12月8日
西伊豆で6日の夜から3日間、
今日は帰る日。
チェックアウトをして外へ出ると、
今日も団体さんを待つバスが並んでいた。
人気ですね!
今日の天気予報は昼頃より雨。
でも、まだまだ綺麗な富士山を見る事が出来た。

途中まで来た時、土肥金山の看板。

土肥金山は寄ったことないな~と言う事で、
そこで、いつもの思いつき行動発令!
寄って来ました。

チケットを購入して入場。
門を潜る時、人形が声を掛けてきた。ビックリ。


広場には金に因んだ物があった。

広場の中央に大きな池。
そこには人魚ならぬ黄金色の工夫の像 

池の中には黄金色の鯉。

ここが坑道への入り口(右側)

坑道の案内図。

さあ、坑道見学スタート!
コンクリートの綺麗な坑道を少し進むと、古い坑道が先に続く。

山神社

さらに坑道は続く。

当時の作業を再現して居る人形たち。


山留作業


各場所には、案内板。

5か国語で書かれた案内板には、
以下のように書かれてあった。その日本語部分をご紹介。
山留(やまどめ)
留木(坑木)を使って、落盤や落石を防ぐために坑道の普請をする作業を山留作業といい、これに従事する者を山留大工と言います。山留めには、目的・場所により数多くの種類があり、特殊な技能を要する作業であります。
この山留の技術があったからこその金山採掘ですね。
構内風景

坑内の通路を廊下と言います。穿子は足半(短い草雑)をはき当尻を腰につけて真っ暗な廊下を片手に杓(植物油を用いた灯)を持ち合砂(ホッパとも云う)や鑽を担い切羽に向かいます。
送風

採掘が進み、切羽が深くなると、通風が悪くなり湧出する温泉熱もあって、気絶え(酸欠)で倒れたり、灯火も消えて作業が出来なくなります。これを防ぐため、各所に唐箕(木製の手回し送風器)を使って空気を切羽に送りました。
切羽(きりは)

坑内の採掘現場を切羽といいます。江戸時代には、女性も坑内で働くことが多く、中には夫婦一緒に働き、男は金堀、女は運搬の仕事をしました。坑内は、地熱や温泉熱で大変暑いので、裸に近い姿で働かざるを得ませんでした。
坑内風呂

土肥の温泉は金山から湧き出したのが始まりと言われており、当時から坑内で湧出した温泉は、坑内で働く金堀たちにとって作業の疲れを癒しながら最も楽しい一時の憩いの場所でありました。
何処までも続く坑道

坑道を進むと、お地蔵様。
金子地蔵尊

この地蔵尊は、土肥金山の金子地蔵と言われ親しまれています。地蔵菩薩の願いは、一才の衆生にどこにいても救いの手を差し伸べる、六道救済の信仰から、延命、厄除、治癒を願って穿子(抗夫)達が、お祀りして信仰をあつくしていました。
予想以上に長い坑道だった。
今は電灯があるが、当時は相当暗かったと思う。
暑さと狭い坑道内の作業は、大変な重労働だったと想像できる。
色々な事を考えながらの坑道見学。
勉強になりました。
当時の様子が分かる演出に、子供が見ても分かり易そう。
坑道を出た所に、当時の坑道外の作業風景。

さっき歩いた坑道が、この山の下。

この左の建物内には、当時の資料がいっぱい展示されていた。
当時の金山の街並み?

採掘された金で作られた小判や、当時の作業風景が紹介されていた。



千石船の大きな模型(1/8)


江戸時代、日本の大型商船として使われていた弁財船の俗称で、籾米千石(約150トン)を積載できることから千石船と言われていた。土肥金山の金・銀鉱は、河口から伝馬船で積み出され、沖で千石船に積み替えて駿府の銀座に運搬されていた。また、往路には金山で必要な資材や食料・雑貨などが運ばれてきた。(説明書きより)
金の延べ棒。
一撫でさせて頂きました。


お店もありました。来年の干支も金色です。

別の建物では砂金堀体験が出来るようだ。

人気のようです。

こんなに沢山採れたらいいね!


土肥金山見学、
予定外の寄り道だったが、予想以上に満足。
土肥金山に、
ご興味ある方はこちらをご覧ください。
寄り道したので10時過ぎ、
雨が降らないうちに帰るとします。
朝から出かける予定が、夕方出発となり、
夕焼けを追いかけるドライブだったり、
西伊豆へ泊まりながらも、静岡市へドライブしたり、
大変忙しい旅でした。
しかし、素敵な出会いがあったり、発見があったり。
旅って素敵ですね。
こんな旅に、
最後までお付き合い有難うございました。
