私は今、菩提寺の役員をしています。

 

春と秋のお彼岸には、お布施や護寺費の受付などのお手伝いをしています。

 

長く関わる中で、宗教に対する考え方が少しずつ変わってきた現実を感じることが増えました。

 

例えば、昔は大勢が集まる葬儀が普通でした。

近所の人、親戚、会社関係まで、多くの人が故人を見送ったものです。

 

しかし今は家族葬が増え、参列者も少人数。

 

法事を行う家庭も減り、「墓じまい」という言葉も特別ではなくなりました。

こうしたことは、お寺だけの話ではないようです。


十字架キリスト教はどうだろうか?


私の地域には、キリスト教の牧師さんもいます。

以前は都内のホテルや式場で、結婚式の牧師として執り行っていたようですが、最近はそうした依頼も減り、今は生活のためアルバイトで忙しい!と聞きました。


調べて見ると、海外でもキリスト教信者がどんどん減っているようです。
「宗教離れ」という言葉がありますが、仏教だけではなく、キリスト教にも起きているようです。



?人はなぜ宗教から離れていくのでしょう?

昔の人は、迷い、不安、悲しみを抱えた時、神仏に祈り、心の支えを求めました。

 

しかし今は、相談相手も増えました。

「インターネット」があり、「SNS」があり、そして最近は「AI」のような存在もあります。

 

また生活保護や医療制度も完備して、昔のように「見えない存在」に頼らなくても、答えらしきものを見つけられる時代になったからなのかもしれません。

けれど、本当にそれで良いのでしょうか。

そんなことを考えるたび、私にはひとつの思い出がよみがえります。

小学校5〜6年生の頃、担任の先生がカトリック信者でした。

その縁で友達と一緒に、学校から8キロも離れた教会へ通っていたことがあります。

子どもの足では大変な距離です。それでも、新しい世界を知る楽しさがあり、不思議と遠さは感じませんでした。

教会では日曜学校にも参加しました。皆さん、信者でもない私たちをいつも笑顔で迎えてくれました。

 

教会近くの小さな山へ出かけた時には、「途中で食べて」とお菓子や飲み物を持たせてくれたこともありました。

当時の私は、「宗教」というものを深く理解していたわけではありません。

ただ、その場所には人の温かさがあり、優しさがあり、安心感がありました。

今思えば、あれこそが宗教の原点のひとつだったのではないか・・・!

そんな気がしています。


大人になった今、地域のお寺の役を担う中で感じるのは、宗教に触れる機会が「葬儀」や「法事」といった人生の節目だけになってしまったことです。

でも、本来お寺や教会は、亡くなった時だけ行く場所だったのでしょうか。

近所付き合いも減り、自治会加入率が50%を下回る地域もある時代。

人とのつながりが薄くなり、「孤独」が静かに広がっているようにも感じます。

だからこそ今、お寺や教会の役割は変わる時期に来ているのではないでしょうか。

説法だけではなく、誰でも気軽に立ち寄れる場所。悩みを話せる場所。子どもや高齢者が安心して集まれる場所。宗派を超えて、人が人として支え合える空間

仏教でもキリスト教でも、「人を思いやる心」や「支え合う気持ち」は共通しているように思います。

宗教を信じる、信じないではなく、「心の拠り所」をどう作っていくのか?

AIが答えを返してくれる時代だからこそ、人のぬくもりや、静かに寄り添う場所の価値は、むしろ大きくなるのかもしれません。

廃寺が増えた、宗教離れが進んだ・・・。

 

そんな話を耳にするたびに、少し寂しさも感じます。

 

けれど、それは終わりではなく、「これからの役割」を考える時期なのかもしれません。



皆さんは、これからのお寺や教会に、どんな役割を求めますか?

明日の為にも、そんな話を誰かとして見る事から始めて見ませんか?