいた。

先日机の上を片付けていたら、ガラクタの下からメモが出てきた。
山口県にあるワープロ専用機の修理店の名前がメモしてあった。
かなり前のテレビ番組で紹介されていたのを書き留めてあったのだと思いだした。
ネットで検索したら、HPが見つかった。
ワープロ専用機を引き取りますと書いてあった。
数日後電話をして、「送料はこちらで持ちますから引き取ってくれますか」と聞いたら、「着払いで送ってください。寄贈する旨文書で明示してください」という返事だった。
分解して、不燃ごみで出そうか、とまで考えていたのだけれど、もしかしたら部品の一部でも誰かの役に立つのかもしれない、と思えるだけで、救われた気がした。
古い段ボール箱に詰めて、発送した。

義父の部屋は間もなく売却される。
使えば使えるものもいろいろあるけど、処分は業者に一括して頼むことになっている。
産廃のように、ダンプで運び出されて廃棄されるのだろう。

それは、何年か後の、私の家のもろもろの物品の行く末でもある。
彼岸花のことをかいて一月が過ぎたら、私の周りではコスモスが花盛り。

妻に言われて庭の一部を耕した。
見ると、二月近く前に妻が種をまいた大根の畝では、若い大根の葉が密集して生えている。
もうすぐ間引きが始まると、大根の葉の塩漬けの季節。
この時期に妻は糠付の糠の表面に塩を張り、容器をしまい込んで、糠漬けを来春まで休みにする。代わりに毎食卓の漬物は、大根の葉の塩漬けがメインになる。

何十年か前に、この庭にもコスモスが群生した時期があったが、今は影も形もない。
妻が熱心に野菜作りをしているからかもしれない。

前の日曜日は、この地域の秋祭りだった。私の町内も手作り屋台をひいて参加した。
町内を巡行し、昼休みにホテルの敷地内の空き地を借りて、引手の子供たちや世話人のみんなで昼食をとった。
おにぎりやハンバーガーを食べ終えた数名の未就学児たちが裏の林に駆け込んだ。大人たちもみんな談笑しているので、私は遠目からその動きを、少し気にかけて眺めていた。
やがてぞろぞろ出てきたが、おしりからついて行った3歳くらいの女の子の姿がない。
立ち上がって様子を見に行ったら、少女は一人だけ離れて、草むらに数本固まって咲いていたヒガンバナを摘んでいた。
少し離れてところで年上の男の子がひとり女の子を見守っていたので、なるほど誰かが責任を果たすものだと感心したが、「みんなのところに戻ろうね」と声をかけた。
広いところに出たら、別の子供が「その花、毒だよ」と叫んだので、少女は花を投げ捨てた。
私が、「その花はヒガンバナだよ」と教えたら、少女は、「ヒバンガナ」と口真似した。
「ヒガンバナ」だよ。「ヒバンガナ」。
数回教えなおしたら、やっと「ヒガンバナ」と言えた。
母親がかけてきて、「一人っ子だから誰にでもついて行って」、と言い訳し、「みんなから離れちゃダメでしょ、ごめんなさいは?」と叱った。
心配は分かるけどちょっと理不尽な叱りのように思えたので、「ヒガンバナって上手に言えたね」と頭を撫でて、私はその場を離れた。
ヒガンバナは、本当に彼岸の頃にパッと咲く。
咲き始めると急にあちこちで目立つが、姿を消すのもあっという間だ。
今年は庭にも数カ所で彼岸花が咲いた。明日あたりから姿を消し始めそうだ。
ヒガンバナ
昨日、義父のお骨を墓に入れた。

義母の9年祭を兼ねて、義弟が主宰し、甥たちの家族も一緒に義父が義母のために墓前祭としていた手順を踏まえて、簡単な儀式を行った。

義父の死後のもろもろの後始末について、私はあまりかかわらないできたけれど、妻と義弟はほとんど毎日連絡を取り合っている。
律義で生真面目な義弟は、ひとつづつさまざまの手続きを済ませ、その前と後で方針と結果について妻に報告している。
そして、昨日一つの節目が過ぎた。

義父が好きだった中華料理をみんなで食べて、彼をしのび、自分たちの生活についてよもやま話をした。

走り回の甥の子供の動きに気を取られながら、その子の未来の話になり、今の政治の動きがどうだということになって、話題がアベノミクスに飛んだ。
もっとも、それも大して続かずまた次の話題になった。

義父はアベノミクスが始まったころ、大いにそれに期待していたが、いまその席にいたら何を言っただろうか。
アベノミクスの話のおわりに、少し株にも手を出しているらしい甥が、苦笑いをしながら「明日はブラックマンデーですよ」と予言した。

今朝、確認したら、株価がおお下がりしていた。

日が高くなってきて、今は暑いが、朝は新聞を取りに出たら肌寒いくらいだった。
時間は確かに流れ、季節は行き戻りしながらも変わりなく巡っている。