隣近所が家族だった頃の懐かしい思い出

 

先日、隣のオジサンから近所の方が亡くなった事をお聞きしました。

家族葬で弔ったようです。

もう49日も過ぎていました。

 

亡くなった方は顔見知りの方です。

49日が過ぎるまで分からなかったとは、とても寂しい。

 

昔はご近所で不幸があると、「口見舞い」と言って、お線香を上げにお伺いしました。

そして葬式には参列し、最後のお別れをしました。

 

それが、最近は亡くなった事の知らせも無く、口見舞いも無し!とすることが多くなりました。

 

そして葬儀の多くは家族葬で、参列すら出来ない事も!

 

こういった変化は葬儀だけではなく、めでたい結婚式も変わってきたようです。


昔は結婚式に出席することは、年に何度もありましたが、最近は結婚する人も少ない?のと、結婚式も身内だけでする人も多い?のだろう。

 

昔は、お付き合いが多かったので、引き出しには香典袋と祝儀袋を常に用意してありましたが、今は香典袋も祝儀袋も減りません。

 

考えて見れば、コロナ禍以降、急激に隣近所の付き合い方が変わってきたように思います。

 

 

  何をするにも隣近所で助け合った時代

 

最近、「近所付き合い」という言葉を耳にするたびに、ふと昔の風景がよみがえります。


私が育った地域には、今ではなかなか見られない、濃くて温かなつながりがありました。

 

その昔はどうだったのか?

そこで、あらためて振り返ってみました。

 

そこは昔ながらの農村で、血縁と土地で結ばれた「○○家一派」と呼ばれる「地類・組合」と言うまとまりがありました。

 

「地類(ジルイ)・組合」

主に三多摩・神奈川県・山梨県など関東周辺で見られる、地縁に基づいた同族結合や村落共同体内の親族組織のことです。本家と分家、または血縁・婚姻関係にある近隣の家々が「組合」や「講中」としてまとまり、法事や相互扶助、共同管理(墓地や山林)を行う、かつての村落構造を示す組織です。

 

長男が跡を取り、弟が結婚する時には本家の土地を分けてもらい分家して、互いに助け合いながら暮らしていく。それが当たり前の時代でした。

 

その地類の更に分家や近くの家は、協力し合う仲間に入り、それを「組合」と呼び、「地類・組合」として協力しあっていました。

 

これは、特別な制度でも、立派な理念でもありません。
生きていくための、ごく自然な仕組みだったのだと思います。

 

その協力とは・・・

 ・麦わら屋根の葺き替え

 ・葬儀のお手伝い

 ・結婚式のお手伝い

 ・その他農作業等々

 

 

まじかるクラウン 麦わら屋根の葺き替え

昔の家は麦わら屋根でした。

(写真は相模原市古民家園)


当時の屋根は麦藁が多く、その葺き替えは大変な作業でした。

当然一人では出来ないので、大勢の人の協力が必要です。

 

そこで麦わら屋根の葺き替えの日になると、地類・組合の人たちが集まってきました。
誰かが号令をかけるわけでもありません。皆手分けしての作業です。

当然、無料奉仕です。

 

屋根に上がる人、藁を手渡す人、下で準備をする人。
それぞれが自分の役割を心得ていて、無駄な指示もありません。


「もう少し右だ」「そこ、押さえてくれ」そんな声が飛び交いながらも、どこか穏やかな空気が流れていました。

 

作業が終わると、家主からタオルやシャツが手渡されました。
それは賃金ではなく、「助けてもらって、ありがとう」という気持ちの品。

そして田舎料理とお酒でおもてなし。


物よりも、心が行き交っていたように思います。


一人では出来ない麦わら屋根の葺き替えも、こうして皆で協力し合っていました。

 

 

お願い 村全体で送った葬式

葬式もまた、家族だけのものではありませんでした。


火葬が無い時代は全て土葬です。

土葬するには、埋葬するために墓を掘らなくてはなりません。

地類・組合の男たちは穴を掘りました。誰も嫌な顔をせず、淡々と。

 

葬儀は亡くなった方の家で行われ、大勢の人が集まります。

その人達を迎えるために、地類の婦人たちが台所に入り、会食の準備から片付けまでを引き受けました。

 

出棺の時には、親戚や知人、近所の人たちが集まり、皆で故人をお見送りしました。
 

 

お祝い 家で祝った結婚式

結婚式も、家で行うのが普通でした。

当然仕出しも無い時代。披露宴の料理なども全部手作りです。

地類•組合の婦人達が、手作りの料理でもてなしました。

 

また結婚式の儀式も、豪華な演出等はありません。

親戚と地類•組合の人が集まり、上座の新郎新婦が夫婦の契りを交わす三々九度(夫婦固めの盃)を行う人前式。


その三々九度は、地類組合の子ども(男の子と女の子)がお酌をしました。

その光景には自然な温かさがありました。


私も小学生の頃、隣の結婚式でお酌をした思い出があります。

 

宴会は、大人も子どもも入り混じり、笑い声が広がる。
新しい人生の門出は、家族だけでなく、地域みんなで祝うものでした。

 

こうした「人寄せ」の時には食器等も沢山必要です。

そのため、村には人寄せに必要な御膳や食器等があり、村人なら誰でも使えました。


 

クローバー 普段の生活でも協力し合う仲

昔の農家は刈り取った稲を庭で脱穀し、籾を庭に干して乾燥していました。


庭に籾を干して農作業に出かけている時、雨が降ったら大変です。

慌てて戻って納屋に取り込まなければならない。

 

でもある時、雨が降って慌てて帰ると、干した稲は倉庫に入れてありました。

隣の方が我が家で干してある稲を入れてくれたのです。

 

また雨が降って来た時も、洗濯物が干してあると仕舞い込んでくれる。と言うのが普通でした。

 

その籾の天日干しの様子はこちらを参考にご覧ください。

 

 

 

お茶 おもてなしは「お茶と梅干し、そして砂糖」

当時は、スーパーもコンビニも無い時代。

今のように、何でも手軽に買う事が出来ないので、お菓子などもありません。


そんな時代では、お客様が来た時のおもてなしは、お茶と梅干しだけ。

梅干しがあれば良い方です。


少し贅沢なおもてなしには、砂糖が出ました。


当時甘い物はなく、砂糖は貴重でした。
その砂糖をスプーンで掌にのせてもらい、そっと舐める。

ざらりとした粒がゆっくり溶けていく、特別のおもてなしでした。

 

あの甘さは、今食べるどんな菓子よりも美味しかった気がします。

 

物がなかった時代。

けれど、人の温かさは、今よりずっと身近にありました。

 

当時は、こうして隣近所、地類組合の皆で助け合って生きた時代でした。


当然、家の鍵はありませんし、あっても閉めた事は無かった。

皆で助け合っていたので、何かを盗む!という事は考えられない時代。

 

 

その付き合い方も、時代とともに大きく変わりました。

便利になり、自由も増えました。


その結果、隣近所とお話する機会も減りました。

雨の日に洗濯物が干してあっても、隣の人が取り入れる!なんてことをしたら大変な事。できません!

 

当然、鍵は必須ですし、防犯カメラやセンサーも必要となり、自分の事は自分1人でするのが当たり前。

 

今はお金を出せばなんでもできる時代。

助け合う!と言う、昭和の時代の生き方は消えてしまったようです。

 

あの頃に戻りたい、という単純な話ではありません。


ただ、確かにあんな風景がここにあったということ。
隣近所が、ほとんど家族のように支え合っていた時間があったということ。

それだけは、そっと心に残しておきたいと思い、ここに記録としてのします。

 

もしこの記事を読んで、「そんな時代もあったのか」と少しでも感じてもらえたなら、嬉しいです。

 

あの甘い砂糖の味とともに、私はあの風景を、これからも忘れずにいたいと思います。

 

最後までお付き合い有難うございました。バイバイ