※これは小説です。長いです。重い内容ですので注意して読んで下さい。読解力のない方は今すぐこのページを閉じて下さい。
私の名前は森本加奈子。23歳。
大学生…いや元、大学生だ。
容姿は十人並みで、性格はまあ明るい。人当たりの良さから友達は多かった方だと思う。
でも今、私の周りには誰もいない。独りだ。
ロッカーを開けて重いケースと小さな紙箱を取り出し、奥の部屋に座る。
目の前には両親の写真。そして、家族が一番幸せだった頃の写真が飾ってある。
震える手でケースを開けて黒い「それ」を取り出して膝の上にのせた。
紙箱から小さな筒型の物を「それ」に押し込もうとするが、うまくいかない。
コロッと手からこぼれ落ちて床に転がる。
赤く彩られた筒型の小さな物体。それを「それ」に押し込み終わった後に私の人生は終る。
私の家は、祖父の代から続く小さな食堂。
串かつが名物で、お昼時にはお客さんで賑わっていた。
夜は居酒屋に早変わりし、地域の人たちの笑い声であふれていた。
地元のTV局に「商店街を元気にする串かつ屋さん」と取り上げられて取材を受けたことがある。
飾ってある写真がその時の物だ。父母に私。それにアルバイトの人たち。
みんな嬉しそうに笑ってる。でも、今は…
「どうしてこうなってしまったのだろう」
始まりはちょうど1年前。
「新型コロナ」という病気が海の向こうで生まれ、この国にもやってきた。
TVは毎日その話題でもちきり。キャスターやゲストが「早く手を打たないとこの国も『地獄』になる」と話していた。
そして有名な芸能人が亡くなった頃から、すべてがおかしくなり始めた。
「三密を避けてください」とTVで知事が盛んに言っていた。
「密閉、密集、密接」
そんなことを言われても、うちのような小さな飲食店ではどうしようもない。
混んでいる時にはカウンターにお客さん同士が肩を触れ合わせてお酒を飲んでいる状態だ。
でも、売り上げが落ちるのを承知で席の数を減らして「密」になるのを防ぐ努力をして頑張った。
そして次に言われ始めたのが「時短営業」
「飲食店は夜8時までの営業としてください」と自治体から要請が来たが、それでは全く採算が取れなくなる。
12時近くまで営業してやっと、の売り上げだと父が怒っていた。
しかし、ぎりぎりの妥協をして夜10時までの営業に切り替えることにして頑張っていた。
しかし、周りからの風当たりは強かった。
まずは町内会長からの訪問。
「こんな時期だから、協力するのは当り前じゃないか」としつこくお願いされた。
父は店の苦しい経営事情を説明したけど話は平行線をたどり、最後に「非国民!」の捨てゼリフを残して町内会長が帰って行った。
それから、店への嫌がらせが始まった。
まずは貼り紙。ある日、店を開けるとシャッターに紙が貼ってあった。
「営業時間を短縮して『自粛』してるのに、なんでこんなことを言われなきゃいけないんだ」
父が呆れたような口調で呟いていた。
しかし幾度も貼り紙が続くので、やむなく夜8時までの営業に切り替えた。
しかし心無い貼り紙が続く。
何度も父に「店の防犯カメラ確認して、警察に届けよう。立派な威力業務妨害だよ」と言ったが、父は「誰のせいでもないから」と首を縦に振ることはなかった。
投石こそなかったが、無言電話は鳴り続け、店の看板にはペンキをかけられた。
徐々に客足は遠のき、お昼時に訪れるお客も数えるほどになっていた。
それでも父は明るく振る舞いながら店に立っていたが、私から見るとどこか虚ろな顔をしていたように思う。
恐らく、父は全てを悟っていたのだと思う。
経営はもう限界。自治体からいくばくか協力金は出たが、所詮「焼け石に水」だった。
そしてついに店の運転資金が尽き、父は店を閉めることを決意した。
閉店の日、父は常連のお客さんやかつてのアルバイトの人たちを集めて「お別れ会」を開いた。
久しぶりに馴染みの顔が集まって楽しく飲み食いして、50年続いた店を閉めた。
そして…父はその日の夜、自ら命を絶った。
ニュースで「コロナ禍により経営難に陥って自殺した店主」と報じられ、自宅や葬儀の場にマスコミが殺到したが、私達母娘は取材に応じることはなかった。
そもそもこの空前のバカ騒ぎを演出したのは、マスコミだから。
キャスターはしたり顔で「政府の対応がまずかったから」とさえずっていたが、あまりのバカバカしさに開いた口がふさがらなかった。
生活の方は、父の保険金で銀行から受けていた融資は何とか払えたが、生きていくために母は近くの工場でパートとして働き、私もアルバイトをかけもちして家計を支えた。
緊急事態宣言も解除され、もしかしたら来年くらいに母の手で店を再開できるかも…と思った矢先、母の勤めていた工場でクラスターが発生した。
母を含めて30人以上が感染したのだ。
PCR検査の結果、陽性と判断された人のほとんどは症状が出なかったり、症状が出ても軽くてすぐに治った人もいたが、母は違った。
元々血圧が高かったことに加えて、慣れない工場勤務でのストレスで心身ともに疲れ果てていたためか、すぐに重症化した。
ICUに移され、エクモ(体外式膜型人工肺)をつないで懸命の治療を受けたが、サイトカインストームを起こしてほどなく亡くなった。
死に目にはあえなかったし、顔も見せてもらえなかった。
指定感染症の2類に「コロナ」が指定されているからだ。
2類にはMARSやSARDS、結核といった恐ろしい病気と同じ扱いらしい。
戦争映画で見るような黒い袋に入れられた遺体は、それが母だとは思えなかった。
弔いはさみしかった。
「コロナ」による死亡ということで、葬儀屋が怖がってどこも引き受けてくれなかった。
死体は飛沫を出さないのに。宿主が死ねばウイルスも一緒に死ぬのに。
怖がるわりには、みんな何も分かってない。
あまりのバカバカしさに笑いそうになった。
でも、笑ってばかりもいられない。何とか車だけ出してもらって火葬場へ運んで荼毘にふしてもらった。
そして私はひとりになった。
ガランとした家に、父母の骨壺二つと私。
「コロナ」を恐れて近所の人も、親戚すらも訪ねてくれなかったが、心ない貼り紙は貼られた。
「コロナの家」「天罰だ」「ザマ見ろ」
なぜそこまで言われなきゃいけないのだろう。我が家が「コロナ」をまき散らしたわけじゃない。
逆に被害者だ。
「自粛」で店を潰され、父は死に、母はその「コロナ」で亡くなった。
ついでに言うと、この間に私は将来を失っていた。
「調理師」として内定をもらっていた、中堅どころの外食チェーン店から内定取り消しの通知が来た。
この「コロナ禍」のせいで客足が鈍り、経営が悪化していることをニュースで知った。
そして何軒かの店舗を閉鎖し、経営立て直しを図ったが、結局倒産した。
あまりの災難?に体中の力が抜けた。生きていく気力もなくなった。
翌日、私は38度の熱を出した。
「インフルエンザか?」と思ったが、関節痛はないので違うらしい。その代わり味覚と嗅覚がなくなった。
どうやら罹ってしまったらしいが、仕方がない。
重症者ばかりの母の病院にずっと詰めていたのだから。
激しい咳が出た。咳のし過ぎで呼吸が苦しくなる。市販の咳止めや風邪薬を飲んだがあまり効き目がないようだ。
息が出来なくなり、死の恐怖に襲われた。
でも「それでもいいか」とすぐに諦めの境地に達した。
「生きていても、私にはもう何もない。楽になって父母の所に行こう」と思うと、急に楽になって意識が遠くなった。
次に目覚めたのは3日後だった。
激しい空腹を覚えて目が覚めた。いくら「死にたい」と思っていても、身体は「生きたい」とあがく。
まだ少し嗅覚と味覚が戻っていないが、丈夫な身体に育ててくれた両親と、私の身体の「免疫力」に感謝だ。
これでまたひとつ、「コロナ」が「殺人ウィルス」でないことが証明された。
しかし、心は虚脱したまま。
何もする気が起こらなかったが、何となく店の防犯カメラの映像を見てみる気になった。
何年か前に自動車の盗難が頻発したことを受けて、店の入り口付近から駐車場までの映像を記録できるカメラを設置したのだ。
ハードディスクに収められた画像ファイルをクリックして送っていくにつれ、私の頭の中は、まるで漂白剤を注入されたかのようにどんどん白くなっていった。
ちょうど嫌がらせの貼り紙が貼られた頃、真夜中に映った人影はみな知った人ばかりだったのだ。
向かいの喫茶店の女主人、斜め向かいの呉服屋さんの主人。町内会長。近所の若い学生。
何より悲しかったのは、近所に住む叔父の姿があったこと。
いわゆる「自粛警察」はこの人たちだったのか。
「非国民」の捨て台詞を残していった町内会長はまだしも、「心配だね」「誰の仕業なんだろうね」「お互い頑張ろうね」と言ってくれていた近所の人が、その裏で私たち家族を追い詰めていた。
そんなことをした理由は、おおよそ見当がつく。
「町内のきまりに反するはぐれ者」「自治体の要請に従わない不届き者」
それを大義名分にして、自分たちのストレスや不安を貼り紙を貼ることで紛らわせていたんだ。
でも、そのおかげで私たち家族は「文字通り」バラバラになった。
私は全てを失った。
亡くなる前の父が見せた、あの呆けたような笑顔は、こんな世の中の不条理に呆れ果てて全てに絶望したからに違いない。
そのことに気付いた時、私の中にドス黒い感情が生まれた。
いつかTVで見た「日本の凶悪事件」みたいな番組を思い出す。
戦前の、ある地方の山村で起きた事件だ。
結核を患った若者が村八分にあい、結婚するつもりだった人とも引き離され、仕事もなく切り売りした財産もついには失って自分を追い詰めた村人に復讐し、史上まれにみる大量殺人事件を起こした。
映画にも取り上げられたこともある有名な事件だ。
時代こそ違え、どこかでそんな話を聞いたことがないか?
いつしか私は、父の部屋にある頑丈に施錠されたロッカーに向かった。
中にあるのは、銃。
父の唯一の趣味は狩猟。
猟友会に所属し、仕事の合間を縫っては有害鳥獣の駆除に参加していた。
時には得物を求めて山を歩くこともあった。
「いつか加奈子に店を譲って時間ができたら、本職の猟師になる。ジビエ料理をこの店のもう一つの目玉にするんだ」
本気とも嘘とも分からない口調でよく言っていた。
実際にシカやイノシシ肉の料理を作っては、試験的に常連客に食べてもらっていたから本気だったのかもしれない。
銃身の下を「ジャカジョコ」と前後させて弾を装填する散弾銃。
イノシシやシカを倒せるOOB(ダブルオーバック)という弾。
人を喜ばせるための食材を得るためだったはずの道具を、私は何に使おうとしている?
でも、これしかない。
私たちの家庭を、くだらないストレスを発散させる道具にし、ついには家族をバラバラにしても恥じない、恥じる様子もない人でなし。
マスコミが作り出した「虚像」に怯え、「お上」の意向を大義名分にして卑劣な嫌がらせを続け、父を死に追いやり、そのせいで母を死なせたやつらを、私は絶対に許さない!
私は7発の弾を銃に装填し終わった。
使い方は父の狩猟についていったことがあるので分っている。
腰には同じく父の使っていた狩猟用ナイフ。
私は何をしようとしている?もう一度自分に問う。
いいも悪いも、もう関係ない。私にはもう何もない。
もし生きて逮捕されることがあったら、私たち家族が受けた苦しみを訴えるのもいいかもしれない。
「コロナ」の恐怖をおどろおどろしくTVであおりまくって、世間を大混乱に陥れたマスコミを弾劾してやるのもいい。
でも、それもどうでもいいか。
「これ」を実行してしまったら私は犯罪者だ。
「極悪人」のレッテルを貼られて、何年か後にそれこそTVでドキュメンタリー風に取り上げられるかもしれない。
それで少しは虐げられた者の痛みや、「同調圧力」の怖さをみんなに知ってもらえたらそれでいい。
黒っぽいジャージに着替え、走りやすい履きなれたスニーカーを履く。
ヒップバックには予備の弾。バックのベルトにはナイフ。
首にはLEDのライトをぶら下げた。
手には散弾銃をしっかりと持つ。
玄関の鏡を見て「本当に『津山事件』の犯人みたいだな」と思うと少し笑えた。
「さて。じゃあ行くか」
自分に気合を入れ、私は夜の街へ走り出した。
了
昨年からの「コロナ騒ぎ」を受け、そこここで飲食店の廃業や企業の倒産、そして自殺といった悲しいことが頻発していることにインスピレーションを受けてストーリーが頭に浮かび、一気に書き上げた短編小説です。
不慣れなもので文章になっていないかもしれませんが、「コロナ」の引き越した悲劇に思いをはせて読んでみて下さい。
この「コロナ騒ぎ」の下、「津山事件」のようなことが起らないことを切に望みます。
そして、一刻も早くこの「コロナ騒ぎ」が終息しますように…