さて復帰二回目の坐禅会です。
毎回恒例の15分前に到着。本日は堂外であることを告げられる。
もうちょい遅く行けばお堂だったけど、ベテラン勢が狙っているらしくかなり難しい模様。
坐禅スタート、、、ん?開始の鐘が鳴らなかったような。。もやもやしながら坐禅開始。今回は最初から重心を変えての膝立ち胡座。
いつもこれは途中で気がつく座り方です。
今回も800ほど数えてお坊さんの気配を感じて警策で打ってもらいました。
前回の「パフ」という感じ、先月と同じくで打が軽くなったのかしら?
その後ですが、股関節が痛い。どうやら最初から「正しい座り方」をすると股関節が
限界を超えるらしい。かなりヤバいかなと言うところで太鼓が鳴り、終了のフェーズに
入りました。
(もう一年以上も行っているのにまだ座り方がわからない。)
本日の法話は「動く禅」のお話
お坊さんが「石庭」と「枯山水」があるお寺が関東にないらしく、ここ数年京都に行けなかったので久しぶりに
京都の枯山水を堪能したという頭出し。
そして関東にそうしたお寺がなく、石庭や枯山水は臨済宗の教えで曹洞宗にはないとのこと。
枯山水の砂をなぞるということは非常に難しく、何かを考えている時は線をまっすぐひけないそう。
考えないとまっすぐ引けるとか。
転じて坐禅に関しても
「過去も未来も考えず、今この瞬間の自分を見つめることが坐禅の本質だ」
との話につながり、砂を引くということは「動く禅」であると。
臨済宗=砂を引く作務が「動く禅」
曹洞宗=箒で掃除する作務をすることが「動く禅」
で話は結ばれ、動く禅を考えながら今後も坐禅をしていきましょうという法話でした。
この「動く禅」は、私が修めている武道の流派でも真髄として語られる言葉でありますが、宗派や流派によっても解釈が違うものだと大変勉強になりました。
(ましてや「特定の人物」が語っていることが総ての解釈ではないということが身にしみてわかりました)
やはりもう、「ある特定の人物」に依存するような生き方は辞めようと思った今回の坐禅会でした。