朝起きるとテラス側の掃き出し窓を開け、張り出した屋根の付け根を見るのが習慣になってしまった。
一月ほど前に、足長蜂が巣作りを始めたのを娘が見つけて騒いだ。
夕方洗濯物を取り込んだあと、ホースで水をかけてまだ形も定かでない巣を洗い落とした。1・2匹の蜂がいたが、あわててどこかに飛んでいった。
翌日また娘が、蜂が巣を作り始めたよといった。
見ると、蜂の数が少し増えて、巣のあった辺りに集まり頭を寄せ合っていた。
妻が笑って、「山田さん、どうしましょうか。木下さん、もう一度始めるしかありませんね」などと蜂たちの仮想の会話を演じて見せた。
一日置いておいたら、蜂の巣は少ししっかりした形を見せ、巣の穴が見えるようになっていた。
また夕方に、水で吹き飛ばした。

なんと、もう一月の間同じことをほぼ毎日やっている。
蜂の数は少し増えて、今は常時5・6匹が集まっている。
水をかけるとずぶぬれになり戸袋の上などに落ちるが、必死に壁を這い上がったりしている。そして巣が落ちてしまうといったん姿を消してしまう。
翌朝に確認するとまったく同じ場所にまた集まって巣を作り始めている。
私は、朝とか夕方とか、洗濯物がない時間を見計らって水をかけて巣を落とす。

娘と二人で、「なんだか物悲しいね。どこか遠くに場所を移せばいいのに。」「われわれの生活の営みも、超越的な存在から見たらこんなものかもしれないね。」などと厭世的な気分になったりした。

「愚公山を移す」という故事を、大学時代によく耳にした。毛沢東が教訓として引用したという。
しかし蜂たちはついに巣を完成することはできないだろう。

私の行為は紛れもなく愚行だと思う。本当に追い払いたいのなら、殺虫剤を散布すればいいことなのだ。
では蜂たちの営為は愚行なのだろうか?
そうするしかほかに生きようがないのだとしたら、それは愚行とはいえないという気もする。

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